信仰
三船カメ太郎
その頃、僕はもう創価学会の信仰をも喪いつつあった。僕はクリスチャンになろうかとしていた。また少なくとも僕にはどうしてでもこの信心が、とてもとても素晴らしい最高の信心だと自分では解っていても、この信心をすると自分の病気は却って酷くなり(僕のは対人緊張という病気なのだけれど)どうしても図書館なんかで勉強していたりして賛美歌を心のなかで歌って心をくつろがせるということの繰り返しだった。朝は、この信心の素晴らしさをよく知っている僕であったから勤行はせずとも題目を何分か挙げてから家を出るのに、それなのに図書館に来てリラックスするために『やっぱり辞めよう。この信心は僕には向いてないんだ』と思い退転を繰り返していた。
その間、僕は二度留年した。もう29になった。苦しく寂しい2年間だった。いや、その前の7年ほどの毎日も寂しく苦しい日々であった。
薄幸な僕を元気づけ、励ましてくれたのは創価学会の信仰だった。僕は20歳まで、この信仰と一緒に生きてきた。周囲が僕をあまりにも熱心すぎるとまで思っていた。またあまりにも題目を挙げ過ぎたためこの大きな声が出ないという病気に罹ったのかもしれない。でもそれでも僕は熱心にこの信仰を続けてきた。20の誕生日をあと1週間と控えた11月の20日頃まで——。
7年間退転していたとき、7年目の終わり頃、僕はもうどうしようもないほど落ち込み果てていた。自殺の一歩手前だった。でもそのとき(僕が外来実習に入った頃——3月のときだった。僕は創価学会の拠点に電話した。「もう一度、戻らせてくれ」と。そしてその日、僕は家の近くの学生部の部長とクルマで30分ぐらいかかる一部の拠点まで行った。そして久しぶりに友情というようなものを僕は味わった。命賭けで戦っている同志たち、——以前は僕もそうだった。僕も創価学会に生活のほとんどすべてを賭けてきた。——たしかにそう言えるほど僕は熱心に信仰してきた。
それなのに僕は退転して寂しい一人だけの年月をそれから送った。地獄であることに気づくのに5年半くらい掛かった。辞めなければ良かった。盲目的にひたすらに信仰していっていたら僕は幸せだったのかもしれない。
心のなかを吹く寂しい風。僕はそれをキリスト教で厭というほど味わった。でも心が落ち着けて勉強しやすいという誘惑に負け、僕は洗礼を受ける一歩手前までいった。もし、その年、卒業試験に合格して卒業できていたら、僕はそのまま洗礼を受けキリスト教に入っていたと思う。でも卒業試験に落ち、僕は落ち込み果て、そうして朝、起き上がれないほどの自分に気づいた。そして僕は再び創価学会に戻った。3月に7年ぶりに創価学会の拠点へ行ってから半年ぐらい創価学会に戻っていたのに、10月の終わり頃、僕はまた創価学会を止め、キリスト教の教会へと週二回通うようになっていた。
でも夏——創価学会に戻っていた夏の頃、本当に楽しかった。最後の青春だ、最後の大学生活での青春だ、と思っていた。選挙でみんな必死で(僕は選挙は友だちも少なく消極的だったけど、しかし僕も僕なりに少しは行動して)本当に楽しかった。なぜか不思議と楽しかった。
仏法対話も久しぶりにしたし、何よりも生きることへの充実感があった。生きることがこんなに楽しいのか、ととても不思議だった。その頃は本当はとても苦しいはずだったのに、とても楽しかった。悔しいことや苦しいことも楽しくてならなかった。
バイクの上で楽しくて飛び跳ねていたこともあった。台風で僕の部屋の上の屋根だけが飛び、僕の部屋は水浸しとなり、10何個も瓶を漏れて来る水を受け止めるために置いたりした。辛いはずだったのに、何故か心のなかで題目を唱えると楽しくて楽しくてならなかった。
僕には再生の道が一つ残されている。それは創価学会に戻ることだ。でも僕にはどうしてでも創価学会の信仰が自分には向かないような気がする。
20人に一人ぐらい、この信仰に向かない人間がいるのではないのかと自分勝手に考えている。
僕は吃り吃り電話をした。○○病院から出た所にある電話ボックスからだった。
『○○さん。カメ太郎と申します』
坂を下りながら僕の心は3年前になるのだろう、この○○病院で1年間アルバイトしたことを思い出していた。『本当にもう何年になるのだろう。それなのに僕はまだ卒業していない。本当にもう何年になるのだろう。それなのに僕はまだほんの少ししか進級していない。もう何年にもなるのにほとんど進級していない』と思っていた。
『僕は○○さんの娘さんと——ああ、知恵のことか——(と○○さんが言った)中等部のとき市の大会で司会をしました。そのとき僕は大会目指して一生懸命題目をあげました。そしてそのとき喉を悪くしました。——喉が悪くなるまで題目をあげたのか。——(と○○さんは驚いたように言った)高校3年のとき、大学入試直前に対人恐怖症になりました。それから勉強ができなくなり苦しみました。今は吃りよりも、喉の病気よりも、この対人恐怖症で苦しんでいます。大学入試直前のころ、僕は毎日2時間から3時間、題目を挙げていました。でもそのとき謗法もしましたけど』
