真実は何なのか、と僕は考えてしまう。生きることは何なのか、と僕は考えてしまう。そうしてときどき絶望感にとらわれてしまう。楽しいことがないから。希望があまり見あたらないから。
    
    
     愛子
     僕らの海はもう遠い海になってしまっている。もう愛子が福岡へ行ってから何年になるのかなあ。僕は三年も留年したし、いつが何年前のことだったのか思い出せないようになっています。
     僕らは○○の岸壁で楽しく語り合ったけど、僕は愛子を傷付けそして愛子が次の日
    
    
    
     僕らの恋は白い鳩になってもう何年も前に長崎から飛び立っていっただろう。僕が精神病者となり果てて精神病院から福岡の愛子へ手紙を書いてから愛子から全く手紙が来なくなったことを僕はこの頃やっと気付きました。
     愛子。僕は立ち直っているのに。小さい頃から中学・高校そして大学一年まで一生懸命していた創価学会の信仰を再び始めて立ち直っているのに。
     もう遠い昔の恋物語になろうとしているんだなあ、と思ってしまいます。僕と愛子が最後に会ってからもう5年ぐらいになろうとしているんじゃないかなあと思います。あのクリスマスの頃の雪の降るとても寒い夕方から。
     僕の手紙は、僕は真心を込めて書いたつもりなのに、愛子に嫌われて……
    
    
    
    
     愛子へ
     僕は酒ばっかり飲んで、以前3ヶ月近く住んだことのある福岡の町並みを、とても淋しく思いながら、愛子がそこで今何をしているのかなあ、と思いながら、悲しくて、愛子の手紙を全て捨ててしまった後悔の思いや、もう過ぎ去ってしまった元気だった青春の頃の思い出を振り返りながら、昼間から酒ばっかり飲んでいます。愛子のところに電話する勇気もないし、僕は酒ばっかり、酒ばっかり飲んで、やっと2、3時間眠っています。
    
    
    
    
     愛子
     あの12月の最後の夜のことを覚えているかい。僕らはあれ以来会わなかった。あの寒い12月の夜、僕らは護国神社の周りの道を肩を寄せ合うようにして歩いた。小雪がぱらついていたね。
     午後6時ぐらいだったと思う。僕らは本屋で待ち合わせてそれから護国神社の周りの道を歩いた。もう外はまっ暗だった。
     愛子は『寒い、寒い』と言っていた。オーバーを着ていない愛子には本当に寒い日だったと思う。でも暑がり屋の僕は学校から本屋の前まで250ccのバイクに乗って来た。
     あの日から僕らは4年半も会ってない。冷たい寒い12月のあの夕暮れから、僕らはずっと離れ離れになっている。愛子は博多で、僕はそのままずっと長崎で、僕らはお互い離れ離れに暮らしてきた。僕はとても寂しかった。愛子は青春を謳歌していたような気がする。でも僕はその頃から精神病者に変わり果て、ずっと孤独な年月を送った。とくにこの2年半はずっと一人きりだった。
    
    
    
    
           (学四・三月)
     愛子
     君と一緒に歩いた護国神社の前の小さな道、もう春になりかけた今、歩いている。君を苦しめ、僕たちの間を裂いた僕の対人緊張症はそのままで、僕はまた留年するかもしれない。一生懸命、一生懸命勉強しているけど、僕の頭には少ししか入らなくて……。
    
    
    
