最近Kendrick Lamarについて考える過程でEckhart Tolleについて調べたのは以前書いた通り。
トールの考え方でナルホドーと思ったのはエゴについて。簡単に言うとエゴというのは本当の自分じゃないもので、言ってしまえばアイデンティティー、つまりアイデンティファイされたものなんだけど、トール曰く自分を自分じゃない者・物でアイデンティファイしたものが自分なはずないじゃん、という事らしい。
例えば、髪を染めた自分、ひげを生やした自分、もっとわかりやすく言えばブランドものの服を着た自分、会社の社長である自分、みたいな感じ。それを形への同一化と表現している。
エゴは常に飢えており、どんどん形への同一化をしたがる。そしてそれは死ぬまで尽きない。あれ欲しい、あー新発売したあれが今度欲しい、課長になったから次は部長になってやる、みたいな。そんな常に飢えている、充足感がない状態なので、エゴの本質は絶望・苦しみだという。
なんかこれ、今の釣りに非常に当てはまる気がしたんですよね。
本当の意味で釣りを楽しむって、例えば大きなサイズを釣るためにアレコレするとか、いっぱい釣るためにアレコレするとか、そういう事なんだろうか?そして、SNSの流行はエゴの勢力拡大に多大に寄与している気がする。
自分が魚の写真を嫌うのはそのためだ。記録ならいいけど、かっこいいポーズで魚を持って写真を撮る事って何の意味があるんだろうか?と思う。そんな事をしないと釣りって楽しめないんだっけ…?
あとは釣り道具。自分は釣り道具には大したこだわらない。どちらかといえば道具の良さ(かっこよさも含む)やゲーム性を求めるフライフィッシャーとしてはかなりあぶれ者だと思う。もちろん最低限のこだわりというか準備はある。でも、魚が釣れればそれでいい(魚へのダメージは気にする)。フライが飛べばラインは何でもいい。
でも、新しいリールが出たら買わなきゃ!とか、インプレッションをブログに書かなきゃ!とか。竿があるのにこっちの方がこういう状況の時には釣りやすいから買う、とか。
なんか、釣りって拝金主義的な側面が強い趣味だなぁと思う。アウトドアの趣味全体が最近ブームになってそういう側面が助長されてる気もするのが非常に嫌だ。
かく言う自分も全てのエゴを取り去ることができてはいないと思う。ただ、魚を綺麗に見せて写真を撮ろうとする事をやめたり、サイズを測るのをやめたり、本命が釣れなくても何かしらの魚は釣れていい天気で竿を振れたらそれなりに楽しかったーと思えたり、前はエギの種類をいっぱい持っておこうとなんかこう「釣り具をいっぱい揃える事」に意味を見出していたけど今は必要最低限しか釣具店に行かなくなったり…など、取り去れているエゴもあるのかな、とは思う。だからこそ、自分は年々釣り自体を楽しむことができるようになってきてるのかなー、と思う。
…思うけど、そもそも釣りって趣味が人間のエゴである以上、やはり魚へのネガティブな気持ちは消える事はない。それだけは確実に取り去れないと思う。取り去れるとすれば、食料確保のために釣りをする、しかない。年をとれば、ダブルハンドも触れなくなるし源流にも行けなくなるだろうから、その時はより「悟った」状態で釣りできるのかなぁ。そういえばトールも「死の間近にいる人はさとりに至りやすい(過去や未来に囚われないから)」と言ってたっけ。
ただ、トールの考え方で一番自分が疑問に思っている事は、これは自分の幸せ・さとりのための事であり、世界が平和になるにはみんながさとりを得る(ひらく?)必要がある、という事だ。釣りも世界も、エゴまみれ。トールの考え方では自分は幸せになれるかもしれないが、世界は幸せにできない。もちろん、何事もまずは自分を見つめなおすことが大事だというのは、ケンドリックもそうだしマイケル・ジャクソンも歌ってたことだ。
何が言いたいかというと、「本当の釣り」を見つけることができるように、もちろん自分も顧みつつ、他の釣り人の意識も少しでも、1人2人ずつでも変えていくことができたらいいなぁ、と思うのです。