朧月(長野)


                            カメ太郎
                                                                      

 8月7日の夜に僕は長崎に逃げて帰った。その何日か前の日のことだった。僕は長崎の実家に夜、荷物を送っていた。夜でなければ怪しまれるのでいつも夜クルマに乗せてコンビニエンスストアへ向かっていた。その夜に出会った。
 僕はそのとき荷物をレジーに出して冷房の吹き出し口を見つけていたのでそこに立っていた。
 もう何日こういう夜を過ごしていただろう。長崎の実家へのこの荷物送りはピークを過ぎていたと思う。初めの頃は1週間に1回ぐらい。次は3日に1回ぐらい。次は毎日のように。
 実家への荷物送りは秘密裏のうちに行わなければならなかった。またこのコンビニエンスストアは宅急便のように早くはないが半額もしない引っ越し便を扱っていた。そのためアパートから比較的離れたこのコンビニエンスストアばかりを使っていた。でも、アパートから真っ直ぐの道をクルマでひた走るだけのいつも通り慣れた道だった。夜、テンプレートを填めて何度この道を往復しただろう。ボクシングをするスポーツセンターが休みの日には。テンプレートを填めて走って片道5分程度の短い距離だった。でも、狭い道だった。
 
 時刻は12時近かったのではないかと思う。他にお客は居なかった。真夜中でも2人働いている比較的に大きいコンビニエンスストアだから9時10時ではなかった。11時には少なくともなっていた。
 そのとき病院の看護婦である吊り目さんが誰か友達と思われる同じ年頃の女性とともに入ってきた。吊り目さんとは担当の患者さんが同じであり、その患者さんがなかなか良くならず吊り目さんはかなり僕に対して悪感情を持っていた。もちろん僕は知らないふりをして立ち続けていた。一列向こうには週刊誌などのコーナーがあり僕はそこを向いていた。
 僕は冷房の吹き出し口にぼんやりと立っていた。きっと何故そこに立っているのか、何をしているのか少し訝しかったと思う。
 するともう一人の僕好みの女の子が僕と喋りたいというように週刊誌などのコーナーに歩いてきた。明らかに僕と喋りたいという意志が見られた。
 僕は喋らなかった。喋りかけたら九州へ帰る計画が挫折してしまう。喋ってはいけないと思ったし、喋るのがおかしい自分は今までのいつものように喋りかけきれなかった。いつものいつもの繰り返しだった。

 僕が長野から居なくなった次の日にこの子と吊り目さんが僕のことを病院で喋っていたということだった。僕はその子が同じどんぐり山病院に勤めていることを知らなかった。今まで見たことのないようだった。でも2月の終わり頃、一時僕を長野に連れ帰った副院長になった先生は「新館2階に若い子はあの2人しか居ない。」「カメ太郎先生が居なくなった次に日に看護婦の吊り目さんともう一人の子が夜、カメ太郎先生を000で見たことを喋っていた。」「π-water のおばちゃんが“あんたたち、そんな遅い時間に何していたの?”と言っていた。」と言っていた。
 僕がその子が新館3階のあの子であることを気付いたのは5月半ばのことだった。副院長になった先生は、「新館2階」とは言わなくて「新館」とだけ言ったのを自分が聞き違えていたと思われる。10カ月ぐらい気付くのに遅れた。新しい勤務先である福岡で仕事に行き詰まり首になるのではないかと思われ長野へ帰ることを考え始めた頃、偶然気付いた。でも今も本当にあの子なのか、少し心配である。
 もしこのときこの子と喋っていたら僕は長野から帰らず現在のような苦境に陥っていなかった。そしてあの居心地の良いアパートで幸せに暮らしていたと思う。

 僕は2月の終わりから1カ月ほど長野に戻っていた頃、ある日曜日、日直をしていたとき、新館3階の患者さんが具合が悪くなって行ったときその子が居た。そして僕に非常に親しげにしてくるので訝しかったがあのときのあの子であることを考えると納得がいく。たしかによく似ている、でもそのとき自分は新館2階にその看護婦さんが居ると聞き間違えていた。

          5月18日 日曜日 長崎の実家に福岡より帰ってきていて

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         去年の8月初めの頃、セブンイレブンで出会った目の大きいポッチャリとした女の方へ


