大切なご報告と、ご挨拶。(※長文)
結婚、渡仏します。
まきむらよ。
遅い時間にごめんなさい。でもどうしても、放送終了後すぐにご挨拶したかったの。
KTV「千原芸能社」冒頭でご報告させて頂きました通り、
私、牧村朝子は、今年6月、パートナーであるフランス人女性と、
結婚(※正確には同性婚は認められないため、PACSを締結)のため渡仏します。
それに伴い6月に撮影会を引退し、また「千原芸能社」も寿退社となります。
所属事務所オフィス彩には引き続き在籍し、芸能活動を続けます。
今後はパートナーと共に、フランスに生活の拠点を置き、毎年数ヶ月日本に戻る生活を続けます。
渡仏後も、日本で苦しむセクシャルマイノリティ、特にレズビアンの方々に
寄り添っていけるような活動を続けます。もちろん、芸能活動も含めて。
感謝の気持ちでいっぱいです。
レズビアンタレントとしてレギュラー出演させてくださった関西テレビの方々、
今後の活動にあたりお力を貸してくださるコンサルタントや編集者や映像作家の方々、
千原ジュニアさん・優木まおみさん・平田敦子さんを筆頭にさまざまなことを学ばせてくださった皆様、
(※道重さゆみさんは収録の都合で一度もお会いできなかったの……。残念だわ。)
レズビアンのための活動に対して理解を下さった、杉本彩さんはじめ事務所の方々、
わたしたち2人を認めてくれたパートナーの家族、およびわたしの家族、
そしてなにより、2年の芸歴を経た突然のカムアウトに関わらず、変わらぬご支援を下さる皆様。
正直、カムアウトできることはうれしい反面、少し恐かった。
知名度がまだまだなぶん、必死の売名だと笑われてしまうんじゃないか、とか。
また両親にも、私の挨拶ではなく番組によって、私が同性愛者だということが伝わりましたし、
いろいろ間違いをしたわ、わたし。けれど、みなさまのおかげで、まるくなりました。
ご報告とご挨拶は、以上です。この下は、もしご興味がありましたら、読んでいただけると幸いです。
お恥ずかしいですがすこし、自分の話をさせてください。
私は10歳の時、クラスメイトの女の子に恋をしました。美しく、明るく、素直な子でした。
友情とは明らかに違うその気持ちが、ふくらんで、ふわふわして、飛んでいきそうで抱え切れなくて、
私は誰だかに、にこにこしながら言ってしまったのだと思います。「私、あの子が好き!」って。
間もなく、私の近しい人から、喧嘩の勢いでこう言われました。
「うるさい! このレズ!」
片思いとか両思いとか、恋のおまじないで大騒ぎする小学校4年生の子供たちにとって、
同性愛者は気味の悪いものだったのでしょう。
私は周囲から距離をおかれ、うわさは知らないところへ広まり、
そして、中傷の矛先は私の近しい人へ向きました。私自身ではなく、私の近しい人へ。
それ以来、私はひどい自己嫌悪に苛まれ、男性を好きになろうと努力する日々が始まりました。
クラスで一番お調子者の男の子のことを、自分に言い聞かすように「あの子が好き!」と言い続け、
幼稚園の先生へのほのかな憧れも、セーラーマーキュリーのお嫁さんになりたかったことも忘れました。
やがて学年が上がり、先輩が私の目の前で「この子レズなんだよ!付き合ってあげて!」と笑い者にされた日も。
クラスでうまく友達が作れなかった私に、唯一好意を寄せてくれた女の子が、冗談半分に私を抱きしめてくれた日も。
男性に抱く、恋愛感情ではない憧れや友情や尊敬を、恋愛だと思い込もうと努め、
そしてだからこそ、尊敬する男性の体に性的興味を持てない自分をひどく責めました。
自分は男性を喜ばせられない劣等な女だと思い、焦燥と自己嫌悪に苛まれました。
私を好きになってくれる男性の前では、常に杉本彩さんのような情熱的な女性を演じ続けました。
ミス日本に挑戦したのも、そういうコンプレックスがあってのことだったのかもしれません。
ミス日本コンテストが終わり、22歳の春。
ミス日本事務局の先生方に、食事法や振る舞いのみならず精神的にも鍛えていただいた私は、
もう一度、過去の自分を信じてみようという気持ちになりました。
勇気を出して参加した、二丁目での、30名前後という規模のレズビアンパーティ。
