2018(平成30)年1月16日(火)
一身田寺内町(じないちょう)は
津市の北部にある一身田町の一部で
高田本山専修寺を中心とした古い街並みが残る環濠に囲まれた町です
門前町とは違った性格をもち
この一身田の地でも15世紀の終わりごろから16世紀の中ごろにかけ
浄土真宗の寺院を中心とした自治都市として発祥し
町の多くの周囲には濠などがめぐらされ
いまもその名残が残されています
上空から見た一身田寺内町
概要図です
一身田の地の由来は
奈良平安の時代に功績のあった貴族や墾田に尽力をした者に
一代限りの私有を認めた地と言われています
この一身田の地に集落が形成されだしたのは
最古の資料、一御田神社の棟札に
室町時代の嘉吉3年(1443)という記録が残されており
この頃以前に農村集落が出来ていたと思われます
一身田が大きく変わったのは
寛正5年(1464)真宗高田派の中興の祖、真慧(しんね)上人が
東海、北陸の布教の活動の中心地点として
無量寿院(現在の専修寺の前身)を建立したことでした
真宗高田派は関東の栃木県真岡市が発祥の地ですが
度重なる戦火に見舞われ
真慧上人が一身田の地に居を移され
以降、歴代の住職もこの地を布教の中核と定め
一身田が教団の中心地と発展していくのでした
一身田寺内町がいつ頃成立したかは定かではありません
天正20年(1592)の一御田神社の棟札に
寺内という呼び方が見られることから
その頃には成立していたものと思われます
16世紀中ごろまでは一身田寺内町の大きさは
現在の半分くらいの区画でしたが
万治元年(1658)津藩2代目藩主、藤堂高次の四女
いと姫が専修寺の門主に輿入れをするにあたり
西側の土地を寄進したことにより現在の寺内町の形態となりました
せっかく高田本山にお参りに来たついでです
寺内町の街並みも歩いてみましょう
寺内町散策60分マップです
専修寺唐門前の寺町通リです
ここから仲の町に向かいます
仲の町通りでは、まず仏壇店が眼に入ります
商店にはお七夜のポスターが貼られています
平日のためか閑散としています
横断幕に誘われ入ってみました
店内です
どうしても目がいってしまいます
教訓になります
たけや名物のたけやまんじゅう
1個200円で無茶あまかったです
店内に大きな時計類が目立ちます
右はオルゴールで100円入れると綺麗なメロディーが流れます
全部で9枚の盤が入っており9曲楽しめます
音量も大きく感動しました
村界水路です
一身田村と窪田村の境界の溝でしたが
津藩2代城主藤堂高次の女が専修寺に輿入れした際
この溝の西側約185石、窪田村の領地を専修寺に寄進した村境の溝です
旧い街並みが続きます
狭い路地も多いです
甘いものの店が目につきます
やはりおまんじゅうです
どうやら寺内町の東の端のようです
毛無川にかかる常盤橋
毛無川はこの地域の灌漑用水路ですが
寺内町ではこの川を利用して町の外濠としていました
北岸には有力な商家の土蔵が立ち並び江戸時代の風情を色濃く残していました
かっては時代劇のロケ地として使われました
昭和初期のころの作品です
環濠に囲まれた一身田寺内町には
3つの入口があり
濠には橋が架けられその内側に門が建っていました
3つの門は明け六つ(午前6時)に開かれ
暮れ六つ(午後6時)に閉じられました
この毛無川辺りに入る門は黒門と呼ばれており伊勢方面への出入り口でした
黒門は寺内町の総門でもあり門の横には番所も設けられていました
この常盤橋の南方向は橋向といわれ
門前町に匹敵する賑わいで
芝居小屋、水茶屋等が立ち並び昭和30年頃まで
おおいに賑わっていました
残る2つの門は
ひとつは寺内町の北東の東町にあった赤門です
江戸方面への出入り口で朱塗りの門であったと言われています
最後に西に位置する門は桜門と呼ばれ
京方面への出入り口で
この辺りの濠の堤に桜並木があったころから由来しています
しかし、この3つの門も
全て明治時代に売りに出されてしまいました
これは天保8年(1837)に建てられた道標です
そして寺内町の歴史の鑑、一御田神社
神社の神宝類です
道順的に最後になってしまいましたが
一身田寺内町の館
寺内町散策が目的でしたら
まずはここを起点とすべきですね
このブログ記事はここで頂いたパンフレット(津市教育委員会)が主です
最後にJR一身田駅
高田学苑(私立の中学、高校、短大)で県内でも
屈指の有名な進学校です 15時50分
高田本山専修寺と一身田寺内町散策を
併せれば2時間ほどを要しますね
有難うございました