 僕は僕が長野を去る数日前、去年の8月初めの頃、セブンイレブンで出会った僕好みの美しい女性があなただということを最近になってようやく気付きました。僕の間違いかもしれません。でも、きっとあなただったのだと今思っています。
 美しかったです。僕は新館3Fの看護婦さんをしているあなたであることに気付きませんでした。とても美しかったです。でも僕はそのとき長野を去る決意は固く、喋りかけることはできませんでした。それに僕は今まで、喋り方がおかしいため悲しい思い出を幾つも経験していましたのでとても喋りかけることはできませんでした。
 喋ると幻滅されるという悲しい経験を今まで幾つも経験してきました。中学生、小学生の頃からですから僕は悲しい失恋の思い出ばかりでした。
 今、福岡の病院に勤めています。条件は決して良くはありません。状況も決して良くはありません。でも僕もそろそろ身を固めなければならないと最近強く思っています。
 身を固めるならあなたとしたいです。あなたのような気立てが良くて僕好みの女性は九州にはほとんど居ません。
 でも長野から九州までは遠く、無理なのではないかと思ってもいます。でもできれば九州まで来てもらいたいです。僕は去年の8月、九州に戻ってきてからずっと、長野を去る数日前にセブンイレブンで出会った僕好みの女性のことをずっと心に掛けてきました。今も瞼に残っています。とても美しかったです。

P、S、
 長野の自然に溢れた土地柄、懐かしいです。長崎や福岡はすぐ側に海があります。川はほんのちょっとしかありません。
 大きな川に2mぐらいの鯉が泳いでいると聞いていました。何百年も生きている鯉もたくさん居ると聞いていました。そして他にも、幻の魚がいると聞いていました。
 今、自分の住んでいるところは福岡市の町はずれで田圃に囲まれていて新築の2DKのアパートは夜になると食用カエルが鳴きます。田園都市のようなところです。
 長野と九州では温暖の差もあり、異郷のようなところです。九州ではスパイクタイヤに履き替える必要はありません。冬でも雪が降る日は珍しいですし、雪が降り積もる日もほとんどありません。
 でも夏が暑いです。暑がりやの僕には夏は辛いです。それに最近は野菜ばっかり食べて暑がりを治そうとしています。

 福岡での日々は厳しく、長野でのようにのんびりとした気楽な日々ではありません。長野はとても住みよかったです。だから長野に帰ろうか?と思う毎日です。弱気になると長野に帰ることを思います。長野でのんびりと暮らそうかな、と思うこの頃です。
 
   福岡県前原市大字浦志279
     レオパレス浦志205号
          カメ太郎
      TEL 092-321-0343

 本当に長野は住み良かったです。涼しくて、女の人が目が大きくてポッチャリしていて僕好みでとても良かったです。今、九州は厳しいです。本当に長野に帰ることを思うこの頃です。
 厳しい日々に耐えきれるか僕には解りません。

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     長野市どんぐり山695
      どんぐり山病院

 新館3Fの去年の8月初めの頃、セブンイレブンで出会った目の大きいポッチャリとした看護婦さんへ

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 今、5月28日。福岡での毎日は、長野での日々のようにのんびりとしたものではなく、疲れ果てる日々が続いている。
 長野の創価学会の長に指導を求めたとき「長野にずっと居なさい」と言われた。それは理屈を越えた正しい指導だったような気がする。
 今の日々が厳しい。長野でのように暢気な日々ではない。 
 長野の創価学会の長は僕が長野に住み続ければ幸せになれることを見越してそう言われたような気がする。

 涼しい長野。湖や大きな川がたくさん有ってそこには大きな珍しい魚が生きている。


 自分は研究者としてやってゆくべきでした。一度、研究者への道を進み始めながらも長野県の病院からの執拗な勧誘に負け、研究者としての道を閉ざし、再び臨床の分野に進んだことは間違いだったと思います。しかし、間違えても自分は負けない人間です。創価学会です。勝つしかないのです。長野に再び、いや三度、戻ることも考えはします。あの夜、僕が長野を去る数日前、コンビニエンスストアで見たあなたの姿は今も僕の瞼に残っています。
 新館3階のよく見ているあなたであることを僕は全然気が付きませんでした。思えば、よく似ています。でも、つい最近まで解らなかったのです。解ったのは、福岡での仕事に行き詰まりかけていた10日ほど前のことでした。現実の厳しさに負けそうになりかけていた僕の脳裏に突然浮かんできました。
 長野でのんびりと過ごそうかという考えもあります。長野は自分にはとても住み良かったです。のんびりしていて、自然一杯で、僕好みの女性がとても多くて、住み良くて、僕は好きでした。世間の風潮に流された僕は間違ったのかもしれません。
 でも、福岡で負けるわけにもいかないのです。長野でのんびð閧ニ、という誘惑のような考えによく囚われます。でも、自分には使命があると思っています。負けられません。分裂病や神経症で苦しんでいる人たちを助ける画期的な治療法を見つけ出さなければいけないのです。