そこで私は、Mさんというよい友人と、衝撃的な出会いをしました。
彼女は底抜けに明るく、レズビアンであることを親にも周囲にも隠さず、楽しく自由に生きていました。
私自身の劣等感の源であった「レズビアンであること」を、こんなにも楽しんでいる人がいる。
目の覚めるような思いでした。
けれどやはり、自分のこととなると勇気が出なくて。
私自身は、異性愛者を装いつづけました。子供も産みたいし男性と結婚しよう、と思っていました。
しかし思いとは裏腹に、男性はどうしても愛し切れなくて(繰り返すけど、尊敬や友情は感じるのよ)。
そんな中、あるパーティ会場でわたしは、とても知的でスタイリッシュな女性を見かけます。
恋は、するものじゃなくて、落ちるもの。私は人の波を掻き分けて、彼女の後姿を追いました。
「すてきね。」
「ありがとう。一緒に踊る?」
お互いの名前も訊かぬまま、私たちは踊り始めました。
彼女とは、何か、不思議な波長みたいなものが通じるのを感じた。
ずっとこの時間が続くといいと思いました。
そのときは、夢にも思いませんでした。生涯この時間が続いてくれることになるとは。
それから親へのカムアウトや、お互いの友人への紹介やいろいろなことがあり、
わたしたちはおかげさまで、共に人生を歩むこととなりました。
不思議なことに、彼女が日本語を学び始めたのは15歳、私がギリシャ語を学び始めたのも15歳。
しかも彼女のお父様は、フランス人だけれど、ギリシャ語をお話しになるのだそうです。
遠く離れたフランスと日本で、わたしたちは似たような青春を過ごしました。
女性として、女性に恋をし、けれどその気持ちを表に出せずに悶々とする日々を。
男になれたらどんなに楽だろう、と、男装をした時期もありました。
これは私が17、8歳のときの写真かしら。
男性になりたいわけではないのだけれど、そのほうが社会的に楽だろうと思っていたのね。
それに異性愛者の女の子たちは、男性っぽい格好をしたほうが関心を寄せてくれるから。
でもやっぱり、私の心は女性だから、いれものがちがって、苦しくて。
一時期は、親に隠してバイト代でカウンセリングに通ったり、
また携帯を投げてぶち壊したり、派手な格好をして知らない人に喧嘩を売ったりするような日々でした。
高校にもほとんど行かなかった。周りの人にも嫌われたし、私も周りの人を全員敵だと思ってた。
それがまさか、わずか6年後、こんな幸せがくるとは。
求めれば、与えられるものね。
時差8時間の距離を越えて、こんなに素敵な彼女と縁があったことに、よろこびと運命を感じるわ。
長々と自分の話をして、ごめんなさい。ずいぶん遅い時間になってしまいました。
もう、私みたいな暗い青春を過ごす人を、これ以上増やしたくないと思っています。
今でも私の周囲のレズビアンには、カムアウトできていない人たちがたくさんいます。
「男のよさを教えてやる」みたいなわけわかんない理由で暴行を受ける人とか、
「うちの国に同性愛者はいない」だなんて宣言する大統領とか、
「同性愛者だから」っていうだけの理由で処刑される人もいます。
目をそらしたくなるほどの世界です。
でも、わたしは、目をそらさないことに決めたわ。
今、彼女とわたしがこうしていっしょにいられるのも、
レズビアン含め性的少数者のために戦ってきた、歴史上の先輩たちのおかげ。
時代が時代なら、私たちの関係はゆるされなかったことでしょう。
日本には、レズビアンを処刑する法もなければ、表立った弾圧もありません。
比較的差別の緩やかな国に生まれた私には、苦しんでいるレズビアンの方々に対して責任があると考えています。
幸せになるわ。わたしたち。
わたしたちは二人ともいつか死んでいつか忘れられるし、
人間の業である差別や偏見が、社会から完全になくなることは、おそらくありえないでしょう。
けれど、せめて。
幸せになるわ。わたしたち。
おこがましいようですが、わたしたちが愛し合い、支えあい、共に歩み、生きていくことで、
レズビアンってことばすらいつか意味をなくすような、普通のことになってくれればと思います。
読んでくださって、有難うございます。
あなたとご縁があったことに感謝すると共に、
すこしでも、私があなたの悩みや苦しみに寄り添うことができたなら、と願ってやみません。