    
     愛子へ
     今さらこんな手紙書くのも恥ずかしいけど懐しくなってきて、いま愛子はどうしているかなあと思って書き始めました。
     このまえ手紙書いたのはいつだったかなあ、と思っています。去年は留年していてとても苦しかったです。今年はやっと最終学年に進めて毎日勉強で大変です。ときどき挫けそうになることもあるけれど、僕はこのまえから小さい頃から大学一年まで一生懸命にやっていた創価学会の信心を再び始めたからもう落ち込んだり挫けたりしなくなりました。
     学校で叱られて落ち込んで帰ってきても仏壇の前に座って題目をあげてたらすっきりとします。それに創価学会に戻って本当の友達ができたしもうあんまり寂しさを感じなくなりました。
     今、夜の11時で少しお酒を飲んで書いてるのでちょっと字が乱れていると思うけどゴメンネ。愛子、元気にしてましたか? もう結婚したのかもしれないのにこんな手紙を書いてすみません。
     僕の部屋に僕専用の電話機を引いたことを書いたかなあと思います。電話番号は0958-39-4557です。パイオニアの留守番電話機を使っています。でもほとんど誰からも電話はかかって来なくて淋しいです。
     毎日勉強に追われながらも真実は何なのだろうかと、また正義は何なのだろうかと煩悶しています。創価学会をやめてただの日蓮正宗の信徒になろうかと考えたり、創価学会の改革派に付こうか、と考えたりして迷っています。
     僕もこの頃やっと愛子と会っていた頃の元気な僕に戻ってきました。2年ぐらいとても性格的にも暗くて自分のことしか考えきれない自分に陥っていました。今もまだ信仰に思い切れなくて毎晩お酒を飲んでるダメな僕ですけどでも確かに少しづつ自分が立ち直っていっているのを感じています。愛子と会ったりしていた頃の僕は信仰をやめていて落ち込んではいなかったけれど人間的に駄目な僕でした。
      すみません。もう眠くなってきたのでこのへんでやめます。
      お元気で。
                       長崎市界町9の2  ○○カメ太郎
    
    
    
    
           (7月6日)
     愛子はもう何年福岡に住んでいるのかなあと思います。もう5年も住んでるんじゃないのかなあ、と思って、僕がたった3ヶ月ぐらいしか住まなかった悲しい予備校時代の思い出の福岡の町を(自転車で駆け巡っていた福岡の町を)そしてその頃創価学会の信仰に燃えていて元気だった僕を、まだ若くて未来への希望に溢れていた僕を、人生の厳しさに(人生が自分の思うようにならないことをまだ知らなかったあの頃の僕の姿を)とても懐しく思い出しています。
     舞鶴公園のポプラの並木や
     もしも僕が卒業して九大に行ったなら、舞鶴公園の並木道は僕らの並木道になるだろう。僕らは肩を寄せ合ってその並木道を歩くだろう。お互い悲しい過去を背負ったまま、これからは幸せになろうと誓い合いながら、僕らはその並木道を歩くだろう。
    
    
    
    
    
           (7月7日)
     もしも僕が愛子と博多の町を歩いてみたら、いま手元にあって出そうか出すまいかとても迷っている手紙を出して、そうして夏休みになって、真夏の赤い太陽が照り始めるようになって、僕が孤独で愛子に会いたくてたまらなくなって、バイクに乗って、愛子に会いに行ったなら。
     よく考えてみると今日は七夕の日です。今日、仏間にインバーターのエアコンを入れました。工賃も含めて14万2千円かかりました。NECのエアコンで中味は全くサンヨーのと同んなじで、NECは今までエアコンを出したことがなかったのでダイエーでとても安く売っていました。
     もうすぐ夏休みですけど、僕はこの夏休みは仏間で勤行・唱題と勉強に明け暮れようと思っています。このままではきっと留年してしまうと思うけど、信仰を基本にして高校や浪人の頃のように病魔にも負けずにきっと卒業試験と医師国家試験に一発で合格してみせるつもりです。この頃、題目は3分ぐらいしかあげていませんが、勤行はするようになったのでとても元気になりました。本当にやっぱり創価学会というか日蓮正宗を広めるのが正義なんだなあ、と思っています。
     今も教授から怒られたりして辛い毎日ですけど、家に帰ってきて夜の勤行をして落ち込んでいる自分を直しています。辛い毎日ですけど、愛子と会っていたときのような挫折をあまり知らない元気だった僕とは今は本当に違っています。辛さについ負けそうになるけれど、そんなときは真夜中にでも仏壇の前に座って勤行したり題目をあげたりします。そうして僕は懸命にこらえているのだと思っています。毎日の辛さに。孤独と親への罪悪感に。
     
     
     愛子と、明るい愛子と、歩きたい。福岡の町を。どこか淋しい福岡の町を。愛子と肩を寄せ合って歩きたい。
    
    
     愛子の手紙を捨てたときの僕は、自分の過去を塗り変えようとしていた。学2のあの頃、留年する前のあの頃、一日3時間ぐらいしか眠れなかったあの頃、家にいろいろと悪い事が起こったり、僕はオカルトに凝ってたり、共産党の病院の奨学金を貰おうと共産党の病院へ行ってたり、僕はあの頃狂っていた。せっかくの僕の(そして愛子の)青春の形見を捨ててしまった。熊本の共産党の病院へ、自殺しようかどうしようか迷いながらクルマで旅立つとき、僕は愛子との手紙の入った袋を捨てた。
    