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 あの夜、冷房の吹き出し口で涼みながら、もう決めていた長野脱出を思い留まらせる魔の働きかと思いました。いや、これは長崎に帰ってきてあの夜の美しい女の子のことを思い出しながらそう思ったのでした。
 美しかったです。もう何日後かに迫った長野脱出がその目の前の美しい女の子に喋り掛けたら崩れてしまうとそのときは少しはたしかに思ったと思います。たしかにあのとき喋り掛けていたら崩れたと思います。しかし自分は喋り掛けませんでした。今まで、自分のおかしい喋り方でどれだけ悲しい思い出を築いてきたかを考えました。
 自信が無かったのです。悲しい恋の思い出が数多く有りました。高校3年の頃の高総体でのバスケットボールを観戦していたときの女の子----もう何年前になるでしょう。今35だから17年前のことになります。美しい女の子でした。高総体の初日だったと思います。17年前、1980年6月初旬のことでした。あなたとそっくりの目の大きいポッチャリとした女の子でした。
 僕好みのそしてとても美しい女の子でした。あなたと本当にそっくりでした。僕より2つ年下としてもう33にはなっています。たしか活水高校の女の子でした。
 僕はそのときも喋り掛けなかったのです。その女の子が僕とお話をしたいという意志表示をどんなにしても僕は喋り掛けませんでした。あの悲しい思い出からもう17年経っている。今、今日、6月3日です。たしかあの17年前の高総体の日も6月3日だったと思います。

 長野になぜこんなに美人が多いのか不思議でした。他の人はそうは言いません。でも僕好みの女性が長野にはたくさんいました。5人に1人は菊池桃子と病院のナンバー2になった00先生と長野に向かう汽車の中で話したものでした。長崎や福岡には菊池桃子は30人に1人ぐらいしか居ません。いや、僕の好みそのものの女性が長野にはたくさん居て九州にはほとんど居ません。
それは長野には菊池桃子が4人に1人居て九州には菊池桃子が50人に1人しか居ないと言って良いと思います。それほど長野には僕好みの目が大きくてポッチャリタイプの女性がたくさん居ました。
 
 そして長野はパソコンが安くて店がたくさんありました。福岡に今住んでいますが中心地に行かないとパソコンをたくさん置いているところはなくてとても不便です。長野は駐車場はタダです。福岡は中心地まで遠く、駐車場も高く一時間500円も取られます。
 それに長野は大きな安いパソコンショップまで自転車で10分も掛からないで行けます。クルマでは遠くのパソコンショップにも20分も掛からないで行けます。そして珍しい海外のソフトもよく置いてありました。
 そして長野は大きな川がたくさん有って、僕の親父は魚釣りが大好きだけど僕の父は長野に来たら淡水魚釣りに凝るのではないかなと思います。長崎では考えられない鯉や鮒や雷魚やいろんな不思議な魚が長野ではたくさん釣れるので父は喜ぶような気がする。父は長崎に舟を持っていて毎週魚釣りに行っているから長崎から離れるのは父にはとても辛いことだと思っていたけど長野に来たら今までほとんどしたことのない淡水魚釣りに凝り始めてかえって喜ぶような気がする。
 海がなくて山と川だけだけど、それがかえって父には淡水魚釣りができて良いような気がする。

