2016(平成28)年7月11日(月) 晴れ

近江八幡から彦根を目指します

琵琶湖畔を走ります

湖岸道路(県道25号線)32km、約60分です

イメージ 56

彦根市内に入ってきました

滋賀県では大津市(342000人)、草津市(139000人)

長浜市(119000人)、東近江市(113500人)に次ぐ人口5番目の市で

彦根市は113000人です、ちなみに近江八幡市は82000人です

イメージ 26


時刻は丁度16:00

今日の宿泊先、彦根キャッスル リゾート&スパです

イメージ 27


この時期は陽も長く観光にはもってこいです

ホテルの目の前の彦根城に向かいます

いろは松と呼ばれる松並木の道路を進みます

イメージ 28

いろは47文字のごとく

昔は47本あった松の木ですが現在は33本の松の木です

この松は土佐松で、地上に根を張らず

人馬の妨げにならず高知から移植されたものです

この堀は中堀です

イメージ 29

ほどなく左側に佐和口多門櫓が見えてきました

イメージ 30

道路を隔てた右側も佐和口多門櫓ですが

開国記念館、彦根城管理事務所に利用されています

子供さんが何かを覗いていますね

イメージ 31

白と黒の白鳥でした

表門への進入路、佐和口を進むと左側に

特別公開中の馬屋が見えてきます

イメージ 32

L字型の建物で馬21頭が収容できます

城内に残る馬屋はここ彦根城しかなく重要文化財に指定されています

イメージ 33

彦根城のポストです

イメージ 34

表門から入城しましょう

イメージ 35

この堀は内堀です

イメージ 36

振りかえると中央のこけら葺き屋根の建物が馬屋です  16:10分

イメージ 37

観覧料は彦根城と玄宮園セットで600円

博物館は入館が16:30分迄で断念です  共通券で1000円でした

イメージ 38

敵の侵入を妨げるため、石段の高低、間隔等を異にし

わざと登りにくくしてあります

イメージ 39

イメージ 40

坂を上っていくと右に天秤櫓が左に折れると鐘の丸です

イメージ 2

時代劇の撮影にもよく使われるところです

振り返りましょう

イメージ 41

鐘の丸を経由して

架け橋の先が天秤櫓で長浜城大手門を移築したものです

イメージ 42

これは第12代藩主、伊井直亮が弘化元年(1844)鋳造した時報鐘で

今も6時、9時、正午、15時、18時と日に5回、時を告げています

彦根城の時報鐘と虫の音は日本の音風景百選に選ばれています

城山の蝉しぐれ、玄宮園の鈴虫、松虫が対象です

イメージ 43

彦根城本丸が見えてきました

イメージ 44

表門からの最後の砦、太鼓門櫓です

イメージ 45

ひこにゃんがお出迎えです

彦根城は徳川四天王(酒井忠次、本多忠勝、榊原康正、井伊直政)の一人

井伊直政が関ヶ原の役後

敵将、石田三成の佐和山城と近江北東部の地18万石を領しました

直政は佐和山城に入城しましたが戦場の傷が癒えず

2年後の慶長7年(1602)に死去、41歳でした

イメージ 46

直政は敵の石田三成の佐和山城を忌み嫌い

居城の移転を計画していましたが思いかなわず

その後、直継が家督を継ぎ、幼少であったため筆頭家老の木俣守勝が家康と相談し

1603年、現在の地、金亀(こんき)山、標高136mに築城着手しました

1606年(慶長11)天守【京極高次の大津城移築】完成と共に直継が入城

元和8年(1622)すべての工事が終了し彦根城が完成しました

その後彦根藩、伊井家は加増を重ね

寛永10年(1633)には徳川譜代大名の中で最高の35万石を領し

伊井家14代の居城として明治維新を迎えます

城に入ります

天守は3階3重のいたって小ぶりです

数年前に訪れた時は入館者が列を連ねてい断念しました

イメージ 47

さすがに現存天守、国宝です

現存天守は弘前城、松本城、犬山城、丸岡城、彦根城

姫路城、備中松山城、松江城、丸亀城、松山城、宇和島城、高知城の12城です

このうち松本、犬山、彦根、姫路、松江の5城が国宝です

イメージ 1

イメージ 3

彦根城は戦の為の城であり

壁の矢や鉄砲穴は外からは見えぬように工夫され

イメージ 4

隠し部屋(中央廊下横の穴)