    
     愛子と福岡の町を歩くとき、僕にも青春が戻って来るだろう。元気だった22、3歳のあの頃の僕、きっと僕に青春が戻ってくるだろう。元気だったあの頃の自分が、まだ自信に溢れていたあの頃の自分が。
    
    
     愛子。僕らが手を繋いで歩くときは福岡の町はまっ暗でもう2時、3時くらいなのかなあ。僕らはきっと僕らのアパートに向かって歩いているのだと思う。もう2時、3時でほとんど人通りのない薬院や○○の通りを僕らは。
     まるでそこは5年前の護国神社の周りの道のようだね。あのときは12月でとても寒くて、そして夕方でほとんどまっ暗で。
     5年前と愛子はちっとも変わってないし(ちょっと大人になったなあ、という感じはあるけれど)僕は苦しくてとても淋しい3年近くの年月を経てきてそれにすっかり痩せてしまったけれどこの頃また創価学会の信仰を始めたから元気になりかけている。僕は元気になりかけたから久しぶりに愛子に手紙を出したのだし、電話でも明るく喋って、そうして今から福岡へ行くからね、とクルマに乗って夜の9時なのに家を飛び出したのだった。愛子に会いたくて、久しぶりに愛子に会いたくて。
     僕がクルマを置いてきた所から愛子のアパートまでちょっと歩かなければならなくって、今僕らはこうやって歩いているけれど(そうして愛子は5年前の護国神社の道のときのように言葉少なく俯いているけれど)僕も3時間半もクルマをまっ暗な中を運転してきて疲れているんだよ。でも愛子と出会えた嬉しさに今こうやってとめどもなく喋っているけれど。
     愛子。愛子が福岡に来たときも高校を卒業してすぐだったけど、僕も大学受験に失敗して高校を卒業してすぐ福岡に来たんだ。2ヶ月して僕は長崎に帰ってしまったけど福岡での2ヶ月は本当に楽しかった。苦しいことの方がずっとずっと多かったけど(だから福岡の予備校を2ヶ月でやめて、そしてまた夏休みの頃、一週間ぐらい福岡に戻ってきたりしていたんだけれど)あの頃は毎日三時間題目をあげていたから楽しかった。
    
    
    
    
                       (7月8日 夕方)
     赤坂の夜の道を愛子と歩くことを考えると、(あの少し緩やかな坂道を。大きな高級マンションが立ち並んでいるあの通りを。綺麗な舗装されたばかりのあの道を)休みの日、一日じゅう家に居て酒を飲んでいる僕に(なんだかこの頃お酒のためかとても吃りがひどくなってしまった僕だけど)本当に19の頃の僕に帰ったような(元気だった、未来への希望に溢れていた僕に)帰ったような気がします。
     あの頃、一生懸命だった僕。信仰と勉強とそして自転車競技に一生懸命だった僕。あの頃は永松と(永松は結局九大の物理学科に現役で入ったけれどもパチンコで100万円借金を作ったりして放校になったけれど。高校の頃はとても真面目だったけれど)夜のこの警固の道を2時3時ぐらいに歩いたのだった。あの頃僕は浪人していたけれど、来春は京医に入るのだと燃えていた。もうその頃発病していたのだけど自分では気付いていなかった。
     もうあれから9年が経つ。9年間、始めの頃僕は元気だった。でも留年を重ねるにつれて僕は“死”を願うようになっていった。何事にも楽しさや喜びを得られないようになっていた。
     苦しい後半の4年間だった。自殺の一歩手前で僕は4年間生きてきた。そしてこの頃再び創価学会の信仰に励み始めた。19や20の頃、そして中学・高校の頃の自分に舞い戻ったような気もしていて、毎日とても元気になって楽しくなっていて不思議な気がする。
     自分にはやっぱり日蓮正宗の信仰をするより他に生きてゆく道はないような気がする。こんな僕が生きてゆくためには。僕には創価学会の信仰をやっていかなければ駄目なような気がする。
    
