2019(令和元)年9月28日(土)

 

洋の東西を問わず

 

歴史上に残る絶世の美女は

 

クレオパトラと中国唐の時代の楊貴妃でしょうか

 

古代エジプト、プトレマイオス王朝、最後の女王クレオパトラは

 

紀元前69年から紀元前30年に実在した

 

父はプトレマイオス12世、母はクレオパトラ5世です

 

クレオパトラ7世です

 

ベルリン美術館蔵  ウィッキペディアより

 

 

古代エジプト、プトレマイオス朝では権力を巡る骨肉の争いが常態化し

 

紀元前51年クレオパトラが18歳の時、父王が死亡

 

父の遺言と慣例にのっとりクレオパトラは兄弟のなかの最年長の弟

 

プトレマイオス13世と姉弟婚をし共同で統治を始めます

 

強大なローマとの同盟がエジプト存続の道と考えるクレオパトラに対し

 

弟王は側近の介入もあり亀裂が走っています

 

そのころ(紀元前49年)ローマでは

 

ガイウス、ユリウス、カエサル(英語読みではジュリアス、シーザー)と

 

ポンペイハウス(元老院派)との内戦が勃発

 

共に政治家、軍人の巨頭でそれまでローマの政治を統治してきた二人です

 

ルーブル美術館所蔵  ウイッキペディアより

 

ガイウス、ユリウス、カエサル(シーザー)

 

 

初戦を制したシーザー軍は逃げるポンペイハウスを追い

 

戦火はイタリア、ギリシャ、エジプト、北アフリカ、ヒスパニアにまで及びました

 

ポンペイハウス軍がエジプトに到着したとき(紀元前48年春)

 

クレオパトラは父王の時代からの繫がりで元老院派を支援し

 

兵士と食料の支援をします

 

ローマからの独立を標榜するプトレマイオス13世は

 

クレオパトラのこの動きに不信を募らせクレオパトラを東部国境の

 

ペルシオンに追いやります

 

映画クレオパトラはちょうどこの頃から始まります

 

ポンペイハウスを追いシーザーもエジプトのアレクサンドリアに入城します

 

危に敏いプトレマイオス13世は、ポンペイハウスを見限り

 

入城したシーザーにポンペイハウスの首を差し出すのでした

 

シーザーにとってポンペイハウスは政敵ではあるものの

 

我が愛娘の婿でもありその死を悼むのでした

 

立場の危うくなったクレオパトラは大胆にもシーザーの許に向かいます

 

シーザーへの贈り物と称して部下に絨毯を運ばせ

 

自身はその絨毯に身を隠しシーザーとの対面を果たします

 

 

絶世の美女でもあり人を逸らさない魅力的な話術

 

小鳥のような美しい声で

 

私を王にしてほしいと心身ともににじり寄られシーザーは

 

クレオパトラの意を汲むのでした

 

シーザーの仲介でプトレマイオスとクレオパトラの共同統治がなされますが

 

クレオパトラがシーザーの愛人となり益々発言力が強くなり

 

プトレマイオス13世は面白くありません

 

和解15日目にプトレマイオスはシーザーに戦いを挑みますが

 

歴戦のシーザーにかなうはずもなく敗れ

 

側近ともども城から追い出されてしまいます

 

クレオパトラはエジプト女王となりシーザーとの間には

 

男の子も生まれました(カエサリオン)

 

 

シーザーは残る元老院派の残党を征伐し

 

ローマへの凱旋を果たしたのは紀元前47年でした

 

約2年ほどエジプトに居城していました

 

ローマに戻ったシーザーはローマの元老院派の有力者を武力で次々と陥れ

 

ローマ帝国内においてその地位を確固たるものにし

 

終身独裁官に就任します

 

クレオパトラがカエサリオンを抱えローマのシーザーの許に

 

向かったのはシーザーの絶頂期でした

 

ローマ市民の大観衆に見守られクレオパトラは

 

スフィンクスを形どった台座の上で毅然たる美しさを崩さず

 

まさしく王女の風格をローマ人に誇示するのでした

 

 

 

絶対的な権力を望むシーザーは自ら皇帝になることを望みますが

 

多くのローマの議員たちは彼の許を去っていきます

 

紀元前46年3月15日

 

皇帝の裁定が出る元老院に向かうシーザーに

 

数人の共和主義者の議員たちがシーザーを取り囲み暗殺します

 

胸の刺し傷23か所に及んだとあります

 

 

この時、シーザーの発した

 

ブルータス、お前もかの名セリフは

 

映画がカットされたため回顧シーンとして登場してきます

 

主のいなくなったローマから

 

クレオパトラは我が子と共にエジプトに戻るのでした