僕はその謗法がどんなことか言わなかった。言わないうちに○○さんが言った。
『もし創価学会が正しければそんな病気にならないだろ。創価学会が間違っているからだ』
『僕も——自分もそう思います。でも、またそうでもないようにも思います。僕にはわかりません』
『でも、あの頃は楽しかったです。苦しかったけど楽しかった。法悦がありました。毎日毎日、夜遅くまで題目を挙げて、ほとんど遊ぶ時間もありませんでしたけど法悦がありました。夜十二時頃、僕はいつも法悦に包まれていました』
『去年、いろんな本や雑誌を読みながら僕の心のなかは動揺していました。——僕の中学や高校の頃の——そして浪人、大学一年の頃のあの頃の日々を思い返しながら僕は激しく激しく悩みました。こんなはずじゃない。創価学会はこんなはずじゃない。——僕は激しく自分に言い聞かせていました。でも書いてあることはとても否定的なものでした』
『でも僕の人生はどうなってしまうのかと——ノドの病気のために青春を——幸福を——犠牲にした僕はどうなってしまうのかと——』
「力いっぱい唱えなければいけない、弱々しい題目ではいけない」と中等部の担当の人から言われ、僕はそのとおりにしました。中学生の自分の心は純粋でした。幹部の人の言われるままに力を込めて大きな声で題目を唱え続けました。毎日夜の11時半まで行っていました。家の人が近所に恥ずかしいから声を小さくするように僕によく言っていました。そのため余計に力を込めて大きな声を惜し殺して題目を唱え続けました。
そして気が付いたら僕の声は小さな掠れた声しか出ないようになっていました。
休み時間、友だちと騒げないようになってしまいました。放課後の前の反省会で大きな声の出ない僕は自分の順番が回ってくるのが辛かった。そしてその反省会で僕の声がみんなに聞こえない惨めさ、辛さを僕はでも必死で耐えていました。
家に帰り御本尊様の前に座り惨めさ、辛さを必死に祈り続けました。でも僕は決して御本尊様を疑いませんでした。僕のノドの病気は信心したためではないと思い続けていました。高二の時、初めて僕のノドの病気は信心したためではないのだろうかと思い、(そのときは社会の世界史の試験中でした)悩みました。そしてそのとき世界史は僕が一番得意な課目で、どんなにみんなができなくてもいつも90点以上の点数をとっていていつも学年で一番でしたが、そのときはそのことで悩んで70点余りしかとれなかったことを覚えています)————そのことは本当に小さな小さなことですけれど。僕の長い大切な青春時代のことを思ったなら——。
でもその世界史の試験の時に湧いてきた考えも僕は打ち消してひたすら御本尊様を信じぬきました。御本尊様を疑ったのではありませんでした。ただ、自分がどうしてこんな病気になったのかと悩み考えていただけでした。
そして2度目に僕が自分のノドの病気が題目を挙げ過ぎたためにこうなったのだと思い始めたのが、僕が退転した大学1年の9月ぐらいのことだったと思います。
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いつも寂しさに耐えかねて図書館まで勉強をしに行くと、緊張してしまって、緊張を解こうと賛美歌を心の中で歌う。すると緊張は解ける。でも元気を喪い、目の輝きも喪ってしまう。
寂しいから、寂しいから僕は高校生たちの中に混じって県立図書館や市民会館で勉強をするけれど、僕は緊張するから、みんなからおかしいと思われ、孤独で辛い。
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いま僕はキリスト教をしたりしている。僕は20人のうちの1人のこの信心が向かない人間なんだと自分で思おうとしている。罰への恐怖、良心の呵責(楽な思いをしようという卑怯な思いに対して)と戦いながら——。この2年程、ずっとこの繰り返しだったのに——。そして、もう、こういう繰り返しはするまいと心に決めかけていたのに。
今日も朝から図書館で勉強をするまでだった。図書館で勉強しているとき、緊張して苦しくて、いつものように賛美歌を心のなかで唱えたり、キリスト教のお祈りをしたりした。そうしないことには苦しくてたまらなかったから。
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12月28日の夜のことだった。たしか9時過ぎごろだったと思う。その日、脳神経外科の本試があった。でも僕はテストが終わったあとも国試浪人の人などが使う部屋で一人で勉強していた。
