2018(平成30)年3月28日(水)
今年の桜は
例年に比べ一週間ほど早めの開花です
![イメージ 1](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/05/f1/j/o0393065014491461950.jpg?caw=800)
地元紙の記事です(夕刊三重)
![イメージ 2](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/4c/e3/j/o0393050014491461967.jpg?caw=800)
大河内(おかわち)城は
応永22年(1415年)南朝方の伊勢国司(第3代)
北畠満雅が築城した山城です
南北朝合一後、和約を反故にする北朝方の足利幕府との戦闘に備えた城です
地理的に現在の松阪市市街から
国道166号線を南西に9km程走った地にあります
国道から少し入った地点にあり
Ⓟに駐車し歩きます
![イメージ 3](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/99/d1/j/o0500037514491461975.jpg?caw=800)
登城口のゆるやかな坂
左手に搦手門跡と書かれた石柱があります
![イメージ 4](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/23/b0/j/o0500037514491461981.jpg?caw=800)
右には小さな花びらのしだれ桜です
![イメージ 5](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/22/64/j/o0500037514491461989.jpg?caw=800)
少し行くと城跡らしい石組みが見えてきます
![イメージ 6](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/24/9b/j/o0500037514491461994.jpg?caw=800)
前方にしだれ桜も見えてきました
![イメージ 7](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/e9/d9/j/o0500037514491462003.jpg?caw=800)
左側の石垣の途中に石段があり
上ってみると小さな広場があり表忠碑が建っています
この辺りが二の丸の跡地です
![イメージ 8](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/55/39/j/o0500037514491462011.jpg?caw=800)
この二の丸の北側に位置する
平坦な地は馬場跡でここにしだれ桜が植えられています
![イメージ 9](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/b2/de/j/o0500037514491462017.jpg?caw=800)
大河内小学校の生徒さんが書かれた案内板です
馬場と記されています
![イメージ 10](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/8f/c4/j/o0500037514491462026.jpg?caw=800)
建武の中興は
鎌倉幕府が滅亡した3年後の元弘3年/正慶2年(1333年6月)
後醍醐天皇が政権を宣言、開始した
天皇親政の政治制度です
![イメージ 11](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/50/07/j/o0500037514491462032.jpg?caw=800)
しかしこの建武の中興は
足利尊氏を中心とした武士層の不満を抱き僅か3年で崩壊します
1336年、尊氏は新たに光明天皇(北朝)を擁立し
後醍醐天皇は京を脱出し吉野(南朝)に逃れます
(南朝方、楠木正成等の活躍する時代です)
![イメージ 12](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/d8/af/j/o0500037514491462040.jpg?caw=800)
南北に分かれたこの56年間の時代を南北朝時代と言い
伊勢国司北畠氏は南朝の有力武将でした
![イメージ 13](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/a9/53/j/o0500037514491462045.jpg?caw=800)
北畠家の始祖は雅家
鎌倉時代前期1200年代はじめ
源通親の五男で中院家の始祖、通方の子、雅家が
洛北の北畠(現在の京都御苑北部)に移ったことで北畠を名乗り
代々和漢の学を以って仕えていました
鎌倉時代末期(1330年代)に北畠家に神皇正統記を著した親房が出ます
丁度、建武の中興の頃で
北畠親房は御醍醐天皇(南朝)に取り立てられ
南朝方、屈指の忠臣となります
親房の長男顕家は父と共に足利尊氏を京から追放する武勲も立て
次男顕信とともに南朝方の有力な後ろ盾となります
そして親房の三男顕能(あきよし)は
伊勢国司に任じられます(建武の中興の頃1336年)
伊勢北畠家の始祖となります
![イメージ 14](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/4a/c2/j/o0500037514491462054.jpg?caw=800)
伊勢国に赴任した顕能(あきよし)は
伊勢神宮外宮の度会家行の援助で田丸城(平山城)を本拠とします
時代は南北朝対立のまっただ中
各地で戦乱が起こりこの伊勢の地でも小競り合いが絶えません
幾たびかの戦乱で田丸城は落ち
1342年~43年にかけ顕能は本拠を一志郡多気の地に移します
霧山城とも多気(たげ)城とも言われます
(現在の津市三杉町多気の地です)
![イメージ 15](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/1d/8e/j/o0500037514491462059.jpg?caw=800)
1350年代に入り
顕能(あきよし)は足利幕府の内乱につけ入り京へ上洛
楠木正儀(正成の3男)や千種顕経らと共に
二代将軍足利義詮(尊氏の嫡男)を近江に駆逐します
しかし南朝による京の支配は続かず
義詮(よしあきら)が勢を回復し上洛すると南朝方は京を撤退
顕能(あきよし)も本拠多気城に戻っています
その後も南北朝の戦闘は繰り返し続けられています
![イメージ 16](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/16/e0/j/o0500037514491462067.jpg?caw=800)
伊勢国司北畠家2代目は顕能(あきよし)の二男顕泰(あきやす)
