25.菊池市の渋江家、天地元水神社(菊池市史下巻より記載)

                     平成29年12月8日宮原秀範

 

  橘一族も公業(きみなり)より分かれた家がたくさん有ります。その一部の各家をご紹介致します。

 そのほかブログをご覧の方で、同じ橘一族をごぞんじの方は、紹介して下さい。

 連絡先は、m.hide@d9.dion.ne.jpですよろしくお願い致します。

 

天地元水神を氏神とする 

 渋江氏の姓は橘といいます。第三十代敏達天皇五世の孫である葛城王が、勅許(天皇の許可)を得てこの姓を賜わりました。橘の始祖は井手左大臣橘朝臣諸兄です。その子奈良麿は孝謙天皇の時に、嬖臣恵美押勝を殺そうとしてその策略が漏れ、肥前の島見郷(現在の潮見)に流されました。奈良麿の子である島田丸は、神護景雲二年(768)に奈良春日神社造営の工事の勅命を賜わりました。受命の重大さを感じた島田丸は水神に祈誓し、滞りなくこの大役か果たせるように念じました。祠宇殿堂は見事に完成しました。ところが不思議な霊感があり念願がかなえられたというので、勅許によって水神を祀り天地元水神と称してこれを氏神としました。

この神社造営の功績により笏(しゃく)と綸旨(りんじ)を拝受し、以後、橘氏は代々この水神を氏神として尊(とうと)び、その嫡流が天地元水神事を家業とするようになったのです。

 

肥前渋江氏

公業の子公義には四子があり、その嫡子公村の時から氏を渋江と名のるようになりました。この公村が肥前渋江氏の祖といわれています。次子公茂は牛島、三子公光は中村、四子時成は中橋と別称を用いました。以後、勅許によって伝えてきた水神祭事は、渋江氏の嫡子によってつかさどられてきました。

初め、潮見神社には橘氏の祖神を祀ってあったのですが、現在は上中下宮に分かれ、上宮は始祖橘朝臣諸兄、中宮は島田丸と公業、下宮には渋江宮・牛島宮・中村宮の三社を祀ってあります。

公村より五代公治までは足利将軍の勢力下にありました。さらに五代目の公勢の時には、肥前多久日包嶽に城を築き居住しました。その子公親は後藤澄明と戦って敗れ、龍造寺隆信のところに身を寄せ、公親の子公師・公重の兄弟も肥後の山鹿に逃げて、金剛乗寺に寄寓しました。

永禄二年(1559)に公師・公重の兄弟は、再び肥前に帰参し潮見山に居城することになりました。しかし肥前の高来領主有馬氏との戦いで、弟の公重は戦死し兄の公師も負傷して敗走しました。公師は敗走ののち、肥前の大村侯に仕え代々重職として栄え、一方、戦死した公重には嫡子公実がおり、のち公成とあらため肥後菊池郡西迫間に居住することになりました。この公成が肥後渋江氏の祖になります。

 

肥後渋江氏

肥後渋江氏の祖公成は一旦は江戸旗本の縁者を頼って江戸に行き、数年間滞留し奉公口を求めました。三〇〇石をもって召し出されることになっていたのですが、自分の無学を顧み、ついに禄仕を思い止まって肥後に帰りました。以後、菊池に永住することになったのです。

こうして公成は菊池の西迫間に落ち着くと、家伝の勅許水神祭事を創め、慶長の中ごろより慶安のころまで西迫間に居住しました。公豊(紫陽)の兄に公清(平之丞)があり、その後に、「萬右衛門」という人がいますが、この人は、西迫間に水車(精米所)をおこして生計を立て、その後は代々西迫間水車のかたわら、農事に励み現存しています。

寛永十一年(1634)公成の子公通は、渋江家の氏神天地元水神を隈府(横町)に移し、住居も同地に移転しました。以後、渋江氏は代々隅府に定住しました。公通の子公実を経て公春の時、その弟公満は分家して稗方に住み、両家で水神祭事を行なうようになりました。

 

この公春の時に水神祭事の功労が認められて、御郡代衆直触となり帯刀を許されたのですが、肥前渋江氏や各地に広がった渋江氏がそれぞれに家相応の身分を保っているのに対して、肥後渋江氏はやっと地侍にとりあげられ、水神祭事に日を送っているのにすぎませんでした。

しかし、公春の子公豊(紫陽)の時には士席浪人格にひきあげられ、ようやく士分として取り扱われるようになったのです。階級制度の厳しい時代に、わずか浪人格の昇格でさえ大変光栄なことでした。これは公豊が伝統の水神祭事の普及のみならず、学問を修め私塾「集玄亭」を創立して、郷土の多くの子弟たちを教化育成したその学徳が認められたことによるのです。


 

 

渋江氏の家業 天地元水神、各地で発展

 

 橘島田丸が勅許によって天地元水神を氏神として祀るようになって以来、長い年月がたち、さらに公村の時に氏を渋江と名のるようになってからは、その嫡流によってのみ綸旨(りんじ)を受け継ぎ、水神祭事がつかさどられてきました。

安政のころでは長崎で渋江能登、嬉野で渋江隼人がともに天地元水神司家として神職を勤め、肥前の大村では渋江主膳・恵門・橘右衛門・善助がいずれも士席にひきあげられ、神道兼職の免許を得て、大村侯のために諸祈禱の神事を行ない、一般の人たちにも神礼を配布していました。

 一方、肥後渋江氏もその祖公成の時代から肥前渋江氏と親密な交渉を持ち、水神祈禱免許状を受けて、肥後方面に広く水神祈禱を行い守札を配布していました。

肥後渋江氏は当時位もない地侍にすぎなかったのですが、本来家柄もよかったので、伝統の水神祭事祈禱はしだいに肥後はもちろん豊後・筑後・日向・薩摩・中国・京阪地方まで、人々の厚い信頼を得て発展していきました。


菊池市に有る天地元水神社