その日は特別寒い日だった。そして2年前のこの頃のことを思い出していた。あの日は12月25日で、何故か、とても暑い日だった。その日、僕の3度目の留年が発表された。僕は上がっているんじゃないか、と思っていたのでとてもショックだった。また今度落ちたら死のうと思って勉強していたし、またこの日の発表で落ちてたら本当に死ぬ覚悟をしていた。でも僕は本当に落ちていた。僕はそしてその日、柔道の帯を持って生協の裏の(柔道場の裏の)森のなかへと入って行った。首を括って死ぬつもりだった。
でも僕は死ななかった。いつもいつも僕はぎりぎりのところで死なないできた。
外はとても寒いようだった。ストーブを全開にして締め切ってやっと部屋は暖まっているくらい今夜はとても寒いようだった。
寒さに震えていた小学校低学年の頃のことを思い出したりしていた。そして窓の外を見てはとても感傷的になっていた。勉強しながら僕はそんなことを思ってとても感傷的になっていた。
僕は岸川先生に会ってみようと思った。外はとても冷たく、年末なのに今も寒さに震えている人たちが長崎じゅうにもたくさんいることを思うといたたまれなくなっていた。寂しく一人で勉強している自分と年末に寒さに震えているかもしれない人たちのことを思って僕はとても感傷的になっていた。
岸川先生はいつも夜遅くまで研究室にいるから今も一人で研究に没頭しているだろうと思った。ちょうど今ごろ学会活動から帰ってきて夜遅くまで研究室にいるのだろうと思った。そしてやっぱり岸川先生は夜9時過ぎの研究室で一人でコンピューターに向かっていた。
『人を救えるのは——人を救えるのは何なのだろうかと思います。創価学会の信仰をもう一度やってみようか、とも思います。でも僕には向いていないような気がします』
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※(これは3月の中旬、オートバイ宅配を始めたばかりの日の出来事だった)
僕は題目を唱えていた。この寒さに耐えるには題目を必死になって唱えるしかなかった。以前、シベリア抑留の日本人捕虜が作業のノルマを果たせなかったりしたとき、一晩中まっ裸で氷点下40℃ぐらいにもなる戸外に鎖につながれて置かれるという刑を受けて、半分近くの人は翌朝には凍死していて、生き残った人もペニスなどがひどい凍傷を起こして腐れていたりしたそうだ。彼らは寒さに耐えるため、夜、戸外に放り出されたときから大声で歌を歌ったそうだ。でも明け方近くになるともう歌を歌う気力も喪い、母国(日本)の方を向いて『お母さん』とか祈るように呟くだけだったそうだ。それが『暁に祈る』という僕が戦慄を憶えた小説だった。僕はそれまでもまたそれからもそれ以上の戦慄を覚えるような小説を読んだことがない。
----僕もなんだかそのようだな、と思っていた。でも僕は歌を歌うのではなくて南無妙法蓮華経と題目を唱えていた。シベリア抑留中の日本人捕虜も題目を唱えたら寒さに負けなかったのだろうに、と思っていた。日連大聖人様も日興上人様も佐渡流罪のときほとんど壊れかけた小屋で冬を過ごされた。日連大聖人様も日興上人様も題目を唱えて題目を暖炉代わりに寒さに耐えられたのだと思う。今、もう暗くなった高速道路をバイクで走る僕もそのようだな、と思った。今の僕には、100kmの速さで走る寒さとそしてその恐怖があった。人吉を発つとき、僕は寒さに泣きそうだった。でも途中から題目を唱え始めると、体中に力が漲ってきたし、慣れない高速道路を走るのもあまり怖くなくなった。題目を一生懸命唱えると自分の躰が火の玉になったように感じられる。それに何も怖くなくなってしまう。
----僕はこのとき創価学会に戻ることを決めたのだった。このとき僕は学会の木村君などのことを思い出していた。寒さと怖さに必死に耐えながら僕はずっと題目を唱えつづけた。途中でガソリンの補給にガソリンスタンドに立ち寄ったとき、ガソリンスタンドのなかに聖教新聞があった。ああ、ここにも学会員がいるのだなあ、ととても懐かしく思った。
凍えた躰を温めるためそのガソリンスタンドにできるだけ長く留まり続けようと思った。でもあまり長くなかに入っていてはいけないと思い僕は再びバイクに跨った。もう長崎まで80kmぐらいしかなかった。ガソリンは意外に6リットル余りしか入れないで済んだ。でも長崎までガソリンを無給油で走り続けることは難しかったと思う。
時刻は10時過ぎだったと思う。金立サービスステーションだった。ガソリンスタンドで過ごした時間は5分間ぐらいだったと思う。少し躰が暖まった。僕は再び夜の真っ暗闇の高速道路にバイクで出ていった。
