037.宮原家の系図探し

20.橘公材~橘公盛

                          2017.10.13宮原秀範

 

【公材】きみもと 橘公材 従四位上左中弁但馬守近江守

生没年:

父:参議 橘広相、従四位上文章博士、右中弁

右京大夫

妻:(父:橘貞樹)

893年~972年 好古

【好古】よしふる 橘 好古 正二位参議左中弁

橘 好古寛平五(893)  天禄三(972)年正月十三日 ] 公材一男。母従五位下橘貞樹女。

天徳二(958)年閏七月二十八日任参議。 従三位・大納言。

【為政】ためまさ 橘為政 従四位下、長者大和守
橘好古の男。蔵・策、侍読冷泉、大和守、右中弁となる。従四位上に叙す。長保五年(1003年)五月九日、源保光忌日に時物を奉る(「権記」)。

 

【行平】ゆきひら 橘行平 従三位因幡守

生没年:不明    父: 為政、従四位上中納言

 (歴史)

『因幡堂縁起』(『山城名勝志』所収)、『因幡堂縁起絵巻』(東京国立博物館蔵)などに創建の由来が書かれている。縁起は諸本によって内容に若干の違いがあるが、おおむね次のような話である。大納言橘好古(たちばなのよしふる)の孫である少将橘行平(ゆきひら)は、長徳三年(997年)、因幡国司としての任を終えて京に帰ろうとしていたところ、重い病にかかった。ある夜、行平の夢に貴い僧が現れ、「因幡国の賀露津(かろのつ)の浦に貴い浮き木がある。それは仏の国(インド)から衆生を救うために流れついたものである。それを引き上げてみよ」と言う。行平が賀露津の漁師に命じて、波間に光るものを引き上げてみると、それは等身の薬師如来の像であった。この薬師像を祀ったところ、行平の病は癒え、京に帰ることができた。   この薬師像は天竺(インド)の祇園精舎の四十九院の一つ、東北療病院の本尊であった。行平は薬師像をいずれ京に迎えると約束して因幡を後にしたが、その後因幡を訪れる機会がないうちに長い歳月が過ぎた。その後、長保五年(1003年)四月七日のこと、行平の屋敷の戸を叩く者がある。戸を開けてみると、それは因幡からはるばる虚空を飛んでやってきた薬師像であった。 行平は高辻烏丸の屋敷に薬師像を祀った。これが因幡薬師平等寺の起源であるという。なお、薬師如来像が引き上げられた年を天徳三年(959年)とし、行平は勅命で因幡国一宮に参拝し、京に帰ろうとした際に病気になったとする縁起もある。一説に薬師仏は因幡国にあった在地豪族・因幡氏の氏寺の薬師寺に安置されていたといい、行平が京都へ持ち去ったとされる。

南都における寺院勢力の強勢振りを嫌い、平安京内には、官寺である東寺・西寺以外に寺院を建立することは禁止されていた。ただし、貴族の持仏堂は、建立が認められていた。本寺も、これに相当する。また、六角堂(頂法寺)や革堂(行願寺)のような、町堂(辻堂)の建立も認められていた。因幡堂も、これらと並んで町衆の信仰を集めた町堂の代表格である。

平等寺の寺号は、承安元年(1171年)に高倉天皇によって下賜されたものである。

【行順】 ゆきより 橘行順 従四位下散位

生没年未詳。長徳四年(998年)三月、石清水臨時祭の舞人であったが、障りを申す。長保三年御潅仏に祗候す(「権記」)。寛弘八年(1011年)二月、兵部丞。同年八月、式部少丞。大嘗会の悠紀行事となる(「小右記」)。寛仁二年(1018年)三月、斎部正賢の土地四段を買う(「東文書」)。 

 

【公盛】きみもり 橘公盛 従四位下下野守号東山入道

讃岐国:国司藤原季能の目代(ふじわら すえよし、仁平三年(1153年) - 建暦元年(1211年))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家。藤原北家善勝寺流、太皇太后宮権大夫藤原俊盛の子。官位は正三位・兵部卿。

目代(もくだい)とは、日本の平安中期から鎌倉期に、遙任国司が現地に私的な代官派遣した家人などの代理人のことである。 眼代(がんだい)とも。

転じて本来なら役職上、現地に下向して執務しなければならない人物の代理として派遣された代官などの役人の事を指す。