まきむらよ。
遅い時間にごめんなさい。でもどうしても、放送終了後すぐにご挨拶したかったの。
KTV「千原芸能社」冒頭でご報告させて頂きました通り、
私、牧村朝子は、今年6月、パートナーであるフランス人女性と、
結婚(※正確には同性婚は認められないため、PACSを締結)のため渡仏します。
それに伴い6月に撮影会を引退し、また「千原芸能社」も寿退社となります。
所属事務所オフィス彩には引き続き在籍し、芸能活動を続けます。
今後はパートナーと共に、フランスに生活の拠点を置き、毎年数ヶ月日本に戻る生活を続けます。
渡仏後も、日本で苦しむセクシャルマイノリティ、特にレズビアンの方々に
寄り添っていけるような活動を続けます。もちろん、芸能活動も含めて。
感謝の気持ちでいっぱいです。
レズビアンタレントとしてレギュラー出演させてくださった関西テレビの方々、
今後の活動にあたりお力を貸してくださるコンサルタントや編集者や映像作家の方々、
千原ジュニアさん・優木まおみさん・平田敦子さんを筆頭にさまざまなことを学ばせてくださった皆様、
(※道重さゆみさんは収録の都合で一度もお会いできなかったの……。残念だわ。)
レズビアンのための活動に対して理解を下さった、杉本彩さんはじめ事務所の方々、
わたしたち2人を認めてくれたパートナーの家族、およびわたしの家族、
そしてなにより、2年の芸歴を経た突然のカムアウトに関わらず、変わらぬご支援を下さる皆様。
正直、カムアウトできることはうれしい反面、少し恐かった。
知名度がまだまだなぶん、必死の売名だと笑われてしまうんじゃないか、とか。
また両親にも、私の挨拶ではなく番組によって、私が同性愛者だということが伝わりましたし、
いろいろ間違いをしたわ、わたし。けれど、みなさまのおかげで、まるくなりました。
ご報告とご挨拶は、以上です。この下は、もしご興味がありましたら、読んでいただけると幸いです。
お恥ずかしいですがすこし、自分の話をさせてください。
私は10歳の時、クラスメイトの女の子に恋をしました。美しく、明るく、素直な子でした。
友情とは明らかに違うその気持ちが、ふくらんで、ふわふわして、飛んでいきそうで抱え切れなくて、
私は誰だかに、にこにこしながら言ってしまったのだと思います。「私、あの子が好き!」って。
間もなく、私の近しい人から、喧嘩の勢いでこう言われました。
「うるさい! このレズ!」
片思いとか両思いとか、恋のおまじないで大騒ぎする小学校4年生の子供たちにとって、
同性愛者は気味の悪いものだったのでしょう。
私は周囲から距離をおかれ、うわさは知らないところへ広まり、
そして、中傷の矛先は私の近しい人へ向きました。私自身ではなく、私の近しい人へ。
それ以来、私はひどい自己嫌悪に苛まれ、男性を好きになろうと努力する日々が始まりました。
クラスで一番お調子者の男の子のことを、自分に言い聞かすように「あの子が好き!」と言い続け、
幼稚園の先生へのほのかな憧れも、セーラーマーキュリーのお嫁さんになりたかったことも忘れました。
やがて学年が上がり、先輩が私の目の前で「この子レズなんだよ!付き合ってあげて!」と笑い者にされた日も。
クラスでうまく友達が作れなかった私に、唯一好意を寄せてくれた女の子が、冗談半分に私を抱きしめてくれた日も。
男性に抱く、恋愛感情ではない憧れや友情や尊敬を、恋愛だと思い込もうと努め、
そしてだからこそ、尊敬する男性の体に性的興味を持てない自分をひどく責めました。
自分は男性を喜ばせられない劣等な女だと思い、焦燥と自己嫌悪に苛まれました。
私を好きになってくれる男性の前では、常に杉本彩さんのような情熱的な女性を演じ続けました。
ミス日本に挑戦したのも、そういうコンプレックスがあってのことだったのかもしれません。
ミス日本コンテストが終わり、22歳の春。
ミス日本事務局の先生方に、食事法や振る舞いのみならず精神的にも鍛えていただいた私は、
もう一度、過去の自分を信じてみようという気持ちになりました。
勇気を出して参加した、二丁目での、30名前後という規模のレズビアンパーティ。
そこで私は、Mさんというよい友人と、衝撃的な出会いをしました。