再び題目を唱え始めた。もうすぐだ、もうすぐだ、と自分に言い聞かせていた。このまま順調に行けばあと一時間あまりで長崎の事務所に帰れた。僕はこのまま順調に長崎に帰れると信じていた。まさかこのあとエンジンがオーバーヒートして止まってしまうなんて考えなかった。もうすでにオーバーヒートしかけていたが走れなくなるようになるとは思ってなかった。
今夜は学生部の拠点に泊まろうかな、と思っていた。まず風呂に入って凍えた躰を温めたり汚れを落としたかった。事務所から家に帰るのに30分掛かるし、こんなに遅く帰ったら家の人が心配すると思ってもいたから。
木村君たちに今夜のことを話すのは楽しいなあ、と思っていた。もう今日はバイクで走りながら7時間ぐらい題目を唱えているなあ、と思っていた。こんなに題目を唱えるのは始めてじゃないかなあ、と思っていた。
首の根っこのところがとても痛かった。ずっと躰に力を入れて寒さに耐え続けてきたから。
嬉野の坂を登っているときエンジンが止まった。道が登り坂になったすぐのときだった。オーバーヒートらしかった。調子に乗って80kmぐらいに抑えていたスピードを100kmぐらいに上げて走っていたためだろうと思った。周りはまっ暗だった。バイクから降りて題目を唱えながら道端のガードレールを越えて土手でエンジンが冷えるまで待つしかないなあ、と思った。5分くらいガードレールを跨いで土手で座ってそうしていた。題目を唱えていたけどもし題目がなければ僕は今日、今、もの凄く苦しんで泣いたりしていただろうと思っていた。
5分ほどして荷台のなかに小さな500ccぐらいしか入らない焼酎のビンのなかに水を入れていたけど、それをエンジンにかけてみようと思った。僕はふたたびガードレールを跨いで道路に出た。猛スピードで傍を通り過ぎるクルマが怖かった。そして荷台のなかから水の入った小さな焼酎のビンを取り出してキャブレターやエンジンにかけた。ジュツ、という音と水蒸気の白煙が激しく上がった。エンジンだけでなくてキャブレターにも試しに少しかけてみたらキャブレターからもものすごく白煙が上がったのでキャブレターにもたくさんかけた。そしてビンの中の水を全部かけ終わるとふたたびガードレールを跨いで土手に座った。そしてまた10分ぐらい待った。
10分くらい待ってもう待ちきれなくなってふたたびバイクに戻ってそうしてエンジンをかけてみた。するとちゃんとかかった。僕はほっとしてふたたび走り始めた。今度はスピードを抑えて走った。
嬉野の上り坂を登り切り大村へと行くなだらかな下り坂に掛かった。もうすぐだと思った。
次のインターチェンジでエンジンを冷やすためにエンジンにさっきのように水をかけて冷やそうか、とも思った。また少なくともビンに水を補給しなければまたオーバーヒートしたときにとても困るようになるなあと思った。でも一度止まってしまえばもうエンジンは掛からないようだったし、また、もうオーバーヒートはしないだろうと思ってもいた。
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『でも、悲しみのなかでも、この信心していたら心のなかは喜びで満ち溢れている。僕は七年掛かりました。そのことに気付くのに。やめてはいけません。僕の場合7年経って『ああ、創価学会でも良かった。この信仰----創価学会を辞めなければ良かった』と気付きました。僕は七年掛かりました。
正直言って今もときどき思います。この信仰をやめれば僕の病気は軽くなる、もしかしたら完全に治るかもしれない、と。毎日毎日、図書館で勉強していて緊張しているとき、リラックスするために、『もうこの信仰やめよう』と思います。すると不思議に全身の力が抜けリラックスできます。でも家に帰って寝て朝、布団のなかで悶々としているとき思います。『不幸な人たち、可哀相な人たち、その人たちを救うにはやっぱりこの信仰を広めていくしかないんだ』と。『自分は楽かもしれない。でも不幸せな人たちを救うために僕はやっぱりこの信仰をしなければいけないのだ』と。そうして僕は布団のなかで題目を唱え始めます。でも図書館で勉強していて毎日退転してしまうということを繰り返していますけど。こんな罰当たりな馬鹿な僕です。本当に僕は罰当たりです。本当にいっそのこと完全に退転してしまえばいいのかもしれません。
創価学会を貫くことは僕にとって本当に厳しいです。県立図書館で勉強したい。そこで勉強すると淋しさなんて綺麗に消えてゆきます。でも緊張してしまう。緊張するから薬を使う。でも薬を飲んでもまだ緊張している。もっと緊張を解くためにキリスト教の賛美歌を心のなかで歌う。またキリスト教のお祈りをする。
そうして退転しています。家に帰って来たときもう退転している。本当に退転してキリスト教でもやった方が自分には向いてるような気もする。
その心のなかの格闘をこの2年間続けてきている訳です。もうこの辺で心を決めなければと思いつつも——。
