2016年(平成28)年11月23日(水) 晴れ

伊勢市内の倉田山周辺からの帰り道

宮川沿いにある尾崎咢堂記念館に寄りました  15:15分

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尾崎行雄は日本議会政治の黎明期から戦後に至るまで衆議院議員を務め

当選回数25回、議員勤続年数63年、最高齢議員記録94歳と

数々の記録を有し

憲政の神様、議会政治の父と呼ばれています

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伊勢市では尾崎行雄の功績を讃え、後世に伝えようと

昭和34年(1959)4月、旧尾崎邸に

咢堂記念館が落成開館しました

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下の建物は平成15年(2003)11月にリュニアルされた咢堂記念館です

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入館しましょう   100円   9:00~16:30分   Ⓟ20台、無料

月曜休館(祝日の場合は翌日)  年末年始(12/29~1/3)

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入場口で見かけたポスターです

東京の憲政記念館で開催されています

この憲政記念館の一室に尾崎行雄財団があります

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一階展示室

咢堂の生涯をプロジェクター映像で見ることができます

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生い立ちです

尾崎行雄は安政5年11月20日(1858年12月24日)

相模国津久井県又野村(現、神奈川県相模原市)で生まれました

4人兄弟の長男で幼名は彦太郎でした

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行雄は11歳まで又野村で過ごし

明治維新後、役人となった父、行正に従い東京、高崎、伊勢にと居を移します

行雄が伊勢の地に居たのは

明治5年(1872)~明治6年、13歳~14歳の頃の2年間でした

尾崎行雄の家系です

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明治7年、15歳、伊勢から行雄は勉学のため東京に出ます

慶応義塾、東京大学工学部とも中途退学し

民間雑誌(慶応義塾発行)の編集等に従事します

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明治11年(1878)、19歳で長崎出身の田中繁子と結婚

翌明治12年、尾崎の才能と見識を認めていた福沢諭吉の推薦で

新潟新聞の主筆として招かれます、若干20歳でした

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明治14年(1881)、統計院権少書記官という官職につくも2か月で退官、22歳

自由民権運動の流れの中、憲法制定論議が高まり

政府内でも伊藤博文、井上馨が推す君主大権を残すビスマルク憲法か

大隈重信と慶應門下生が推すイギリス型の議院内閣制にするかで対立し

伊藤、井上が大隈を政府から追放するという事件が起きました

この時期から政治運動に参加します

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明治15年(1882)報知新聞の論説委員になり

立憲改進党(党首、大隈重信)の創立に犬養毅らと共に参加

翌、明治16年(1883)日本橋から推薦され最年少で府会議員となります、24歳

明治18年、報知新聞から朝野新聞に転じます、26歳

この頃の尾崎は反政府運動に傾斜し

後藤象二郎を担ぎ出し大同団結運動を進めます

大同団結運動とは、帝国議会開設に備えた自由民権運動各派の統一です

この時の政情は昨日の敵が明日味方でありと一寸先は闇の政界でした

伊藤博文が仇敵大隈重信を内閣(外務大臣)に取り込み

黒田清隆が後藤象二郎を逓信大臣に起用し自由民権運動の取り崩しに係ります

明治20年(1887)保安条例が発布され

尾崎は東京からの退去処分を降されます

翌、明治21年1月、尾崎はアメリカ、イギリスへ、29歳

明治22年(1889)2月、大日本帝国憲法発布

恩赦により東京退去命令が解かれた尾崎は12月に日本に帰ります

約2年の欧米視察でした

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明治23年(1890)7月1日

第1回衆議院総選挙で三重5区から出馬、当選します(31歳)

行雄が三重選挙区の代議士とし立候補したのは

父、行正が伊勢で余生を過ごしていたことと自身が少年期、伊勢の地で過ごした縁からでした

三重選挙区5区(定員2名)

有効投票数1919票、1772票が尾崎でした

衆議院議員、尾崎行雄の誕生です

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以降、政界での活躍は年譜を参照してください

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明治31年(1898)隅坂内閣にて文部大臣に、39歳

政界の麒麟児とも言われ、のちに総理大臣になる最も近い人物と言われました

しかし、この文部大臣も4か月で辞しています

ある演説で米国は共和国で、拝金主義の国でない

何故なら米国大統領は、中産以下の人々から選出されている

我が日本国では財閥系がはびこり…の言葉尻をとらえられ

尾崎は共和主義者だ、排除せよの声が真相のようです

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尾崎はこの時代

衆議院議員と兼務しながら第2代、3代の東京市長を兼務していました

明治36年(1903)6月から明治45年(1912)6月までのほぼ10年です

市街地整備、上下水道工事、道路改修、街路樹植培

電車の市有化、ガス会社合併、多摩川水源調査の着手等々の業績があります

明治37年9月、25年間連れ添ってきた

繁子夫人が不治の病で亡くなりました

繁子との間には三男一女の子を授かっています

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翌明治38年10月

大隅重信の媒酌で、尾崎テオドラ(日本名英子)と再婚します

(テオドラは官僚、尾崎三良と英国人日本語教師の娘

バサイア、キャサリン、モリソンとの間に生まれた子です)

