2019年(平成31)年1月16日(水)
/![雨](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/021.gif)
![くもり](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/027.gif)
![雨](https://stat100.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/021.gif)
寒い一日に寂しいニュースです
横綱、稀勢の里の引退です
第72代横綱、稀勢の里寛(ゆたか)
出身は茨城県牛久市(生まれは兵庫県芦屋市1986(昭和61)年7月3日生まれ)
本名、萩原寛(ゆたか)
2歳の時に一家が茨城県竜ケ崎市に引っ越し
以降、中学2年時に牛久市に転居も
寛はそのまま竜ケ崎市内の中学に通い
稀勢の里が牛久で過ごしたのはわずか1年余の期間でした
187cm 184kg B型
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/55/f0/j/o0550038314491473167.jpg?caw=800)
生まれたときから3600kgの大きな赤ちゃん
小学2年生で相撲に小学4年生で野球に興じる少年でした
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/8e/84/j/o0500034514491473171.jpg?caw=800)
中学時には県の野球名門校常総学院高校からの勧誘もあったほどでしたが
自分は身体がデカいだけで野球は上手くないと断っています
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/97/bc/j/o0361060014491473173.jpg?caw=800)
中学2年時に相撲部屋の見学に出向き
最初に訪れたのが鳴門部屋
当時の鳴門親方(第62代横綱隆の里)から将来の太鼓判を押され
2002年2月、中学卒業と同時に15歳で鳴門部屋に入門します
(結局相撲部屋訪問は鳴門部屋のみでこの鳴門親方との出会いが相撲に導いたのでした)
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/80/d8/j/o0500028214491473193.jpg?caw=800)
角界においても鳴門部屋の稽古の厳しさは特筆ものでした
朝4時からの猛稽古
稀勢の里の弟弟子、大関の高安は7回も部屋を逃亡しています
稀勢の里の横綱土俵入り、雲竜型
太刀持ちの高安
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/58/7e/j/o0500040314491473196.jpg?caw=800)
四股名は本名の萩原
萩原を大器と見込んだ鳴門親方は
部屋頭の若の里(最高位東関脇)の付き人に指名し
若の里は連日の猛稽古で萩原を相撲用語でいう可愛がりました
初土俵から安定して勝ち星を重ねてきた萩原は
2003(平成15)年5月場所
7戦全勝乍ら三段目優勝を逸し、花道で人知れず涙を流します
その姿を見た第68代横綱の朝青龍(モンゴル出身)からその気持ちがあれば
お前は強くなると慰められています
十両昇進は17歳9か月
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/86/ba/j/o0501036314491473199.jpg?caw=800)
第65代横綱貴乃花に次ぐ史上2番目の年少記録でした
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/80/df/j/o0500046814491473209.jpg?caw=800)
十両は3場所で通過
2004(平成16)年11月場所で新入幕を果たします(18歳3か月)
これも貴乃花に次ぐ最年少入幕記録です
新入幕を機に四股名を今までの萩原から
親方の稀な勢いで駆け上がるの意を込めた稀勢の里の名がつけられます
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/68/1f/p/o0290027314491473214.png?caw=800)
新入幕からの1年は
ぎりぎりの勝ち越し、負け越しの相撲が続きます
2005(平成17)年9月場所
12勝3敗で初の三賞、敢闘賞を受賞(19歳2か月)
2006(平成18)年
3月場所、東前頭7枚目で2度目の二けた勝利10勝5敗で東前頭筆頭に
翌5月場所で8勝7敗と勝ち越し
7月場所に初の三役、19歳11か月で小結に昇進します
(貴乃花、北の湖、白鵬に次ぎ年少4番目)
初三役場所は8勝7敗と勝ち越し
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/48/2b/j/o0321048214491473220.jpg?caw=800)
翌9月場所にも8勝7敗ながらも横綱朝青龍を倒したことが評価され初の殊勲賞を受賞
この年は幕内に昇進以来
初の年間全場所勝ち越しを達成します
若干20歳の若手力士で将来を期待されていましたが
2007年、2008年とは三役と幕内上位をエレベーターする時期が続きます
2009(平成21)年3月場所には初の関脇に昇進するも
5勝10敗と大敗し幕内に…
初土俵から大関までの星取表です
殊勲賞5回 技能賞1回 敢闘賞3回 金星3個
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/18/11/j/o0550040014491473226.jpg?caw=800)
長らくくすんでいた稀勢の里が再び脚光を浴びだしたのは
2010(平成22)年11月場所での第69代横綱白鵬との一戦でした
63連勝中の破竹の勢いの横綱白鵬を
寄り切りで破り連勝記録にストップをかけました 24歳でした
厳しかった鳴門親方が褒めたのは唯一この時が最初で最後でした
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/f5/d5/j/o0407055014491473229.jpg?caw=800)
以降、稀勢の里は日本人力士の筆頭格として
モンゴル勢対抗の旗頭として
多くの相撲ファンが期待を抱きました
2011(平成23)年
稀勢の里は関脇に返り咲き1月場所に10勝5敗
この場所も横綱白鵬を破っています
狼煙の挙がった稀勢の里ですがこの年の春に大相撲界にショッキングな
出来事が暴露されます
八百長問題が発覚し、この年の春場所は中止となり
八百長認定者23名の引退、退職、解雇等の処分が下され
謝罪する放駒理事長(元大関魁傑)他の相撲協会幹部
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/be/90/j/o0500029814491473233.jpg?caw=800)
大相撲存亡の危機でした
次の5月場所は本場所の代わりとして
技量審査場所として観客料を取らずに無料公開で開催されました
力士の成績は公式記録としては残しますが
TV、ラジオ等の中継は無し懸賞金もありませんでした
(優勝は13勝2敗の一人横綱白鵬7場所連続の19回目のVでした)
稀勢の里は8勝7敗で辛うじて関脇を死守します
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/f9/4e/j/o0250018814491473236.jpg?caw=800)
7月の名古屋場所
稀勢の里は西関脇で10勝5敗
9月場所
西関脇で12勝3敗
直近3場所33勝の大関盗りの11月九州場所に挑みます
ノルマは11勝
しかしこの九州場所の直前に師匠の鳴門親方が急逝、試練の場所となります
10勝5敗
33勝に1勝足りませんが
直近6場所中5場所の二けた勝利
第一人者横綱白鵬にこの1年間3勝3敗の成績を加味され大関に推挙されました
新入幕から所要42場所で大関は史上5位のスロー昇進でした
ただ年齢はまだ25歳です