 長野に戻ろう、長野に戻ろう、もう鍼の勉強は充分した。あとはこれを精神科の病気で苦しんでいる人たちに応用するだけなのかもしれない。



 最近、何処の病院も金儲けのために動いている。良心的な病院は経営困難に陥り破産していったりしている。大学病院など公立の病院は儲ける必要はないからみんな大赤字だ。儲けようと思わなかったら赤字になってしまう。良心的に行おうと思えば赤字になってしまう。
 どんぐり山病院は身寄りの無い人を救ってきたし、行き倒れの人を救ってきた。だからあの脱税は見逃すべきなのに共産党系のマスコミの陰謀と思う、有ること無いことをごちゃ混ぜにして報道した。悪いことは強調して、良いことはほとんど触れずに。
 逮捕された初代の院長はものすごく人情家でおそらくこれほど人情家の人は居ないくらい人情家だった。奥さんもとても良い人だった。子供も長男を除いてはとても良い人間だった。しかし今、長男が跡を継いでいる。
 金儲け、サービス業である病院、自分は失望している。自分が今勤めている病院は金儲けに奔走している。何処の私立の病院もほとんど総てそうだとは思うが、患者の幸せを思う心、何処でもそうだとは思うがやはり幻滅してしまうところがある。


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 自分の心の弱さに呆れてしまうことがよく有る。誰でもこうだとは思いながらも、自分は特別に厳しい状況に有るのだから、----しかし、余りにも厳しすぎる状況を思うと、----長野に帰るしかないように思えるときがよくある。楽天家すぎるほど楽天家の自分も、状況は実際余りにも厳しいことを考えると、長野に帰るしかないように思える。
 長野には僕好みの女性がたくさん居るから、僕は僕好みの女の子と結婚して、そうして平凡に生きてゆこうとよく考える。20代の先生との誓いを捨て、平凡にのんびりと生きてゆこうかとよく考えてしまう。分裂病を治すことは不可能、神経症さえ治すことは至難の業で、鍼で治そうと心に決めた決意はもう捨ててしまおうとよく考えてしまう。
 自分が今考えて実行している足による病気治癒の方法を長野でゆっくりと考えてゆこうと思ってしまう。親は遠く離れた長野に僕が住むのだから寂しいとは思うけれど、僕は生まれながらにしてこういう不幸な病気を背負っている。仕方がないんだ、妥協するしかないんだ、とよく思ってしまう。
 長野で生きてゆくのが自分の使命の道なのだと思えることがよくある。大学院を途中で退学し、長野のその病院へ去った自分は実は自分の本来の使命の道をそうやって進んでいたんだと思えることがある。そしてその思いが最近段々と強まりつつある。
 そして自分が九州へとこうして帰ってきて今こういう日々を送っているのも長野で大きく羽ばたくための勉強のときで、自分は再び長野へ帰って自分の使命の道を歩むんだ、長野は涼しくてものすごく暑がりの自分にはとても過ごしやすい土地なのだからやはり自分がこれから生きてゆく使命の地なんだと思えることがよくある。もう勉強はかなり行ったからそろそろ帰ろう、帰るべきだ、と思えることがよくある。
 長野で再び精神病への戦いを始めるんだ、長野はとても僕には住みやすくて僕がこれから一生を過ごすべき土地だとどうしても思える。
 この福岡の新築のマンションはとても住みやすくなってðォていて、日曜日ずっと居ても楽しい。しかし、安逸に耽ってはいけない、青年は苦難を自ら選んで進んでゆかなければならない、という先生の指導を思い起こす。
 もう一度、もう一度長野で戦おう、そうだんだんと思うようになってきた。福岡での仕事に行き詰まり掛けてきた。長野に帰ろう、長野でこれから生きてゆくのが自分の使命なのだと思える。
 自分の使命の地が長野なんだと思える。福岡でこのまま安逸として暮らすのか、それでいいのか、と思うことが数日前からあるようになった。
 
 福岡は長崎に近く、毎週週末に帰れる。長崎で何か有ったときはすぐに帰れる。長野は遠い。飛行機でしか往復することは不可能に近い。
 使命の道が何処なのか、煩悶する。長野か、福岡か、解らない。