咢堂46歳  テオドラ41歳でした

日露戦争は明治37年(1904)2月8日から

明治38年(1905)9月5日まででした

日本は大国ロシアに勝ったと喧伝されましたが、ロシア側から南樺太と

関東州の領地租借権、大韓帝国への排他的指導権を得たものの」

国家予算4年分に及ぶ20億円分の

戦争賠償金を得ることができませんでした

政局も混沌としています

公家の西園寺公望、軍人の桂太郎内閣が交互に政権を担うという

慣例が続いていました

この頃、尾崎は米国に明治42年(1909)米大統領タフト氏夫人の要望に応え

ワシントン、ポトマック河畔に2000本の苗木を送りました

苗木は害虫にやられ焼かれたことを知った尾崎は

3年後の明治45年に3000本の桜の若木を送り現在もポトマック河畔を彩っています

その返礼に米国からハナミズキが贈られています

全米、桜の女王が平成7年(1995)以降、毎年

この地を訪問されています

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この桜が初代の桜で1995年と記されています

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次々と桜の女王の手により植樹されていく桜です

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尾崎の演説は

咢堂が雄弁は真珠玉を盤上に転じ、木堂(犬養毅)が演説は

霜夜(そうや)に松籟(しょうらい)を聞と評された

演説の名士、二人でした

(真珠の転がる涼やかな音色、寒い夜に松の梢に福風の音)

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大正元年(1912)、尾崎は親友、犬養毅と共に

憲政擁護運動を起こします    二人は憲政二柱の神とも呼ばれました

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時の総理大臣、桂内閣弾劾演説は日本議会史上に歴史に残る演説でした

大正2年(1913)2月5日    内閣不信任案提出です

退陣に追い込んでいます

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尾崎が壇上に立つと聴衆からは

『脱帽、脱帽』 と喝采が鳴りやまずしばし口を開かせなかったとあります

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大正3年(1914)、大隅内閣で司法大臣に

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家族写真です

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大正8年(1919)3月~12月

尾崎は三男の幸輝を伴い、第一次大戦後の欧米視察に出ます

戦争の悲惨さを見聞きした尾崎は軍縮を叫び

国際平和を呼びかけ日本の軍部の台頭を押さえようとします

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また尾崎は大正デモクラシーの進展とともに普通選挙運動にも参加

婦人賛政権運動支持、軍縮推進運動、治安維持法反対を支持し

次第に政界では孤立化してしまいます

遂には無所属となり政界の最高峰を目指す芽は途切れました

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昭和に入り

昭和5年(1930)満州事変が勃発後軍部の政治介入が相次ぎます

昭和7年(1932)、5,15事件が起こり

『話せば分かる』  『問答無用』

軍部により総理大臣、犬養毅が殺害されました

政党内閣は終焉し尾崎は親友、犬養毅の死を悼み

死を覚悟して遺書代わりに『墓標に代えて』を雑誌、改造に掲載します

この頃、尾崎は昭和6年(1931)8月から昭和8年2月まで

米、カーネギー財団に招かれ家族で渡米していました

友、犬養の死と妻テオドラ夫人も米国で客死しました(昭和7年12月)

辛い帰国でした  75歳

昭和11年(1936)軍部将校によるクーデター2,26事件

岡田内閣(海軍大将、大臣)から廣田内閣へ

廣田は思想犯保護観察法を成立させ軍部色の強い内閣となっていきます

昭和12年2月、廣田の後は林銑十郎内閣(陸軍大将)

尾崎は議会に登壇し

正成が敵に臨める心もて、我は立つ演壇の上と2時間に及ぶ辞世を詠み

新聞は全面を埋めて尾崎の演説を掲げました

今のマスコミ、報道とは大違いです

昭和12年6月

近衛内閣が発足し日本は泥沼化に入ってしまいます

昭和15年(1940)9月、日独伊三国同盟締結

同年10月、大政翼賛会結成

昭和16年10月に陸軍大臣、東条英機が第40代総理大臣に就任します

昭和17年(1942)の衆議院選挙、田川大吉郎の応援演説で

川柳の売家と唐様で書く三代目の引用が

昭和天皇を揶揄するものであると不敬罪で起訴

1審で懲役8ヶ月、執行猶予2年の判決

昭和19年、大審院で無罪が確定しています

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そして日本は第二次世界大戦に傾斜してゆきます

敗戦後、尾崎は逗子の山荘、風雲閣に住まいしていましたが

訪問客が溢れるほどでした

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尾崎自身は1946(昭和21)年、勲一等旭日大綬章を返上

政界を引退する決意でいましたが

三重、伊勢市を中心とした支持者が中心となり

無断で推薦し昭和21年の総選挙で全県一区でトップ当選  88歳

政治の場に戻されます

尾崎の演説を聞こうといつも黒山の聴衆です

東京、新宿での街頭演説

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昭和22年辻説法

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同じく4月

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昭和23年、講演

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昭和25年(1950)には米国に  92歳

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昭和28年(1953)吉田茂首相の馬鹿野郎解散により

第26回衆議院議員選挙で

支持者の高齢化、自身の健康問題もあり落選  94歳

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昭和29年(1954)10月6日、直腸癌と栄養障害、老衰のため

慶應病院で死去、享年95歳、墓所は鎌倉円覚寺

永年在職議員第1号、衆議院名誉議員第1号(50年以上、衆院玄関前に胸像)

東京都名誉都民第1号

神奈川県相模原市緑区の尾崎咢堂記念館

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伊勢市にもある尾崎咢堂記念館

家内の姉がここで結婚式を挙げたと伝えると

受付の御嬢さんが

当時の写真を探し出しコピーしてくださいました

感謝、感謝です

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また国会前庭にある

憲政記念館は尾崎の功績を讃え建設されたものです

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銅像も建立されています

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切手にもなっています

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咢堂五訓です

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語録です

今の先生方にも自覚してほしいものです

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この声を聴かせたいですね

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まァ、政務活動費を飲食代につけ回

白紙の領収書を正当化

自己の権益だけを最優先する先生方には

馬の耳に念仏でしょうが…


咢堂記念館を後にします   15:40分

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目の前は日本桜の名所100選の宮川堤です

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また伊勢神宮奉納花火大会もこの川岸で行われます

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有難うございました