039宮原家の系図探し 22.橘公業

                           平成29年10月27 宮原秀範

【公業】きみなり 橘公業 

橘薩摩十郎薩摩守後剃髪帯而号十郎法師也

橘 公業(たちばな の きみなり、生没年未詳)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の橘氏の武将。公成とも表記される。橘公長の次男であるため通称を橘次といった。法名を公蓮。弓の名手であったと伝えられている。兄は公忠。

元々平知盛の家人であった父に従い、治承四年(1180年)に平家を見限って源氏の麾下に入る。奥州合戦の論功で出羽国小鹿島(現秋田県男鹿市)の地頭に補された。文治五年(1189年)に起きた大河兼任の乱では敵前逃亡するなど一時は源頼朝の不興を買うが、結果として援軍を待ってから敵に当たった行為が適切であったとの評価を得、乱後も小鹿島の所領を維持したほか、加えて出羽国秋田郡(現秋田県南秋田郡、潟上市、秋田市)を得た。

承元三年(1209年)十二月、御家人の美作朝親の妻と密通していたことから、朝親との間で合戦となり掛ける事態となり、実朝の命を受けた北条時房の仲介により事なきを得るという騒ぎにまで発展している。

嘉禎二年(1236年)に、本領であった伊予国宇和郡を西園寺公経に譲り、替地として肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷を与えられ、子孫は肥前国を中心に広がることとなり、かつて所領とした小鹿島の地名をとった小鹿島氏として繁栄した。

橘公業(男鹿地頭)

文治五年(1189)七月、頼朝は自ら二十八万四千騎を率いて奥州藤原泰衛追討に出兵した時随兵の一人として頼朝の側近橘公業は薩摩守を受領し、源頼朝の随兵一千騎に加わって出陣した。二十八歳の時である。橘公業は源平藤橘四姓の一つ橘家の本流であり諸兄十一代目の彼は武略にすぐれ、弓の名手であった。橘公業は奥州平定の功により、文治五年(1189)九月、秋田郡内の数ケ所の土地を与えられそこの地頭に任じられた。秋田城をとりまく豊巻、百三段(ももさだ)、湊、柳田(ともに秋田市内)等、それに男鹿半島全域八郎潟西岸の諸村落及び大川より少し南よりの井川等、雄物川に沿うた広い地域である。橘公業が地頭として宛がわれた秋田郡は大河兼任の勢力と重なる地域であった。兼任の蜂起に同調した七千余の兵がいたという事は源頼朝の東北政策に契機する反抗であつたと思われ、また早急に秋田郡支配を具体化した橘公業にたいする大河兼任の反発があったかもしれない。大河兼任が反乱を起こすにあたって、まず攻撃したのは秋田郡の地頭として男鹿に居た橘公業であった。兼任軍に小鹿島の大社山、毛之左田の戦いで橘公業は敗北、逃亡し橘公業は非常事態を頼朝に報告した。後、現地に代官を派遣して、普段鎌倉に住むようになる。承元四年(1210)、秋田郡の湊ほか二ヶ所の地頭職を娘の薬上(くすのうえ)にゆずった。薬上はその後秋田郡の湊の領有をめぐって弟の公員(きんかず)と争いを起こすが公業の裁定により弟の公員が秋田郡内の三地所を領有することになる。北条執権との確執により延応元年(1239)、橘公員は領有した秋田郡内の地所を自ら放棄し肥後国久米庄地頭におさまった

 

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