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(5月11日)
何が真実か分からず、創価学会の信仰をもう一度しようかどうしようか迷い、僕には向いてないんだと、いつも否定しつつ、でも寂しくて、それに不幸な人の姿を見るとこのままでいいのかと思ってしまって、僕は思いに沈む。
でも僕の病気はこの信心を行うとたしかに悪くなる。元気になることが却って僕の対人緊張を強めてしまう。だからいつも発心しても図書館なんかで勉強していると苦しくてたまらずに、それに他の人の迷惑にもなってしまうので賛美歌を心のなかで唱えてしまう。でもこれでいいんだろうかといつも思ってしまう。人が去ったとき僕はやっぱり創価学会の信仰をまたしてみようと思う。でも人が来ると緊張してやっぱりリラックスするために創価学会はやめよう。——でもやっぱり人を救えるのは、苦しみのなかにある人を救えるのは創価学会しかないと思うから、少し疑いの心もあるけれど、人のため、可哀相な人のため、頑張っていかなければならないと思ってしまう。
どうしても図書館で勉強すると退転してしまう。そして僕の心は暗胆となる。甘いのだと思う。寂しいからといって図書館で勉強するのは甘いのだと思う。でも試験のときにはどうなるだろう。緊張するからと家で一人でばかり勉強していたら、僕の病気はいつまで経っても治らないような気もする。また劇的に治るような気もする。題目と勉強の繰り返しをしたら、とても能率が上がると思う。でも対人緊張はそのままで治らないような気もする。
もう一度たとえ治らなくても戦ってみようか。最後の望みかもしれない。たしかにこの信心をしなかったらきつくないけど、元気がなくなり、生きるのが楽しくなくなってしまう。
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大阪の町で僕は思っていた。『こんなのでは救えない。——駅に転がる浮浪者の人たち。夜、眠る所もなく道端に倒れ伏している人たち。西野バレエ団に来ている人たちは金持ちが多かった。それにあれは単なる健康法だった。人を救えるのは——人を救えるのは—— 僕はそう考えながら夜10時ごろの駅のなかを歩いていた。道の横には倒れ伏している浮浪者たちの群れ——。僕は
(僕は卒業試験が終わったあと、西野式呼吸法を学ぶために大阪に来ていた。自分の病気を治すためではなかったと思う。僕が長くためらったあと大阪までたくさんのお金を使ってまで行く決心をしたのは、創価学会員で精神病で苦しんでいる人たちを治せる自分になろうと思ったからだった。創価学会の信仰してもどうしても治らず、苦しみ続けている創価学会員で精神病の人たちのためにと僕は決心したのだった。
自分の病気も治りたかった。あのときは悲壮な決心だった)
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(5月13日)
ボンさんのアパートで昼の2時24分頃まで寝ていた。僕には行く気がなかった。やっぱり僕にはこの信心は向いてないんだと思ってきていた。昨夜、ボンさんのアパートに来るとき、クルマのなかで『なんだか創価学会に戻ったようだな。なんだかいま、学会活動に夜の道を行ってるようだな』と思い、クルマのなかで題目を唱えつつ、懐かしい思いに浸っていた。でも僕はもう創価学会をやめる決意は固まっていた。
夜10時を回ったクルマのなかで僕の心は今日1日ずっと家にいて寝たりして何もしていなかったことへの後悔の念に満ちていた。ともすると落ち込みがちになりそうだった。落ち込まず元気になるためには創価学会の信心をするんだ、不幸な人、可哀相な人を救えるのはこの信心しかないんだ、と自分の心を叱吠しつつクルマを走らせていた。
一緒に入学した人はみんなもうとっくに卒業して医者になっていること、それなのにまた卒業試験に落ちて今、苦しい不安な日々を送っていること、——福田へ向かう曲がりくねった細い道を行きながら僕はそうして不安な心を題目を唱えることによって必死に打ち消していた。
題目を唱えないことにはどうしても落ち込んでしまう、でも対人緊張も強くなってしまう、そしてこの信心を止めてしまう、——その連続だった。もう2年間もこの状態を続けていた。このままではいけないと必死に心のなかで格闘し続けていながら——
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(5月14日)