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  美しき有沢のおばちゃん元気でしょうか? 美しきπ-water のおばちゃん元気でしょうか? 僕は疲れ果てました。毎日、ネクタイをはめていかなければならない福岡での病院の日々に疲れ果てました。長野に戻ることを本気で考えています。そして長野を去る数日前、夜、ローソンで見た幻の美少女が誰であるかということをこのまえ解りました。
 連絡を待ってます。
 
 tel 092-321-0343   カメ太郎

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 僕が新しく移り住んだところは住むのに良くはありません。パソコンショップは遠いところにしかないし、長野より田舎です。福岡の繁華街までクルマで15kmほどで、時間は1時間はかかります。そして土地勘はないし、とても不便しています。
 給料も安いですし、当直がありません。当直があったら長野に居たときより高い給料になると思うのですけど。
 長野は土曜日も休みでしたが、ここは土曜日も午後3時くらいまで居なければいけません。長野は完全週休2日だったのにここは週休1日だけです。仕事も昼食を夕方頃とるような毎日です。辛いです。長野に帰ろうとよく思います。
 ですからパソコンにも流行に遅れてしまいます。パソコンを触っている暇があまり無いといった感じです。辛いです。長野の日々はのんびりしていて、とても良かったです。
 クルマで気ままにパソコンショップなどを行き来できた長野。首になることを畏れないで仕事をできた長野。呑気に働けた長野。院長の一家も長男以外はとても良い人だった。
 長野に帰ろう、僕が菊池桃子と思ったあの子が居るし、僕はあの子と結婚したら幸せになれると思えるし、あの子のような女の子は九州にはとても居ない。僕は幸せになるために長野に行ったんだ。九州でのこんな日々は休息なんだ。休息はもう終わった。
 
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  美しき有沢のおばちゃんへ
 また長野に戻って可哀想な別館1階の患者さんたちの世話を一緒にしたいという思いは強いです。でも今は、院長は逮捕されて新しい院長になっています。新しい院長は2月に帰ったときは良かったですけど、院長が逮捕される前のドラ息子に戻ったら厭というか、1回目の長野を去る一つの大きな原因になったのがその長男が自分を苛めるからでした。僕は心のなかで僕の心の支えである“11、23、1994”という言葉を唱えながら耐えていました。
 別館3階でその苛めがよく行われていました。アルコールの患者さんの中にはそれを見て自分に声を掛ける患者さんがいました。その患者さんは不当に長期に亘って入院させられていることを激しく不満に思い、よく自分にその不満を言っていました。
 よく考えると別館1階の患者さんは本当に恵まれない人が多く、退院させようにもさせられない患者さんたちで一杯でした。心根は優しいのだけど、アルコールに弱いというか、退院させるとアルコールに溺れてしまう患者さんや生まれつき知能の低い患者さんで一杯でした。その患者さんたちを介護するのは本当に大変だったと思います。でも3階の荒くれ男の集まりを思えばみんな心根の優しい人たちばかりでとても楽しい処だったと思い出しています。
 別館1階の患者さんたちはそれだからとても良かったと記憶しています。

 別館1階のアルコールの患者さんの中に前代の院長が脱税問題で逮捕されて長男が院長となったとき回診のとき新しい院長に酒に酔いながら不満をぶち掛けている患者さんがいました。職業安定所に行かせると酒を飲む、そういう患者さんでした。
 たいへんだったと思います。

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 あの夜、冷房の吹き出し口で、朧月を見るように僕は君を見た。美しい女性が誰であるのかを僕はそのとき解らなかった。あなたは朧月のように美しく本のコーナーの方に(僕が立っているすぐ前の方に)歩いていった。でも僕は喋りかけなかった。こういうとき、喋れば悲しい事が起こっていた。そういう悲しい過去の思い出が僕には有った。
 僕は喋り掛けなかった。誰だか解らなかった。いつもよく見ている新館3階の看護婦さんであることに気付かなかった。看護婦姿のいつもの君とは違って見えた。
 そして長崎に帰ってきて、あの夜、コンビニエンスストアで見た美しい女性のことがとても気に掛かっていた。長野で、僕が、長野を去ろう、九州に帰ろう、と心に決めていたとき、なぜ美しい、とても美しい女性が現れたのか、不思議だった。もう、荷物の3分の2ぐらい、長崎の実家に送っていた。アパートは、もう、荷物が少なくなっていた。帰る準備は、充分に整い始めていた。
 あのとき何故そのような美しい女性が現れたのか、長崎に帰ってきて不思議だった。何故なのか、とても煩悶した。そして2月の終わり、僕が幻のように長野に帰ったとき、たしか長野に帰ってまだ1週間も過ぎていなかった頃、一太郎先生が日曜日の日直を厭がって僕に回したとき、偶然のように新館3階の患者さんが具合が悪くなって、そして僕が駆けつけたとき、君がいた。でも、そのときでも、僕は君があのときの女性であることに気付かなかった。
 あのとき、とても僕に愛想良く振る舞っていた君、僕はそれが何故なのか、そのとき解らなかった。それが解ったのは、つい1カ月ほど前のことだった。