    
    
    
                         (7月10日 夜  酒)
     愛子。僕は以前福岡の街の中を本当に自信に溢れて歩いていたことがあった。あれは僕が18の頃だった。春から夏へ変わろうとしているときだった。僕は元気だった。浪人していたけど、来年はもっといい大学に(京医か東大理三に入るんだ)と思っていた。
     あの頃の僕は自信でいっぱいで、それに決して不幸でも淋しくもなかった。友達や知り合いはたくさんいたし、僕は元気で、折伏をしようと福岡の友達の所を駆け回っていたぐらいだった。
     僕はその頃まだ自分の病気には気づいていなかった。教室でとても緊張してしまって頭がよく働かないのをあんまり気にしていなかった。成績がものすごく下がったのもあまり気にしていなかった。僕はひたすら題目を毎日3時間ぐらいあげていて、とても元気だった。
     あの福岡の町。綺麗に化粧した女の人たちがたくさん歩いている町。みんなみんないい洋服を着ていてみんなとても綺麗に化粧していた。
     僕の思い出の中の女の子よりももっと魅力的な女の子もたくさん福岡の町を歩いていた。みんなとても綺麗だった。綺麗な女の人ばかりが九州じゅうから博多の町に集まっているんだ、と僕はその頃思っていた。
     毎日、僕は天神に食料品などを買い込みに行ってたし(その頃僕は自転車競技でオリンピックに出て金メダルを取るんだと、悲しい辛い中学・高校時代の埋め合わせのためにそうするんだと本気で思っていたから)ときどき見る寮の近くの女の子はみんな綺麗だった。
    
    
    
    
                             (6月30日)
     僕の悲しい癖は、君を傷つけ、君を悲しませ、そして君を遠く福岡へとやってしまった。
     僕のこの悲しい癖は、高三の終わり頃、一生懸命受験勉強していた頃に付いてしまった。
     君を悲しませ、君に次の日の期末テストの勉強をできなくさせ、一番就職に大事なテストだったのに、歴史で赤点を取らせて、僕が君が一番に志望していた就職先をダメにしてしまった。この僕が。こんな僕が。
    
     君も悲しんだし僕も悲しんだ。僕は一人きりの淋しい年月をそれから何年も過ごしたし、僕はそれに2年ぐらい前から何度も自殺を決意したぐらいだった。三度も留年したし、それにまた留年するかもしれないし。
    
    
    
    
                           (H1,7,12)
     愛子
     もしも僕が創価学会をずっとずっと続けていたならば、僕の人生は、そして愛子の人生はとても違ったものになっていたと思う。もし僕が愛子と知り合ったときまだ信仰を続けていたら僕は一年近くの空白もなくて、そのまま僕が20歳半の頃からずっとつき合っていたと思う。それに愛子に辛い思いをさせたりなんてしなかったと思う。
     そして僕はもうとっくに結婚していて(愛子でなくっても誰か女の人と結婚していて)毎日仕事と信仰に追われていたと思う。きっと今の現在の僕とずっとずっと違った、そしてずっとずっと幸せで恵まれた状況にあったと思う。でも現在の僕は苦しくって、とってもとっても苦しくって、宗教に身を捧げるようにしていてやっと生き延びているような僕です。
     大学一年の十一月、僕はクラブや勉強や文学、それに信仰とあまりにも荷が重すぎて行き詰まり果てて、そうして信仰を捨ててしまった。信仰を捨てて本当に肩の荷が降りたような気がした。それまでは信仰のために一日少なくとも3時間は取られていたから。
     でも僕は信仰をやめて、人間的に堕落し始めていた。自分のことしか考えきれない自分になっていっていた。そして愛子と出会う4ヶ月前の合コンで僕が中学三年の頃からずっと片思いをし続けてきた女のコと偶然一緒になってそして冷たくふられてそのコは僕のクラブの親友になびいていった。
     僕はだからあの頃はとても苦しかった。愛子と出会わなかったら僕はもう寂しさに耐えかねて(それに人間不信にもなって)発狂していたかもしれない。
     僕があの頃発狂しなかったのは愛子たちの明るさや元気さに触れて人間不信になりかけていた僕の心に灯を灯してくれたからだと思う。僕は親友に裏切られ、クラブのみんなから蔑まされていた。
     素直に信心していたら良かった。素直に信心してたらもうとっくに卒業していただろう。高三の2月13日、東小島の霊能力者のところにノドの病気を治して貰いに行かなかったら、僕はこんなたいへんな病気に懸かってなくて、現役で九大医学部に入ってて、そうしてもうとっくに医者になっていただろう。もしもあのときあんなところに行かなかったら、たとえ行っても心霊治療を受けずに断って帰ってきてたら、そうしたら今ごろ僕は。
    
