2018(平成30)年11月21日(水) 晴れ

10月から11月にかけ

義父の遺した藤山寛美のVHS特選十快笑を見ていました

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十快笑の10作品です

最近はDVDが主で

ビデオテープは過去のものになってしまいましたね

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藤山寛美は上方喜劇を代表する

喜劇役者で数多くの名作を残しています

あほぼんを演じれば右に出るもののいない天下一品の芸でした

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十快笑の前半5本は時代物です

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トップに登場は 『お種と仙太郎』  70分

住吉神社前の茶店のおかみ、お岩

一人息子に嫁を迎えたものの、その仲の睦まじさに

寛美扮するお岩の嫁いびりは圧巻です

嫁のお種…四条栄美  仙太郎…曾我廼家八十吉

さすがの演技でした     ★★★★

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2本目は 『色気噺お伊勢帰り』  65分

左官の喜六(寛美)と大工の清八が長屋の連中とお伊勢参り

いつも尻に敷かれている喜六が女房に一泡吹かせようと

伊勢古市の油屋お紺に惚れられたという出まかせを清八に頼みます

ところが伊勢からお紺が清八を慕って現れます…

曾我廼家文童、四条栄美    ★ ★

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3本目は 『篭や捕物帳』   45分

前田能登守というお殿様と赤鞘主水という怪盗の寛美二役です

小島慶四郎、四条栄美    ★ ★

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藤山寛美の本名は稲垣完治

1929年(昭和4)6月15日

関西新派、成美団の俳優、藤山秋美と新町のお茶屋、中糸の女将

稲垣キミとの間に大阪市西区で生まれます

4歳の時に父が病死

新派の代表的俳優、花柳章太郎が

幼子に藤山寛美という芸名の名付け親となります

寛美は4歳で初舞台に立ち

以降、関西新派に属し13歳で2代目渋谷天外に誘われ松竹家庭劇に移ります


4作目は 『八人の幽霊』

中川雅夫、 四条栄美   ★★★

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日本国は第二次大戦に突入

戦争は激化し

大阪でも大空襲により芝居小屋は焼け落ち

寛美も16歳で(昭和20年3月)皇軍慰安部隊の一員として満州に渡り

その年の8月に奉天で終戦を迎え一時期ソ連に抑留されます

解放後はハルビンで靴磨きやキャバレーのボーイ

ブローカー等で2年生き延び昭和22年に帰国します    18歳


5巻目は 『浪速の鯉の物語』

遊女こい川大夫に恋した池番人の忠蔵…

★ ★

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帰国早々寛美は

曾我廼家十吾、2代目渋谷天外、浪花千恵子らと

昭和22年(1947)、松竹新喜劇を結成します

昭和26年(1951)師匠であった渋谷天外が脳出血で倒れると

寛美は実質的な座長となります  寛美22歳です


十快笑の後半、現代物5作品です

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第6巻 『花ざくろ』

頼りない男にしか見えなかった植木職人三次郎

最後に職人気質の気概をみせ

人の心、女房の心も捕えます

★★★★

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生来、俳優の子として生まれ

私生活でも芸人を貫き通した藤山寛美

遊ばん芸人は花が無うなるという母の一家言を守り

夜の街を金に糸目もつけず豪遊しました

キタの雄二(南都雄二)かミナミのまこと(藤田まこと)

東西南北、藤山寛美といわれた豪遊振りで

バーのボーイにチップに車一台を与えたというエピソードもありました

そのため多くの負債を抱え

1966年(昭和41)には当時の金額で

1億8,000万円の負債を抱え自己破産   寛美37歳

松竹、松竹芸能から契約を解除され

舞台にも立てず寛美は東映の岡田茂社長を頼り

任侠映画の助演等で生活をしのぎました


7本目の作品 『大阪ぎらい物語』

大坂船場の河内屋

河内屋の次男、栄二郎が店の女中お八重に恋します…

★ ★ ☆

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寛美の去った松竹新喜劇では

ミヤコ蝶々と南都雄二を看板に興業を打ちますが

客足が伸びず

ついに松竹は寛美の負債を立て替え舞台に呼び戻します


8作目  『下積の石』

蓄えた大金を渡し、心中しようとした夫婦を助けた労務者の万吉

しかしこの美談は飯場仲間の仙太郎(高田次郎)に横取りされます

事実を告げず、友を思い恋する女にも別れを告げ

切なくこの場を去ります…

★★★★☆

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復帰後の寛美は

松竹新喜劇の文字通りの看板となり

小島慶四郎、曾我廼家鶴蝶、伴心平、千葉蝶三郎などの

芸達者の団員を集め、そのアドリブ芸は絶品でした

1971年(昭和46)には阿保まつり、1972年にはリクエスト公演を取り入れ

1973年(昭和48)に芸術選奨文部大臣賞を受賞しています

1970年代は寛美の芸生活のピークでした   40代です


9作目 『愚兄、愚弟』

兄は本家魚惣を名乗り、弟は本店魚惣を…

義妹の縁談をめぐり騒動が…

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20年間にわたり

舞台を1日も休まず。大阪万博にすらいけなかったという逸話もあります

立て替えてもらった借金は19年目で完済しています

最終  10巻目です  『人生双六』

貧しい二人がガード下で出会います

額に汗して頑張って5年後、この場所で再会しましょう

一人は会社の次期社長、一人はリストラでその日暮らし

会うに会えないその心情…

★★★☆

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寛美の芸への思いは強烈で

それが高じて次第にワンマンとなり1977年には主力の座員であった

曾我廼家鶴蝶、小島秀哉が体力の限界を理由に退団します

1980年(昭和55)代になると興行成績も下降

1990年(平成2年)に入ると寛美自身の身体に変調が現れます

肝硬変と診断され

その年の(平成2年)5月  60歳の若さで亡くなりました

女優の藤山直美は5人姉妹の3女

藤山扇次郎は孫(寛美の5女の息子)です


あほ役をやらせたら右に出るもののいない芸人でした

早かった死が悔やまれます