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 今、朧月が出てカエルが泣いています。雨カエルなのか、食用カエルなのか、解りません。でも、ときおり、大きなジャブンという音がしますから、食用カエルなのだと思います。
 長野に帰ろうか、この福岡でしぶとく生きてゆくか、際どいところと思います。院長の考え一つで自分は首になります。いつ首になるか、際どいところと自分は判断しています。
 長野では息子が院長になったにしても前の院長は家では健在ですから息子の考え次第で首ということにはなりません。長野に戻れば快適な日々が再び訪れると思います。快適すぎて信仰が惰性に流されるという日々が再び訪れると思えます。
 自分は鍼に賭けようという決意で今生きています。経絡敏感人という希な人間であること2、3日前、気付きました。経絡敏感人だから神経症などで苦しめられています。しかしこれを使命に変えるのだという決意があります。しかし危ない際どいところです。
 今の職場で勝利者にならなければならないという使命が自分にはあります。今、再び、佐賀でのときのように、朝3時間近く唱題をして仕事に行くという毎日を再びやり抜かなければ必ず敗北してしまう厳しい状況にあります。佐賀でのその日々はもう3年近く前のことになります。今の自分は、もう体力的にも衰え、その気力を再び奮い起こすことは困難です。
 でも、困難でも、再びあの頃の気力を奮い起こさなければという自覚はあります。しかしやはり気力も体力も衰え困難です。
 困難でもやらなければ、再びあの頃の決意に立たなければ、土俵際、断崖絶壁の状況にある自分です。
 長野以外では、土俵際、断崖絶壁の中で生きてきた自分であります。土俵際、断崖絶壁に慣れていると言っても良いのかもしれません。

 長野しか自分が生きる道はない、自分はそう最近思ってもきました。
   
         *(結局、出さなかった、書きながら途中から出さないと思った手紙) 

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  朧月のように君は歩いた。僕の目の前の本のコーナーへと。でも僕は喋り掛けなかった。過去に悲しい悲しい思い出をたくさんたくさん経験してきたから、だから僕は喋り掛けなかった。
 いつもいつも僕はこういうとき口を閉ざしたままだった。喋れば嫌われる。悲しいその思い出が僕の目に走馬燈のように浮かんでいた。
 中学・高校・浪人時代・大学時代、悲しい思い出ばかりだった。高校3年の高総体のときの女の子に似ていた。目が大きくて、ちょっとポッチャリとしていて。
 僕とお話をしたいという明らかな意志表示も高総体での女の子に似ていた。あれから18年、僕はまた同じような経験をするようだった。
 長野で過ごした今まで1年3カ月の月日が走馬燈のように僕の目に映っていた。喋りきれない。喋ると笑われる。1年3カ月過ごした長崎から遠い異国のような土地で僕は始めて僕の幻のような女の子と出会った。
 長野には僕好みの美しい女性はたくさん居た。でもこれほど僕の好みにぴったりの女性は初めてだった。
 美しい女性だった。


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 美しきπ-water のおばちゃんへ

 僕はもうπ-water を飲まなくなりました。今は鍼による治療に追い回されていてそれどころではないからです。
 自分にはπ-water はあまり効きませんでした。本に書いてあるようにはなかなか効かないことを痛感しています。それが何故なのか解りません。
 鍼治療に訪れる人たち、中には確かにどうにかして助けてやらなければならないと思う人たちもいます。でも中には「家でサロンパスでも貼っておけ。」と言いたくなりたいような人たちも数多いです。そしてここはどんぐり山病院のようにのんびりとした病院ではありません。脳外科の病院です。適当に年休を取ることは許されません。日曜日しか休みはありません。土曜日も午後5時ぐらいまで居なければいけません。2時には土日の当直の先生が入りますが、鍼の急患が入ったら自分が対応しなければなりません。2回前は成功しました。大成功でした。でも、前回は失敗でした。そしてそれが何故なのか解りません。医学的に説明不可能です。
 東洋医学の分野です。

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