    
    
     カワサキのFTに僕はその頃乗っていた。愛子と始めて待ち合わせをしたとき(デートをしたとき)、僕はあの護国神社に僕が自分で塗った黒塗りのカワサキのFTで行った。思い出のあのFTもでも今はなくて、もう何処かのクズ鉄になってしまって、まるで僕らの恋のように、まるで僕らの青春のように。 
                           (H1,8,27)
    
    
    
    
    
    
                     (東支那海を望む丘の上にて)
     愛子へ
     ずっとずっと昔にあの大きな海の向こうに大きな大陸があってムー大陸と呼んでいた。今僕らが見ているのは五島列島か中国大陸だけれど、太平洋の方に行くとずっとずっと昔、大きな大きな島がハワイ諸島のところにあってとても栄えていたのだって。そして僕らは前世、そこでも恋人どうしだったのかもしれない。
     冷たくなった秋の風が僕の体を打ってるけど、僕は死ねない。僕が死ぬときは、もう海の向こうの中国大陸が見えなくなったときだろう。
     でもそのとき僕はきっと死んでいると思う。目が見えなくなって、僕がベットの上で、苦しんでいるときだと思う。
    
    
    
    
     夜11時半ごろ電話が鳴った。でもそれは一回で切れた。僕はいろいろと考えた。もしかしたら君なのかって。福岡の君からかって。一人でアパート住まいしている君からかって
    
    
    
    
     僕は立っていた。12月のあの雪の降る寒い夕方、君を待って本屋の前で、250ccのバイクの横で待っていた。6時頃、君が来ると思って待っていた。
    
    
    
    
                        (H1,11,16)
     君は僕のために希望していた博多の会社に入れずにベスト電器の店員となった。君への罪悪感と、そして今君は何しているのだろう、何処に(たぶんまだ博多に住んでいると思うけど)引っ越していって、そうして今どうしているのだろう。僕の手紙が宛先人不明のまま戻ってきたから君はもうベスト電器をやめたのだと思う。そしてもしかしたらもう結婚して(誰かと一緒に住んで)いるのかもしれない。
     僕は君をとても傷つけた。高校三年生の大事なときに君をものすごく傷つけ、期末テストでものすごく悪い点数を取らせて、希望していた会社に入らなくさせた。僕は君の一生をめちゃくちゃにしたのかもしれない。そして君は今、(僕より5つ年下で早生まれだから23歳になっている君は博多の何処かで誰かの男と一緒に暮らしているのかもしれない。
    
    
    
    
    
                         (1989、11、17)
     君は福岡のアパートで、23歳の青春を、もしかしたら誰か男のひとと一緒に送っているのかもしれない。長崎には僕や(君を苦しませた…本当は本当は愛していたんだけど、君は福岡の博多の僕が浪人の頃自転車でよく通っていた道のどこかのアパートに君は住んでいて、一人か二人か解らないけど…幸せな人生をこれから歩んでくれることを思っている。そう思って愛子のことを悲しく思い出している。
     君が今から幸せな人生を歩んでくれることを、無責任な僕だけど、君を苦しませた僕だけど、僕は君が病気にも何にも犯されずに幸せに過ごしてくれることを、そうして僕らが老人になって久しぶりに会って、僕たちの人生が幸せだったことを確かめあいたい。
    
    
    
