067宮原家の系図さがし

平成3076日 宮原秀範

15世宮原公継の波乱万丈の生涯 ⑦

 

13.肥薩線運動 1887年(明治209月)51

肥後(ひご)相良(さがら)今昔史誌(こんじゃくしし)豊永鈴欄(とよながれいらん)著)より記載

肥薩鉄道の開通

国鉄・肥薩線のうち人吉から八代までの鉄道線を俗に川線といい、人吉から吉松までの路線を山線という。

川線は明治四十一年五月に、山線の方は一年おくれで明治四十二年十一月に開通した。

 この鉄道が海岸線よりさきに開通したのは、明治二十五・六年の日本と清国との間に風雲ただならぬ頃、球磨郡出身の代議士、渋谷礼が、この線路の新設を力説し、当時の陸軍側も一朝事あるときは、軍の糧抹補給基地として最適地と認め、海岸線はもし敵艦が近接し艦砲射撃でもうけたら危険だという理由からであつた。

渋谷礼代議士は、郷土のため永い間に亘って鉄道線を引き入れることに努力し、たびたび上京して政府に働らきかけるとともに、鹿児島、宮崎両県からの開設促進運動と相まって、ついに開通の実現をみたのである。

 したがって、この鉄道は一面では軍事路線ともいえるわけで、昭和二年の海岸線の全線開通と同時にローカル線になってしまった。

 同鉄道開設については、当時の国鉄の技術の粋を投入して出来たもので、鉄道としては特色も多い。たとえば、大畑や真幸のループ線やスイッチバックなどがそれである。

スイッチバックは、急勾配のため停車場をつくる余地がないため、路線を駅の入口で一たん本線から分けて進入させ、そのあと逆行して駅のホームに列車を入れる方式である。

 また、ループ線は急勾配をさけて山腹をぐるりと一回りしながら上り下りする方式で、一つのトンネルのそのまた上を行くので、相当の難工事であった。

 山と川に囲まれた天険の土地であっただけに、本工事には多くの犠牲者を出している。その碑が、大畑駅から矢岳駅に行く途中、線路が一回転する原野の中に建てられている。

 渋谷礼氏は、生涯を政治や産業に、さらにまた青少年の指導に貢献したことはいうまでもない。しかし、中でも肥薩線の鉄道建設運動は、明治二十年九月から明治四十二年の開通に至るまでの二十三年間は寝食を忘れての活動であった。

 

渋谷礼氏と共に、宮原公継も沢山の有志と肥薩線運動を行うが、道半ばで東京にて病死する。

しかし、私の父悟からは、暗殺(毒殺)されたと聞いています。明治2839日没59歳の波乱な人生でした。

 

14.永国寺に埋葬(明治28年)59歳 菱刈家横にお墓

その後お墓は、妻のキワ様は菱刈家(菱刈友右エ門の二女)よりお嫁に来られたので、実家の永国寺の先祖の墓の隣に埋葬されました。(東京で亡くなった為、墓には髪の毛しか埋まっていません)

妻のキワ様(大正1091日没84歳)も同じ場所に現在は眠っておられます。

なぜ永国寺なのかは、不明ですが公継以降の第16世宮原主一郎以後は、キリスト教信者の為、寺町の教会の裏山の墓地に埋葬されました。それから平成20年頃、教会の裏山の墓の撤去が起こり骨は、教会の納骨堂に移され現在に至ります。

永国寺 宮原公継の墓・後ろに有る墓がキワ様のお墓

 

 

以上で『宮原公継伝』を終わります。