『真実は何なんだ』僕は今日もそう考えつづけた。今日も12時半過ぎぐらいまで寝ていた。激しい焦燥感、落胆、それらと戦うため今日も朝起きるとき題目を唱えながら起きた。もう自分は題目を唱えながらでなければ朝起きることができないようにも思う。でもやっぱり緊張してしまって(今日は昼からの泌尿器の授業に出たあと、やはり寂しくて県立図書館へ勉強しに行った。学校では空いてたから退転のことはあまり思わなかったけど、県立図書館ではやはり緊張して退転しよう、と思わないでは苦しくて苦しくてならなかった。でも県立図書館から帰ってきていて、やっぱり創価学会をするべきではないだろうか、と考えていた。また、創価学会のところにも行こうかと思った。
何故、こんなに卒業試験で躓いてしまったんだろうと思って。今までは同じ学年を3回続けてするなんてことはなかったのにと思って。今まで2回ほど同じ学年を3回するピンチになったことがあったけど、そのときは運よく進級できたのにと思って。
罰なのかなあと思った。その2回のピンチのときは全く信心から退転していたのにと思って。
今日、夜、3時間でも題目を上げようかなとも思った。家に帰ってきて全く元気が出なかった。それに夜8時ごろ県立図書館からクルマで帰ってきているとき原付のバイクで配達に雨のなかをゆく叔父さんの姿が僕の目に映っている)
県立図書館で勉強しながら思った『自分の病気、この病気はどこに由来するんだろう』という思い。『どうしたら治るんだろうか』という思い。こんなに留年してしまったことへの後悔の念。真面目に勉強していれば良かった、また、卒業試験のとき県立図書館なんかで勉強しないで家で題目と勉強の繰り返しをしていたら、もう2年前に卒業していたのではないだろうか、という思い。
2年前、卒業試験のときに退転しなかったら、と思って僕は後悔の念に沈んだ。 今、これを書きながらも学会のところへ行きたい、という思いは強い。
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(5月15日)
焦燥感なのだろう。今日、図書館からの帰り、マルキョウ(食料品などをとても安く売っている店)に行ってコーヒーなどを買っているときも、そのあと近くの本屋で本を少し立ち読みしているときも、(早く家に帰ってワープロを打ったりしなければと思って、また緊張感のためやはり人がいるところでは本をあまり読めなかった)また結局二千五百円ぐらいも本を買ったあとも僕の心のなかは激しい焦燥感で張ち切れそうだった。
図書館でもあまりよく勉強できなかったと思う。図書館に8時の閉館まで居てクルマで帰っているとき、このままでいいのだろうか、このままで自分はいいのだろうか、という不安でいっぱいだった。
勉強のみに賭けるべきだと思いつつも、いつものようにパソコンの本も買ってしまった。パソコンするよりもっと勉強に賭けるべきだと思いつつも。
帰ってきて自分の情けなさに打ちひしがれている。早く卒業しなければということと、親への罪悪感と。
昨夜、思ったけど、こんなに対人緊張が激しいようでは卒業して医者になってどうしたらいいのだろうと思った。自分に何ができるのだろう、どこも雇ってくれないのではないかと思って。そしてそのためには必ず自分のこの病気(少なくとも対人緊張だけは)治さなければいけないと思った。
本当に今のままではどこも雇ってはくれないようで僕は昨夜遅く絶望の思いに浸った。死をも久しぶりに思ってしまった。
気功法しかないように思う。
(5月16日)
今日もまた、帰りのクルマのなかで創価学会の信心をするべきか、どうしようか、と煩悶した。今日も昼から(12時半ぐらいからだったと思う)県立図書館で勉強した。僕の対人緊張は以前のままだ。でも夜8時、クルマで図書館から帰っているとき、不幸な人、恵まれない人のため、たしかに僕には向いてない信仰かもしれないけど、しなければならないのだろうか、と思った。何も考えるまい、昨日のように何も考えるまい、とも思った。またそれが一番楽なんだと。
考えるまい。気功法をしていこう。僕には向かないんだ。どうしても脅迫的になってしまう僕には向かないんだ。そう思っていこう、と思っている。
明日、姉と桜子ちゃん(姉の子。つまり僕の姪)が帰るという。悲しい。こういうとき僕は以前いつも題目をあげてきた。大学一年のときに退転するまでは。
僕は深く考えたくない。もう、のんびりとした何かの信仰をしていこうと思う。
今日、図書館で勉強しながらアフリカなどの難民キャンプにでも卒業したら行こう、と考えていた。でも以前から思っていた『それよりも心の中が喜びで満ち溢れる法華経を広めてゆく方が彼らを救うためにもいいのではないだろうか。彼らを物質的に救ったって彼らの苦しみは依然として続くだろう。それよりも苦しみの中にも喜びを湧き立たせてくれるこの法華経を彼らに広めてゆく方がどんなにいいだろう』と思った。でも僕にはやはり不信の念がある。不信の念があるから。僕は考えたくない。のんびりと気功法でもやっていった方が僕にはいいのではないかと思う。
