077 第40代相良綾乃様と行く日本一豊な隠れ里の祈りと願いの旅
2025.12.11
宮原秀範(福岡県居住)
令和7年10月21日(2025年)前回と同じく、田中信孝氏より「新当主と巡る平安の里の旅」の案内がありました。11月30日(日曜日) 人吉城歴史館 9:45観光駐車場集合で限定20名様でした。
毎年12月2日が響野原の相良神社(相良堂)大例祭に参加しているので、今回は2泊3日の旅行となりました。11/30朝4時起床で、5:30出発~人吉9:00に到着しました。山江インター付近から霧が深く人吉に帰ってきたなと思いました。父が人吉は、東洋のロンドンとよく言っていました。人吉滞在の3日間も全て朝は霧でした。
参加者は、女性の方が多く16名で、綾乃姫とお嬢様のひまわり様、宮原夫婦・願成寺住職夫婦などで、人吉城歴史館からスタートです。
【旅行プラン】
1.人吉城歴史館→2.老神神社→3.岩屋熊埜座神社→4.相良護国神社→昼食いず美
5.山田大王神社(通過説明)→6.高寺院(毘沙門天)→7.願成寺→8.相良村雨宮神社(通過説明)→
9.多良木青蓮寺→10.里宮神社(通過説明)→11.湯前浄心寺→人吉城歴史館駐車場 17:00着
※相良家にゆかりが有り、普段は見られない国宝級仏像を、和尚様の説明を受け拝観する。
【1.人吉城歴史館】人吉市麓町18番地4
災害で被災していたが、今年再オープンとなり展示品が新しくなり田中氏が説明する。
今話題の謎の地下室の見学です。郷土史の益田氏が大学教授の案内でポーランドに行かれ、清兵衛屋敷の地下室とユダヤ教の沐浴施設(ミクヴェ)を見学されています。
☆ 人吉城地下室遺構はミクヴェとしての条件を満たしている
☆ ヨーロッパと日本を繋ぐものは
コンベルソ(またはマラーノ・新キリスト教徒)とは強制的にキリスト教徒に改宗させられたユダヤ人のことで、このコンベルソが宣教師や貿易商人として九州(島原)にも来ていることが確認されている(ルイス・デ・アルメイダなど)
☆ 「お下の乱」に関する記録のなぞ・・
・相良清兵衛屋敷地下室遺構に関する記録が全く無いのはなぜ?(建造・埋設について)
・相良家史料には何故かキリシタンに関する記述が無いことの不思議
・「お下の乱」絵図の不思議・・細川家の関与
【年表】
寛永14・15年 島原・天草の乱・・キリシタン弾圧が厳しくなる
寛永16年 人吉城の築城を中止する・・なぜ中止したのか
寛永17年 4/28 相良清兵衛の嫡男内蔵助江戸にて死去、毒殺のうわさ立つ
(1640) 5/1 相良頼寛は清兵衛を幕府に訴える
6/21 清兵衛江戸召喚の為人吉を出発する
7/7 お下の乱起り清兵衛一族121人滅亡する 地下室を埋める
8/5 幕府上使が人吉に到着し騒動を見分する
9/5 清兵衛津軽藩へ流罪となる ※この数か月で清兵衛一族は滅亡する
清兵衛屋敷の地下室 ユダヤ教の沐浴施設(ミクヴェ)
【2.老神神社】人吉市老神町22
807年に霧島神宮より勧請された神社で、現在の社殿は1628年相良長毎によって建てられました。
社殿は国指定の重要文化財です。
社殿や鳥居が東を向いているのは、太陽が昇る方角で一日の始まりを告げ、新たな生命や活力を与える存在です。
老神神社鳥居(控え柱の鳥居)
老神神社本殿(萱葺きのさや堂で覆われる)
【3.岩屋熊埜座神社】人吉市東間上3799
熊野信仰の広がりとともに民衆の信仰を集めた神社。領主である相良氏によって度々修造が行われた。人吉球磨地域唯一といわれる、めずらしい鳥居がある。2011年に大修理を経て、江戸時代の茅葺き屋根の姿に戻っている。