    
     君は福岡のアパートから僕にときどき電話をくれてるようにも思う。でもいつも二回(三回鳴ると録音されるから)で切れているように思う。君は僕を思い出して懐かしがって僕にときどき日曜日に(それも午前中に)電話をくれているのだと思うのだけれど。
     もしも僕が死ぬことができたなら、眠るように、そして母や父にも迷惑をかけないで、一人ぼっちで、死ぬことができたなら。
     君は福岡で楽しい日々を、もしかしたら寂しい日々を送っているのかもしれない。僕もこの前、10月だったと思うけど、福岡まで創価学会の会合で行ったんだ。君のすぐ傍に僕は行ったんだ。でも会えなかったけれど。日曜日でポカポカと暖かい日だったけれど。
     僕は会合が終わってからバスを待つまでの間、近くの公園のベンチの上で寝ころんで一時間近く眠った。夢を見た。君の夢だったかどうかあんまり自信がないけれど、昼ご飯を食べたあと、僕は陽の光に照らされながら博多の南区の公園のベンチで一時間くらい眠ったðB
    
    
    
    
     君は寂しさを残して去っていって、僕は一年後、あんまり寂しくなって精神科の門をくぐった。君は
    
    
    
    
     愛子
     君は結婚して、もう遠い遠い福岡でなくてもっと遠い岡山か大阪あたりに行っているような気がする。君がベスト電器の寮から出てアパートかそれとも間借りかに(たしかアパートだったと思うけど)住むようになって僕が出した手紙が宛先不明のまま寂しく戻ってきたとき、あれは夏のことだったと思う。僕が比較的元気だった創価学会をしていた頃の夏休みの頃のことだったと思う。
     君は六年ぐらい前、白い鳩になって長崎駅を飛び立って福岡へ行き、そしてそれから2年ぐらい君からときどき手紙が来たりしていたけど僕は返事を出さなかった。僕は金持ちのお嬢さんと結婚するんだ、とても家柄のいい女の人と結婚するんだ、と思っていた贅沢な僕だった。
     愛子が居た頃は元気だった僕は、愛子が福岡へ行ってからちょうど一年ぐらい経ってから欝病みたいになって今年の春頃まで苦しんできた。今も卒業試験があっていてそして落ちそうでとても苦しんでいるけど
    
    
    
    
     君が僕にくれた文庫本を僕は何処へやってしまった。君を忘れていたあるときに。誰かほかの女の子と結婚するんだと思っていたあるときに。
     12月の、寒い、夕暮れ時に、君がバスへ駆け始めながら僕に渡したその文庫本の題名は何だったか僕は思い出せない。もう四年も五年も前のことだから。寒い夕暮れ時の、雪の降りそうな日のことだったから。
     君はその文庫本を僕に手渡して今にも発車しようとしているバスまで走っていった。12月の、ちょうど今頃だったと思う。雪が桜の花のように散っていて、とても寒かった日のことだったと思う。
     君は雪のなかへと走っていっていた。君の背中は雪で白く覆われ始めていた。君は僕のもとからバスへと元気いっぱい走って行っていた。あの6年前の雪の日に。
     白い雪のなかに消えてゆく君を、僕から遠ざかって走ってゆく君を、僕はバス停まで見送っていた。雪のなかに吸い込まれていくように消えてゆく君の駆けてゆく姿は悲しげで、僕は愛子のためなら何でもしよう、と思った。でもそれが最後の出会いになるなんて。12月の寒い日のその日の出会いが僕らの最後の出会いになるなんて。
     雪のなかに消えていった君と、僕はもう6年間も会っていないのだろう。君には充実した6年間だったかもしれない。でも僕は一人ぼっちのずっと一人ぼっちの6年間だった。
     あの日、僕はハム無線の本を読んで君を待っていたっけ。その日は君と最後に会った日よりもずっと寒い日だった。雪がどんどん降っていたけど、僕はバイクのカワサキFT250に乗ってそこまで来た。雪がどんどんと激しく降ってきていた。もう目の前も見えないくらい激しく降ってきていた。
    
    
    
    
     君は福岡でどんなクリスマスイブを送っているのだろう。僕は長崎で、いつものように一人ぼっちのクリスマスイブを送っている。一人でお酒を飲みながら。テレビを見て泣きながら。
     君と一緒に歩いたあの道は、いつも5時か6時頃で薄暗くて、そしてとても寒くて、雪が降っていた。白い白い雪が、僕らの肩に降り注いできていた。
     君を捜して、僕一人で、あの道を駆けて歩いたことがあった。あの日はとても寒い日で、とても寒がりやの君には、いつもの本屋さんまで行くのがとても辛かったと僕は思うけど。でも僕は一人で雪の降る暗い道のなかを君を捜して走った。
    
