2018(平成30)年3月28日(水)

今年の桜は

例年に比べ一週間ほど早めの開花です

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地元紙の記事です(夕刊三重)

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大河内(おかわち)城は

応永22年(1415年)南朝方の伊勢国司(第3代)

北畠満雅が築城した山城です

南北朝合一後、和約を反故にする北朝方の足利幕府との戦闘に備えた城です

地理的に現在の松阪市市街から

国道166号線を南西に9km程走った地にあります

国道から少し入った地点にあり

Ⓟに駐車し歩きます

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登城口のゆるやかな坂

左手に搦手門跡と書かれた石柱があります

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右には小さな花びらのしだれ桜です

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少し行くと城跡らしい石組みが見えてきます

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前方にしだれ桜も見えてきました

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左側の石垣の途中に石段があり

上ってみると小さな広場があり表忠碑が建っています

この辺りが二の丸の跡地です

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この二の丸の北側に位置する

平坦な地は馬場跡でここにしだれ桜が植えられています

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大河内小学校の生徒さんが書かれた案内板です

馬場と記されています

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建武の中興は

鎌倉幕府が滅亡した3年後の元弘3年/正慶2年(1333年6月)

後醍醐天皇が政権を宣言、開始した

天皇親政の政治制度です

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しかしこの建武の中興は

足利尊氏を中心とした武士層の不満を抱き僅か3年で崩壊します

1336年、尊氏は新たに光明天皇(北朝)を擁立し

後醍醐天皇は京を脱出し吉野(南朝)に逃れます

(南朝方、楠木正成等の活躍する時代です)

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南北に分かれたこの56年間の時代を南北朝時代と言い

伊勢国司北畠氏は南朝の有力武将でした

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北畠家の始祖は雅家

鎌倉時代前期1200年代はじめ

源通親の五男で中院家の始祖、通方の子、雅家が

洛北の北畠(現在の京都御苑北部)に移ったことで北畠を名乗り

代々和漢の学を以って仕えていました

鎌倉時代末期(1330年代)に北畠家に神皇正統記を著した親房が出ます

丁度、建武の中興の頃で

北畠親房は御醍醐天皇(南朝)に取り立てられ

南朝方、屈指の忠臣となります

親房の長男顕家は父と共に足利尊氏を京から追放する武勲も立て

次男顕信とともに南朝方の有力な後ろ盾となります

そして親房の三男顕能(あきよし)

伊勢国司に任じられます(建武の中興の頃1336年)

伊勢北畠家の始祖となります

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伊勢国に赴任した顕能(あきよし)は

伊勢神宮外宮の度会家行の援助で田丸城(平山城)を本拠とします

時代は南北朝対立のまっただ中

各地で戦乱が起こりこの伊勢の地でも小競り合いが絶えません

幾たびかの戦乱で田丸城は落ち

1342年~43年にかけ顕能は本拠を一志郡多気の地に移します

霧山城とも多気(たげ)城とも言われます

(現在の津市三杉町多気の地です)

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1350年代に入り

顕能(あきよし)は足利幕府の内乱につけ入り京へ上洛

楠木正儀(正成の3男)や千種顕経らと共に

二代将軍足利義詮(尊氏の嫡男)を近江に駆逐します

しかし南朝による京の支配は続かず

義詮(よしあきら)が勢を回復し上洛すると南朝方は京を撤退

顕能(あきよし)も本拠多気城に戻っています

その後も南北朝の戦闘は繰り返し続けられています

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伊勢国司北畠家2代目は顕能(あきよし)の二男顕泰(あきやす)

1392年南北朝統一後は室町幕府に帰依するも

火種を抱えた戦乱は後を絶えません

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1402年ころ、伊勢国司3代目に満雅(みつまさ)がつきます  

2代目顕泰(あきやす)の次男です

京、及びその周辺、いや日本中が戦乱に巻き込まれている時期です

南北朝より天皇家、将軍家を巻き込んだ抗争が

絶え間なく続いています

満雅(まさみつ)も伊勢国内にも幾つもの城を築き

対室町幕府に対峙しています

その城の一つがここ大河内(おかわち)城で1415年に築城されました

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大河内城の城主に北畠満雅は弟の顕雅(あきまさ)をあてます

これにより顕雅は北畠家傍流の大河内家の始祖となります

1429年満雅が岩田川の戦いで討ち死にした時

嫡男の教具(のりとも)が7歳であったため

叔父の顕雅が教具が19歳になるまで国司の代行を務めます

その後の顕雅(あきまさ)の子孫は大河内(おかわち)氏を称し大河内御所と呼ばれます

北畠家には三御所(田丸御所、坂内御所、大河内御所)があり

大河内御所はその筆頭でした

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時代は応仁の乱(1467~1477)を経て

世はまさに戦国時代、下剋上の時代です

ついに永禄12年(1569年)8月、伊勢国内にも織田信長勢が侵攻してきます

伊勢8代国司、北畠具教(とものり)は

本拠地多気城(鷺山城)からここ大河内城に嫡子具房とともに

総勢10,000人で陣を張ります

5代大河内城主、具良は大淀城(明和町)で合戦に備えます

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織田勢の先鋒滝川一益は50,000の兵を率い

伊勢の諸城を落とし

北畠家の領域、最北端の木造城を凋落で落とします

(1569年5月)現在の津市木造町です

8月に入り信長も参戦

大河内城の東2kmの桂瀬山に陣を張ります

8月26日 木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が

彼にしては珍しく最前線で

大河内城の出城である阿坂城(白米城)攻めを敢行しています

城には大宮含忍斎入道が率いる1000人の大宮党がこもっています

総勢8000人を率いた藤吉郎は

人海戦術の正攻法で指揮を執りますが

敵の矢が肩口の鎧の隙間から刺さる怪我を負ってしまいます

怪我を負いながらも苛烈に攻め続け城を一日で落としました

藤吉郎(秀吉)にとって

この阿坂城が最初で最後の戦場傷でした

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8月29日早暁

織田勢は池田信輝、浅井長政らが総攻撃をしかけ決戦が開始します

大河内城は坂内川と矢津川が合流する丘陸突端部に

後方に山、谷の要害に囲まれた難攻不落の山城です

北畠勢の抵抗は激しく一進一退の攻防が続きます

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籠城1ケ月9月末になると

さすがに大河内城内に兵糧も枯渇、餓死者も出るありさまで

北畠具教は和睦を受け入れ籠城を断念します

10月3日

信長の三男茶筅丸(後の信雄)を北畠具房の養嗣子として受け入れ

大河内城を明け渡し自らは三瀬館に身をおきます

一方、大淀城の大河内城主、具良は

織田水軍を率いる九鬼嘉隆の攻撃を受け落城しています

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大河内城落城後の6年後

天正3年(1575年)茶筅丸は元服し信雄と称し

第10代北畠氏当主となります

そして信雄(のぶかつ)は大河内城を廃城とし

本拠を田丸城に移します

帰り道になります

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信雄が田丸城に移って1年後

天正4年(1576年)織田信長の命により

三瀬館に隠遁していた第8代北畠具教は刺客により殺害

同時に田丸城内に残る

北畠一族は全員が集められ誅殺、北畠家の滅亡となります

その中には病気療養中の6代大河内城主教通も含まれていました

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坂道を振り返ります

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同じく振り返ります

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前方に伊勢自動車道も見えます

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もの哀しい

大河内城でした

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