享保12年(1727)に造営された当時の棟札に「古より岩穴があって水多く、奥の広さは計ることが出来ないとされ、その水は下篠トドロに通じているとされています。俗に大蛇が住んでいると伝えられ、夜が更けてくると法螺貝を吹く音が聞こえる不思議の霊所です。」と書かれています。境内は標高140mで、山間の谷間を利用し、西側の参道を除く三方は山の斜面となっています。東西に延びる参道の西端に鳥居を構え、石段を登ると境内に至ります。建物は西面して建ち、背面の東側には勧請の由来となった洞窟があります。
国指定重要文化財の指定を受けている凝灰岩製の石鳥居は、参道(約200m)の入口に立ち、元禄14年(1701)に寄進されたもので、南柱に「奉寄進岩屋講衆中」、北柱に「元禄十四年辛巳年三月吉日」と刻銘があります。稚児柱がついた両部鳥居形式(権現鳥居・四脚鳥居)では球磨地方唯一のもので、在銘鳥居としても最古のものです。鳥居は正確に西を向いており、春分・秋分には鳥居の中央から太陽が昇り、鳥居の中央から太陽の沈むのを見ることが出来ます。参道が200m以上もあるのは、周囲の山から離れる事で、太陽をよく拝むことが出来るように設計されたものと思われています。
【4.相良護国神社】人吉市麓町35番地1
相良護国神社は、明治13年(1880年)に、相良家第36代当主頼紹様により建立されました。
この神社は、700年にわたり球磨人吉地域を治めてきた相良家の居城であった人吉城跡の敷地内に鎮座しています。相良家は、平頼盛の手の諸郡を賜り、人吉城に入城した後、正治元年(1199年)城の修築を開始しました。その時に三日月文様の入った奇石が出土し、以後人吉城は繊月城(せんげつじょう)あるいは三日月城と呼ばれるようになりました。
相良護国神社は、歴代の人吉藩主を祀る神社であり、緑豊かな庭園に囲まれた境内は、藩主も眺めていたであろう景色をそのまま残し、訪れる人々に安らぎを与えてくれます。4748柱を祀る。
【5.山田大王神社(通過説明)】山江村山田1514
山田大王神社は、永吉庄山田村地頭であった平河次郎藤高の霊を祀る神社です。
本殿は天文15年(1546年)、拝殿及び神供所は宝暦11年(1761年)、本殿覆屋は安永10年(1781年)、鳥居は延亨2年(1745年)の建立です。
平成2年9月11日付けで山江村の指定文化財環境保全地区に指定されています。
【6.高寺院(毘沙門天)】山江村山田甲1640
高野山真言宗高寺院は、相良氏入封以前の人吉代官・矢瀬氏の創建で球磨郡では一番古い寺院です。
375段の石段を登ると頂上に奥の院があります。高寺院・毘沙門天立像毘沙門堂は、奥の院への石段の登り口にあり、5体の毘沙門天立像が安置されています。その内の2体は、国の重要文化財になっています。
【7.願成寺(相良家菩提寺)真言宗大覚寺派】人吉市願成寺町956
「願成寺」は、相良家初代当主・相良長頼によって現在の人吉市街地東部の台地麓に1233年に建てられたお寺です。鎌倉時代から明治維新まで、領主・藩主としておおよそ800年近く人吉を治めた相良家の菩提寺として現在に至ります。お寺は人吉城から見て陰陽道の丑寅(北東)の方向にあり、これは鬼門を護るという願いを込めたためだと伝わっています。
寺は国家の鎮護や皇室繁栄を祈願する「勅願寺」に指定され、以降、江戸時代を通じ相良氏の庇護と優れた僧の輩出などによって人々の信仰を集めています。現在は、九州八十八カ所第五十番札所になっています。
国の重要文化財に指定されている木造阿弥陀如来坐像は、鎌倉時代初期に造られたものが、湯前の普門寺を経由し願成寺に1658年に移されたと言われ、3度の火災をくぐり抜けて今に残ります。彫眼、表面には漆を施した高さ110.8cmの像は、寄せ木造りの手法で造られたものです。穏やかさの中に厳しさもある表情と、写実的な衣服のシワなどの表現から幾内(京都に近い地域)の仏師によるものと考えられています。