彼女は底抜けに明るく、レズビアンであることを親にも周囲にも隠さず、楽しく自由に生きていました。
私自身の劣等感の源であった「レズビアンであること」を、こんなにも楽しんでいる人がいる。
目の覚めるような思いでした。
けれどやはり、自分のこととなると勇気が出なくて。
私自身は、異性愛者を装いつづけました。子供も産みたいし男性と結婚しよう、と思っていました。
しかし思いとは裏腹に、男性はどうしても愛し切れなくて(繰り返すけど、尊敬や友情は感じるのよ)。
そんな中、あるパーティ会場でわたしは、とても知的でスタイリッシュな女性を見かけます。
恋は、するものじゃなくて、落ちるもの。私は人の波を掻き分けて、彼女の後姿を追いました。
「すてきね。」
「ありがとう。一緒に踊る?」
お互いの名前も訊かぬまま、私たちは踊り始めました。
彼女とは、何か、不思議な波長みたいなものが通じるのを感じた。
ずっとこの時間が続くといいと思いました。
そのときは、夢にも思いませんでした。生涯この時間が続いてくれることになるとは。
それから親へのカムアウトや、お互いの友人への紹介やいろいろなことがあり、
わたしたちはおかげさまで、共に人生を歩むこととなりました。
不思議なことに、彼女が日本語を学び始めたのは15歳、私がギリシャ語を学び始めたのも15歳。
しかも彼女のお父様は、フランス人だけれど、ギリシャ語をお話しになるのだそうです。
遠く離れたフランスと日本で、わたしたちは似たような青春を過ごしました。
女性として、女性に恋をし、けれどその気持ちを表に出せずに悶々とする日々を。
男になれたらどんなに楽だろう、と、男装をした時期もありました。
これは私が17、8歳のときの写真かしら。
男性になりたいわけではないのだけれど、そのほうが社会的に楽だろうと思っていたのね。
それに異性愛者の女の子たちは、男性っぽい格好をしたほうが関心を寄せてくれるから。
でもやっぱり、私の心は女性だから、いれものがちがって、苦しくて。
一時期は、親に隠してバイト代でカウンセリングに通ったり、
また携帯を投げてぶち壊したり、派手な格好をして知らない人に喧嘩を売ったりするような日々でした。
高校にもほとんど行かなかった。周りの人にも嫌われたし、私も周りの人を全員敵だと思ってた。
それがまさか、わずか6年後、こんな幸せがくるとは。
求めれば、与えられるものね。
時差8時間の距離を越えて、こんなに素敵な彼女と縁があったことに、よろこびと運命を感じるわ。
長々と自分の話をして、ごめんなさい。ずいぶん遅い時間になってしまいました。
もう、私みたいな暗い青春を過ごす人を、これ以上増やしたくないと思っています。
今でも私の周囲のレズビアンには、カムアウトできていない人たちがたくさんいます。
「男のよさを教えてやる」みたいなわけわかんない理由で暴行を受ける人とか、
「うちの国に同性愛者はいない」だなんて宣言する大統領とか、
「同性愛者だから」っていうだけの理由で処刑される人もいます。
目をそらしたくなるほどの世界です。
でも、わたしは、目をそらさないことに決めたわ。
今、彼女とわたしがこうしていっしょにいられるのも、
レズビアン含め性的少数者のために戦ってきた、歴史上の先輩たちのおかげ。
時代が時代なら、私たちの関係はゆるされなかったことでしょう。
日本には、レズビアンを処刑する法もなければ、表立った弾圧もありません。
比較的差別の緩やかな国に生まれた私には、苦しんでいるレズビアンの方々に対して責任があると考えています。
幸せになるわ。わたしたち。
わたしたちは二人ともいつか死んでいつか忘れられるし、
人間の業である差別や偏見が、社会から完全になくなることは、おそらくありえないでしょう。
けれど、せめて。
幸せになるわ。わたしたち。
おこがましいようですが、わたしたちが愛し合い、支えあい、共に歩み、生きていくことで、
レズビアンってことばすらいつか意味をなくすような、普通のことになってくれればと思います。
読んでくださって、有難うございます。
あなたとご縁があったことに感謝すると共に、
すこしでも、私があなたの悩みや苦しみに寄り添うことができたなら、と願ってやみません。