今朝、いつものように
kazuにコーヒーを淹れて、
手を合わせていた。
「kazu、困ってない?寂しくない?
寂しかったら、抱きしめられに来なね。
お父さんお母さんじいちゃんばあちゃんたち。 どうぞ、kazuを守ってね。」
そんな風に祈っていた時だった。
ふいに、
“言葉になる前の理解“が、
流れ込んできた。
それは、
何かを考えた感じではなかった。
思いついたわけでもない。
何かの教えを当てはめたわけでもない。
ただ一瞬、
「ああ、そうだったんだ…」
と、先にわかってしまった。
わたしが産んだから、
kazuが息子になった。
そういうことだけではなかった。
親子という形になる前から、
何かはもう、
「そうだった。」
そして。
死んだから離れた、
ということでもない。
でも、
「離れていない」
というのも少し違う。
でも、
「つながっている」
それも、少し違う。
「つながっている」という言葉自体が、
別々の二つが、
何かで結ばれている感じになってしまう。
今朝のそれは、
もっと、その手前だった。
離れるとか、
つながるとか、
そういう言葉が必要になる前のところ。
そこでは、
kazuとわたしの関係は
最初からあって、終わりというものが消える。
そんな感じ。
そこにあるのは、
途方もない安心感だった…。
説明しようとすると、
「魂のつながり」
「親子になる約束」
「肉体を超えた絆」
「本当は離れていない」
そんな、何度も聞いたことのある言葉になる。
そして、書いた瞬間に、
はいはい、知ってますけど。
みたいな気分になる。
たぶん、間違ってはいない。
でも。
今朝のそれは。
もっと静かだった。
言葉よりも前にあって。
説明よりも前にあって。
ただ、
そうだった。
だからいま、
こうして文字にしているものは、
たぶん全部、
後から頭が作った翻訳文なんだと思う。
言葉より先に体験が来て、
後から頭が、
それをどうにか言葉にしようとしている。
だから、
どの表現も少し違う。
どの言葉も、
本体より薄い。
でも、
『言葉になる前の理解が流れ込んできた』
という表現だけは、わりと気に入っている。
これがなんなのかは、
よくわからない。
悟りでも、
覚醒でも、
スピリチュアルメッセージでも、
なんでもいい。
ただ一瞬だけ、
いつもの見え方の向こう側が
開いた。
そんな気がした。
小さな一瞥体験。
たぶん、これで二度目。
新しいことを知った、というより
何度も聞いたことのある言葉の、
その言葉になる前のところを、
見せてもらったような朝だった。