他にも、木造不動明王立像や石造りの七重塔、寺に膨大に残る古文書は歴史資料としての価値が高く県指定重要文化財になっています。さらに、裏手斜面一帯は「相良家墓地」になっていて、相良氏歴代当主・夫人・子供・家臣など、計249基の墓石が五輪塔を中心に立ち並び、相良家墓地も県指定史跡に指定されています。
【8.相良村雨宮神社(通過説明)】球磨郡相良村川辺5886
日本一の清流・川辺川の浸食で形成された小丘上に鎮座。水神を祀り、かつて藩主の命で雨乞い祈祷が行われた。こんもりとした社叢は近年「トトロの森」と呼ばれています。
田中氏は、山の裾根には巨石が外周を囲み、ピラミットではないかと言われています。
【9.多良木青蓮寺阿弥陀堂 国指定重要文化財】球磨郡多良木町黒肥地3992
上相良三代頼宗が、永仁3年(1295年)に初代頼景公菩提の為、黒肥地の亀田山に創建したと伝えられる。この阿弥陀堂は飛騨の工匠の造作と伝えられ、現在も堂前に通称「飛弾」という地名が残っている。御堂は五間四面の四柱造の茅葺にして、軒高は約4.48m、軒より棟まで高さ約7.58mの木造大建築で、外観は一見極めて素朴であるが、鎌倉時代の荘重雄健の特色を持った建造物である。全体の老朽が著しい為、平成6年から3ケ年にわたり大改修が行われ、当時の姿に復元された。
阿弥陀如来仏の説明は、多良木町文化財保護委員の蓑田温子氏が説明されました。
【10.里宮神社(通過説明)】球磨郡湯前町3280-1
熊本県球磨郡湯前町の高台にある湯前城跡に立つ神社です。
縁結びの神様として名高く、水上村市房神社の遥拝所として昭和9年に再建されました。
市房山の中腹までの参拝が難しいため、この場所に里宮として移されました。
市房山神宮は、霊峰市房山を神体として、山中の本宮・山麓の一の宮神社(中宮)・湯前町の里宮神社(下宮)の3社で構成されています。
【11.湯前浄心寺】球磨郡湯前町瀬戸口5617
城泉寺(浄心寺)は鎌倉時代の初め(貞応年間:1222-1224)、久米氏によって建立されたと伝えられており、県内最古の木造建築であり、鎌倉仏教文化を代表する古寺です。境内には七重、九重、十三重の塔があり、七重、九重石塔が国指定重要文化財となっています。もともとの名前は浄心寺ですが、大正4年の仏像国宝指定の際、誤記されたことから「城泉寺」と呼ばれるようになりました。
今回の旅行は、駆け足での神社巡りでしたが、田中氏のユーモア溢れる解説で楽しく見学ができました。御姫様とひまわり様もお疲れ様でした。人吉城歴史館に17:00到着で解散となりました。今後も、春や秋に開催したいとのことでした。
夕食を買い込み、朝暘館ホテルへチェックインして4階へエレベーターで上りドアが開いたら、第39代のお殿様(知重氏)が正面へいらしたのでビックリ、部屋も隣でした。
綾乃姫様とは別々に来られて、人吉でお世話になった方に挨拶に来られたようで、宴会に行かれる前に運命の再会でした。どうしてこのホテルへと聞きすると、前回の引継ぎ式の時このホテルの温泉がとても良い事をお話ししたからでした。
エレベーターに乗るのが1分でもずれていたら、お殿様にもお逢いすることもなかったのに、これもご先祖様のお引き合わせを感じました。
翌朝朝食を、私たち夫婦とお殿様・奥方様と4人で食事した後、殿様が「お話しましょう」とおっしゃられて1時間ほどお話しました。
【12月1日人吉二日目】2025.12.1
9:00に田中氏の会社(香花堂)へ伺いました。4月に有った引継ぎ式の引き出物を受け取り。
引き出物は、相良家家紋入り青白磁盃一口桐箱入り(久保田烈作)と参列者集合写真を頂きました。
相良家家紋入り青白磁盃
午前中人吉市役所へ、戸籍の除籍謄本の再確認へ行きました。