    
    
    
     君はもう23歳になって、今度の暮れに長崎に帰ってくると思うけど、僕に電話してくれるだろうか。卒業試験に追われて、孤独で、孤独でたまらない僕に。
     君から電話がかかってきたら僕はどんなに喜ぶだろう。僕は結婚の申し込みをするかもしれない。毎日毎日が自殺直前の苦しい日々だから、それに親のためにも、僕は君に結婚の申し込みをするかもしれない。
     五年ぶりに見る君の姿は変わっているだろう。僕はやつれ果てて、頬骨が出てて、顔色がまっ白になっていて、かつての元気だった僕とはすっかり変わっているのを見て君は驚くだろう。
     もしも君と会うとしたら、あの雪の降っていたとても寒い夕方から、5年ぶりのことになるのだけど。本当に5年ぶりのことになるのだけど。
     あの頃の純粋だった君。元気だった僕。僕らが5年ぶりに出会って。
     もうあの日から千五百日余りも経ってしまった。僕が変わったように、君もとても変わったと思う。でも僕らの心は五年前のあの雪の日のままで、僕らはきっと
    
    
    
    
    
                          (12月28日)
     幸せな君は、もう僕なんて目のなかにないのだろう。でも僕はアフリカや南アジアなんかで苦しんでいる人たちのために命を捧げる決意がある。もう君なんて僕の目のなかにはないような気もする。
     もう正月が近づいてきて君も実家に帰り始めてると思う。でも僕の胸にはもう君はいない。僕は一人で
    
    
    
     君とあの燈台の下で誓えば良かった。でも僕らはずっと無言だった。僕らは俯いていて、雪が降っていたっけ。
    
    
    
    
     君はそんなに雪の降るあの日、凍えるような夕方、僕を待つのを嫌がったのだろうか。いや、君の友だちだと思う君から送って貰った写真に載っていた可愛い2人の女の子が愛子の代わりかもしれないけれど、愛子が今日来れないことを知らせにか本屋に来ていたけれど。
     でも僕はその本屋の前を愛子がいないかな、と思いながらバイクでゆっくりと行ったり来たりした。雪が降っていて僕はマフラーをしていてその2人の女の子も寒そうだった。
     とても寒がりやの愛子、ごめんね。あんな日に呼び出してごめんね。それにもっと学校から近い所で待ち合わせをしていたら良かったのにと僕はとても反省している。
     雪がこんこんと降っていて、僕はバイクの上で君を捜していた。雪がこんこんと降っていて、君が来なくて僕は悲しかった。
    
    
    
    
                            (1月12日)
     君はバイクに乗って海へ行きたいと言っていた。でもあの頃のバイクはもう無くて(もう5年も6年も前のことになるから。3年ぐらい前、僕のそのバイクが公園の隅に捨てられていたと後輩が言っていたけれど)そして正月ももう過ぎて君はもう福岡へ帰っていったと思う。僕のことなど全く考えてなくて。
    
     
    
    
     愛子。僕たちは二人だけで幸せになるんだと、手紙に書いてきたと思うけど、誰からも見捨てられても、ただ友達からだけで祝福されると思うけど、親から見捨てられても、一人だけで幸せになるんだと。
    
    
    
    
     君とあの燈台までの道を歩いたことがあっただろ。君がまだ高校三年生の頃、君はセーラー服を着ていた。秋でもう冷たい風が吹いていて僕はバイクに乗るときの防風ジャンバーを着ていて、でもそれでも寒かったことを(寒がりやの君は僕よりもっと寒かったようなのを)僕は今でもときどき思い出してしまう。辛くなったとき、夜遅く茶碗を洗っている昼間の仕事で疲れている母の体のことを思いながら。
     君はあのとき言ったと思う。
    『私、県外就職に決めました』
     そう言ってるとき僕を見つめる君の目はとても哀しげだった。燈台の下でだったと思う。
     もう一番星が出ていたと思う。長い気まずい沈黙のあと僕は言ったと思う。
    『ほら、あの星も長崎に居てもまったく同じに見えるんだ。まったく同じ方向に見えるんだ』と。
     帰り際、鈴虫の声が聞こえていた。僕らは無言で歩いていた。俯く君を……県外就職にしたと言った君を慰めるために僕は何か言わなければならなかったのだけど僕は吃って喋れなかった。
     ……鈴虫が鳴いていた。たしかに鈴虫が鳴いていた。僕らを慰めるように鈴虫が鳴いていた。
     僕たちは鈴虫の鳴いているその小道を急いで戻っていった。すぐ近くに愛子の住んでるアパートが見えていたし、海岸への入り口に置いてきた僕のカワサキのFTも見えていた。愛子は『カメ太郎さん。帰り際、寒いでしょ』と言った。僕は『いや、僕は暑がりやだから。とっても暑がりやだから寒くないよ』と言った。
     でもとても冷たい風がそのとき僕の顔を打っていた。
    