イメージ 5

階段も敵が攻め入った時に上から突き落とせるように

急な角度(62度)となっており

はしご様の階段は上部が掛かっているだけですので

蹴って階段を落とす仕組みとなっています

イメージ 6

城外の眺めです

イメージ 7

正面の山は伊吹山1377mですね

イメージ 8

琵琶湖も望めます

イメージ 9

16:35分  城を出ます

イメージ 10

城内図です

イメージ 55

城から黒門山道の石段を下ります

イメージ 11

イメージ 12

下りで良かったです

イメージ 13

内堀の黒門橋の先、左が大名庭園の楽々園と玄宮園です

イメージ 14

まず楽々園

イメージ 15

井伊直弼、生誕の地です

イメージ 16

内部は改修中で入れませんでした

イメージ 20

玄宮園庭園は池を囲んで周遊できます

イメージ 17

正面に茶室の鳳翔台

イメージ 18

借景が国宝の彦根城、なんとも贅沢な庭園です

イメージ 19

自然を生かした庭園でこのスケールは特筆ものだと感じました

イメージ 21

帰り際、井伊直弼の像がありました

文化2年(1815)彦根藩主13代伊井直中の14男として生まれます

母は側室のお富

兄弟も多く庶子であるため養子の口もなく

父の死後、三の丸尾松町の屋敷に移り17歳から35歳までの15年間

300俵の部屋住みとして過ごします

この頃の直弼は自らを花の咲くことのない埋もれ木にたとえ

埋木舎(うもれぎのや)と名付けた邸宅で世捨て人のように暮らしていました

イメージ 22

ところが弘化3年(1846)

第14代藩主、兄の直亮(直中の3男)の世子、直本(直中の11男)が死去

14男の直弼が兄、直亮の養子として後継者となります

嘉永3年(1850)兄の死去を受け家督を継ぎ第15代彦根藩主となります

人の世は分かりません

イメージ 23

彦根藩主時代には藩政改革を成し遂げ名君と呼ばれ

世は嘉永6年(1853)の黒船来航の江戸幕末期

この幕府最大の危機、安政5年(1858)4月23日に直弼は大老に抜擢されます

6月29日にハリスとの日米修好通商条約を締結

尊王攘夷の声が挙がる中、安政5年から6年にかけ

直弼は後に安政の大獄と呼ばれる弾圧政治で首謀者を一掃します

その弾圧政治に尊王攘夷派は激高し

水戸脱藩浪士17名、薩摩藩士18名にによる桜田門外の変でした

安政7年3月3日(1860年3月24日)

直弼、享年46歳でした

若き頃、直弼の過ごした埋木舎(うもれぎのや)…16:00閉館でした

イメージ 24

場所は佐和口多門櫓、現在の開国記念館

中堀を挟んだ対面です

イメージ 25

キャッスルリゾート&スパに到着は17:30分でした

イメージ 48

部屋は彦根城が真正面   18:45分

イメージ 49

ライトアップもされています   19:40分

イメージ 50

彦根キャッスル リゾート&スパ  お勧めです

イメージ 51

20:00

彦根駅前方面に出てみます

ほとんどの店は早じまいでやっているのは飲み屋さんが主

手軽なラーメン店に入ります

イメージ 52

イメージ 53

21:00ホテル着

ホテルは飲み物もサービスです

旅に出るとついつい飲みすぎてしまいます   21:00

イメージ 54



続きます