その後10時に、令和2年7月の水害以来初めて、益田邸へ訪問しました。
益田氏とお逢いしたのは、14~15年前に先祖のお墓と系図の確認をしてもらったのがきっかけです。
お墓は城内の了清院跡にあり、清兵衛様と同じ場所に宮原家7代~14代まで眠っておられます。
了清院の相良清兵衛の墓(2013.10.4)
宮原家 7代~14代までの墓(2014.6.8)
鍋屋で集合写真(2013.10.4)
午後からは、あさぎり町岡原北の求麻郷土研究会会員の土屋・宮广氏へ挨拶に行きました。
熊本図書館で、郷土の書籍を発見した中に、岡原町の宮原城の復元図を見つけたのが始まりで、その後見つからなかった 9代のお墓を発見して頂きました。
宮原観音(2014.6.7) 犬童十兵衛(宮原十兵衛)2015.5.16
【12月2日人吉三日目】2025.12.2
今日は、宇城市松橋町の相良神社(相良堂)の例大祭の為、朝食後7:30出発です。
途中、八代郡宮原町・宇城市豊野でお土産やお野菜を買い物して、神社に9:30到着しました。
人吉からも益田様他11名も同時に到着され、神主様や地元の方に挨拶して神事が始まりました。
今回は神事が少し早く始まり、10:30頃終了でした。
地元の方や氏子のかたは、8時頃から清掃されてくださっています。大変ありがたい事です。
人吉から12名・相藤・宮原 (2025.12.2)
相良堂は豊野町糸石に所在しており、響ケ原の戦い(1581年)で討死した相良義陽(よしひ)とその家臣を祀るための供養塔です。
戦国時代末に、義陽と阿蘇家臣の甲斐宗運が戦った地である響ケ原に建立されたもので、ここでは義陽をはじめ数百人が討死したと伝えられています。
供養塔である板碑には、阿弥陀仏を意味する梵字と義陽の法名が記されています。
享保15年(1730年)には、中山手永の総庄屋であった中山孫左衛門が、碑を保護するために堂を建立しましたが、平成28年(2016年)の熊本地震で倒壊しました。現在は、地元の有志によって新しい材料で堂が新設されています。
薩摩の島津義久に阿蘇氏を討つことを命じられた義陽と、阿蘇家臣である甲斐宗運との戦い。天正9年(1581年)12月1日に、義陽は八千の軍勢をもって八代を出発し御船に向かい、小川と豊野の境にある娑婆神峠に陣を構え、赤峯尾城(堅志田城、現在の美里町)、豊内城(現在の甲佐町)を攻め落としました。
翌日の12月2日に、義陽は陣を響ケ原に進めて戦勝の宴を催しましたが、甲斐宗運はこれを不意打ちしました。突然の奇襲に総崩れとなり、勇士70余人、雑兵200余人が討たれ、義陽もまた戦死しました。
次に相藤さんのお世話で、神社より頂いたお弁当を、近くの防災センターで昼食をとりました。
休憩とお話がすんだら、次は豊福城の近くに相良家16代~18代を祀る。豊福長伝寺跡へ行きます。
左が17代義慈 右が16代晴廣
13:00時 今回は、ここで解散となりました。
いつもは、八代市の第18代相良義陽の首塚と第20代相良長毎の碑もお参りして、人吉の方とお別れしています。今回は2泊3日の旅でつかれた為、早めに切りあげました。
高速のパーキングで休み休み帰りましたので、春日市の自宅到着は16:00時頃でした。
到着して、17:30頃お殿様より電話があり、お殿様も同じ頃到着されたみたいで、お礼の電話でした。
今回は、観光・旧友の再会・お殿様と再会など思い出に残る旅行となりました。
※人吉・球磨地方は、県指定重要文化財や国指定重要文化財(国宝)が、熊本県内の2/3をしめています。
皆様も一度、人吉・球磨へ訪れてはいかがですか?歴史を体で感じる事ができますよ。











