    
     僕は君との恋以来、恋みたいなものをしていない。君とは結局手も繋がなかった。でもたくさん手紙のやり取りをしたし、電話もしたし、何回かデートもしたし、あれはたしかに恋だったと思う。僕が今まで始めて恋をしたというか、女の子とつき合った経験だった。
     君は遠く福岡へ旅立ってしまい、やがて音信不通となってしまった。君は寮を出てアパート暮らしを始めたようだけど、君はもう(手紙に精神病院のことを書いたことが一番いけなかったのだと思うけど)僕のことを避けるようになってしまったようだ。
    
    
    
    
                          90・2・14
     愛子
     もう僕らの青春は戻って来ない。僕らは幸せを目指して、毎日毎日醜い日々を送らなければいけないと思う。辛いけど、本当に辛いけど……
    
    
    
    
     愛子へ
    『僕は何をしてたんだ。今まで何をしてたんだ』という思いで、台所で働く母の後ろ姿を見ながら
    
    
    
    
     灯台の向こうに僕らの楽園があって、魚が戯れていて、海藻が生い茂っていて、みんな幸せで、僕も幸せな世界がきっとあると、僕は確信している。
     君は高校三年生なのに強かった。僕は君より5つ年上なのに弱かった。僕らは冷たい北風の吹きすさぶ灯台の下で語り合った。本当に君は元気で、僕のために志望していた会社に行けなくなったことを少しも顔に出さなかった。本当に君は元気で、北風のように寂しい僕の心を慰めてくれていた。
     灯台の向こうに、僕らの幸せな世界があることを、君も、僕も知っている。とても幸せな世界があることを。
    
    
    『もう灯台にも灯りがついたね』
    『ええ、もう灯台にも灯りがついたわ』
    『もう薄暗くなってきたね』
    『ええ、もう薄暗くなってきたわ』
    ……僕と愛子はとりとめもない話をしていた。
    『もう暗くなってきたね』
    『ええ、何処が足元か解らないくらい』
    ……僕はそれでもピョンッ、ピョンッと飛び跳ねるように歩いていたが愛子は僕よりずっと遅れてゆっくりと岩場を歩いてきていた。もう夕陽は海の向こうに沈みかけようとしていた。
    
    
    
    
     僕も、君も、幸せを追い求めてきたけれども、幸せは何処にもないね。もう東長崎のゴミ焼場に、僕らの手紙のように捨てられ焼かれていったのかもしれない。僕は何ヵ月ぶりぐらいにお酒を(おとそを)飲んでいるけれど(…何杯も…何杯も…)“幸せ”って何処にも見当たらないことを(たぶん、今、帰省している愛子のことを考えながら、そうして精神病院の一室から出した手紙をとても後悔しながら、精神病院って世間の目はとても厳しく、愛子は僕が狂って精神病院の一室から手紙を書いているのだと誤解したようだけれども)辛い毎日の羅列に終止符を打ちたい、と僕は3年ぐらい前から望んでいたけれども、幸せは遠くて、僕は苦しんで、とても苦しんで、そして右往左往して、僕はノイローゼになりかけている。今にも僕の頭はパンクしてしまいそうになっている。
     幸せは何処にあるんだと、僕は昨日も昨夜も暗闇のなかを探索し続けた。僕には“幸せは何処に在るのか”解らなかった。冷たい世間の目と、厳しすぎる現実の目が、僕を覆って暗くしていた。
                      1991・1・1  AM 6:00
    
    
    
    
                               完
    
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