考えるまい。考えるまい。のんびりとしよう。
でも今日もほとんど誰とも喋らなかった。僕は発狂するかもしれないと今、思ったりしている。
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(5月17日)
僕は今日も家に帰ってきて、やっぱり創価学会の信仰をするべきだと思った
でも僕はいつも図書館で退転してしまう
僕は何が真実か分からない
昨日は藤下さんと牧島に魚つりにいった。ほとんど釣れなかった。でも僕は創価学会の信仰をしていた高校や中学時代を思い出していた。今日も図書館からの帰りがけ、今から創価学会のところに行って創価学会のみんなと活動をしようと思った。でも僕は——
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(5月22日)
この信心をすると対人緊張が強くなるのは魔の働きか。元気になるのに僕の場合はどうしても緊張が強くなってしまう、リラックスできない。だからいつも図書館で勉強していて退転してしまう。でも家に帰ってくると心細くなってやっぱりこの信心をしようと思ってしまう。
それに正義感もある。不幸に打ちひしがれている人、苦しみのなかにある人、を救えるのはこの信心しかないことはよく知っている。
本当に対人緊張さえ強くならなければ僕はこの信心をするのに。一生懸命にするのに。
吃りなんか治らなくったって、喉の病気も治らなくったって。
気功法で僕の病気を治してから再び法華経に戻ろうかとも思っている。
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今日、県立図書館で勉強しながら久しぶりにバックのなかに忍ばせてきてキリスト教の聖書をごみ箱に捨てようかどうしようか迷った。結局捨てなかった。まだ決心が付きかねていた。
対人緊張さえ、それさえ軽くなれば、そうしたら僕は少しもためらわずに再びこの信心をするのだけど。
いま永松から電話が掛かってきたとき、僕はこの信心(創価学会)を辞めてキリスト教でもしていようと思っていたとき、僕は元気もなく嫌々ながら電話を取った。でも途中でこれではダメだと思い『創価学会』の信心をするんだ、と思うと急に明るく応対できた。劇的に明るくなった。でも吃りが酷くなったような気もした。でも吃りなんか何だ。僕はやはり創価学会でいこう、寂しいかもしれない、辛いかもしれない、でも創価学会でいこう、僕は今そう思っている。明日から県立図書館での勉強もどうしようかと思ってきている。でもやはり僕にはこの信心は向かないのではないのだろうかという思いは消えない。
(5月24日)
僕は幸せになりたかった。病気を治したかった。だから中学・高校と一生懸命に信心をしてきました。しかし僕の病気は治りませんでした。一生懸命に題目を挙げていて罹った喉の病気——でも僕はそれを自分の勲章だと思っています。ときどきやはり後悔の念に襲われることもあります。自分はやはりこの信心を行わなかった方が良かったのではないのかと。僕はもしかしたらこの信心をしたために一生を棒に振るようになってしまったんではないのかと。
今日も朝、題目を御本尊様の前では題目三唱でしたが、朝の仕度をしながら、また図書館へ行くクルマのなかで題目を唱えました。
図書館で最初の45分はとても気合いが入って良かったです。でも、その45分のあと、少し休んだあと、やっぱり緊張して心が落ち着けないのを強く感じて、やっぱり僕にはこの信心は向かないんだ、といつものように考えてしまって、それからはリラックスして勉強した。でもそれで良かったのかもしれないと今思う。
高校の頃そして浪人の頃、僕はいつもこの信心のことを思っていた。あの頃は今以上だったと思う。朝から夜寝るまでずっと精神の緊張のし通しだった。起きているときは題目を挙げるか勉強を頭のなかで考えるかしていた。高校3年の終わり頃のことだった。それに浪人のときもそれに近かったと思う。
今も思う。この信心はとても神経質な僕には向かないのではないのかと。それともやはり以前のように一生懸命ではなくともこの信心をしてゆくべきかと。
(5月25日)
昨夜、永松のアパートに泊まった。夜の間は良かった。しかし朝、元気が出なかった。そしてエゴイストの振舞いを永松にしようとする自分を情けなく思った。そして永松のアパートからクルマを停めている海岸の方へ歩いて行きながら途中に川があって(小さなドブ川だけど)その川を見ながら(いつもいつもこの川を見るときに思うのだけど)“可哀相な人——自分もだけど苦しみに沈んでいる人”——僕はそんなことを思って『やっぱりこの信心をするんだ、苦しいけど自分には向かないと思うけどこの信心をするんだ』『いつもいつもこの川を通るときはそんなことを考えてしまうな。本当にいつもいつもだな』と考えた。この川は庶民的な雰囲気のする川で川縁には田舎の貧しい古い家々が建っていた。