1392年南北朝統一後は室町幕府に帰依するも
火種を抱えた戦乱は後を絶えません
![イメージ 17](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/6b/02/j/o0500037514491462074.jpg?caw=800)
1402年ころ、伊勢国司3代目に満雅(みつまさ)がつきます
2代目顕泰(あきやす)の次男です
京、及びその周辺、いや日本中が戦乱に巻き込まれている時期です
南北朝より天皇家、将軍家を巻き込んだ抗争が
絶え間なく続いています
満雅(まさみつ)も伊勢国内にも幾つもの城を築き
対室町幕府に対峙しています
その城の一つがここ大河内(おかわち)城で1415年に築城されました
![イメージ 18](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/54/af/j/o0500037514491462081.jpg?caw=800)
大河内城の城主に北畠満雅は弟の顕雅(あきまさ)をあてます
これにより顕雅は北畠家傍流の大河内家の始祖となります
1429年満雅が岩田川の戦いで討ち死にした時
嫡男の教具(のりとも)が7歳であったため
叔父の顕雅が教具が19歳になるまで国司の代行を務めます
その後の顕雅(あきまさ)の子孫は大河内(おかわち)氏を称し大河内御所と呼ばれます
北畠家には三御所(田丸御所、坂内御所、大河内御所)があり
大河内御所はその筆頭でした
![イメージ 19](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/2d/4d/j/o0500037514491462088.jpg?caw=800)
時代は応仁の乱(1467~1477)を経て
世はまさに戦国時代、下剋上の時代です
ついに永禄12年(1569年)8月、伊勢国内にも織田信長勢が侵攻してきます
伊勢8代国司、北畠具教(とものり)は
本拠地多気城(鷺山城)からここ大河内城に嫡子具房とともに
総勢10,000人で陣を張ります
5代大河内城主、具良は大淀城(明和町)で合戦に備えます
![イメージ 20](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/18/af/j/o0500037514491462094.jpg?caw=800)
織田勢の先鋒滝川一益は50,000の兵を率い
伊勢の諸城を落とし
北畠家の領域、最北端の木造城を凋落で落とします
(1569年5月)現在の津市木造町です
8月に入り信長も参戦
大河内城の東2kmの桂瀬山に陣を張ります
8月26日 木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が
彼にしては珍しく最前線で
大河内城の出城である阿坂城(白米城)攻めを敢行しています
城には大宮含忍斎入道が率いる1000人の大宮党がこもっています
総勢8000人を率いた藤吉郎は
人海戦術の正攻法で指揮を執りますが
敵の矢が肩口の鎧の隙間から刺さる怪我を負ってしまいます
怪我を負いながらも苛烈に攻め続け城を一日で落としました
藤吉郎(秀吉)にとって
この阿坂城が最初で最後の戦場傷でした
![イメージ 21](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/fc/81/j/o0500037514491462101.jpg?caw=800)
8月29日早暁
織田勢は池田信輝、浅井長政らが総攻撃をしかけ決戦が開始します
大河内城は坂内川と矢津川が合流する丘陸突端部に
後方に山、谷の要害に囲まれた難攻不落の山城です
北畠勢の抵抗は激しく一進一退の攻防が続きます
![イメージ 22](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/9d/b9/j/o0500037514491462110.jpg?caw=800)
籠城1ケ月9月末になると
さすがに大河内城内に兵糧も枯渇、餓死者も出るありさまで
北畠具教は和睦を受け入れ籠城を断念します
10月3日
信長の三男茶筅丸(後の信雄)を北畠具房の養嗣子として受け入れ
大河内城を明け渡し自らは三瀬館に身をおきます
一方、大淀城の大河内城主、具良は
織田水軍を率いる九鬼嘉隆の攻撃を受け落城しています
![イメージ 23](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/1b/55/j/o0500037514491462119.jpg?caw=800)
大河内城落城後の6年後
天正3年(1575年)茶筅丸は元服し信雄と称し
第10代北畠氏当主となります
そして信雄(のぶかつ)は大河内城を廃城とし
本拠を田丸城に移します
帰り道になります
![イメージ 24](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/33/dc/j/o0500037514491462125.jpg?caw=800)
信雄が田丸城に移って1年後
天正4年(1576年)織田信長の命により
三瀬館に隠遁していた第8代北畠具教は刺客により殺害
同時に田丸城内に残る
北畠一族は全員が集められ誅殺、北畠家の滅亡となります
その中には病気療養中の6代大河内城主教通も含まれていました
![イメージ 25](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/91/d0/j/o0371050014491462133.jpg?caw=800)
坂道を振り返ります
![イメージ 26](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/c0/6e/j/o0500037514491462140.jpg?caw=800)
同じく振り返ります
![イメージ 27](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/57/b0/j/o0500037514491462146.jpg?caw=800)
前方に伊勢自動車道も見えます
![イメージ 28](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/b5/dd/j/o0500037514491462153.jpg?caw=800)
もの哀しい
大河内城でした
![イメージ 29](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/e2/01/j/o0500040214491462159.jpg?caw=800)
![イメージ 30](https://stat.ameba.jp/user_images/20190704/16/mmmt345/4f/c8/j/o0500056114491462166.jpg?caw=800)