そのあと県立図書館へ行った。家に帰って題目と勉強の繰り返しをした方がいいかどうか迷った。図書館で勉強することは対人緊張の強くてどうせ薬を飲むだろう、そして薬だけで効かずキリスト教の賛美歌を心の中で歌うだろう、そしていつものように退転してしまうだろう、と思ったが誘惑に負けて行ってしまった。寂しさに勝てなかった。
——でも—— 寂しさに勝つために明日からは活動しよう、と思っている。
ちゃんと信仰を貫いて活動したりしていたら卒業試験で2年も失敗するなんてことはなかったはずだった。図書館で勉強しても緊張してしまってあまり頭に入らない、と今日、図書館で勉強しながら思った。
(6月1日)
僕は再起を賭けて昨日、そして3日前、3時間から4時間ぐらい題目を挙げた。3日前が3時間で昨日が4時間半ぐらいだったと思う。でも、それくらいは僕は20歳になる直前、退転するまでには良く行っていた。僕の病気は良くならない。でもとても元気になるし、学会の仲間と一緒になれて楽しい。
でも僕は
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(6月25日)
団体の気があるのだと思う。
《集団“気”論》
集団には集団ごとに“気”がある。創価学会には創価学会の“気”が、共産党には共産党の“気”が、中核派には中核派の“気”がある。
自分が以前、行っていたことのある真光教はある時に二派に分裂した。そしてそのうちの一派には分裂する前にはよく起こっていた霊動が次第次第に起こらなくなってゆき、分裂して十年経った頃には霊動はほとんど起こらないようになった。しかし、もう一派の方には依然として霊動がよく起こり続けていた。
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僕は創価学会改革派の人と話をしたことがある。2年前、福岡のその活動家の人と電話で一回目1時間、二回目30分、話をした。
——『でも悪いことが起こるのがこの信心でしょ。正しい信心には必ず魔が競い起こってくると御書にも書いてあります。それは一般の心霊学でもそう言っています。正義を憎む悪魔の働きが必ず起こると。それが起こらないのはその信心が正しくないからだと。“魔競わずば正法と知るべからず”という御文が御書の中にあるでしょ。それにたしか18世紀頃のヨーロッパの有名な霊能者のスウェーデンボルグがまったく同じようなことを書いています』
『——でも、学会員の、血みどろの苦労を、足を引っぱるようなことは良くないと思います。僕には、何が真実なのか、どちらが正しいのか、よく分かりません。でも、純粋な学会員の足を引っぱることだけは良くないと思います』
(十年前のとき、僕は何も知らなかった。ただ、一生懸命信仰し、一生懸命勉強し、一生懸命活動していた。あの頃は良かった)
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○○さんへ
会って話をしようと思ったのですが、こちらも忙しいですし○○さんも多忙だと思い手紙ですませることにしました。自分は結局、法華講に入りかけましたがやっぱり止めました。創価学会の方がずっと良いと思ったからです。自分は大学の図書館から13冊ほど、県立図書館から5冊ほど、そのほかにも自分で買ったりして30冊くらいの学会批判の本を読みました。顕正会の本も6冊ぐらい読みました。また、藤原行成さんの本も読み、行成さんの家に電話をし次男の人と話をしました。
自分は9月7日にバイクで事故を起こし2ケ月間入院しました。今も後遺症に苦しんでいます。頭と腰をやられ、今もまだ頭は物忘れなどが酷いです。
病院のベットの上で考えました。やっぱり創価学会を信じていこう、と。たくさんの本を読み創価学会に批判的になっていた自分でしたけど、これからは中学生、高校生のときのように純粋に創価学会を信じていこうと思います。
せっかく手に入れた幸福行きの切符を手放してはいけません。家族のためにも再び幸福行きの汽車に乗るようにして下さい。
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○○さんへ
あなたは間違ったことをなさいました。今まで一緒に命を懸けて戦ってきた同志を裏切るという——たしかにあなたは正義感に則ってそうされたのかもしれません。しかし多くの同志がそのために苦しみ悩んでしまうことになりました。ジャーナリズムはあなたを褒め讃えるでしょう。しかし仏法は、世の中を支配している四次元の法(これは巧い表現でないかもしれません)はあなたを死後、地獄へ導くことはあなたも心の隅に少しは感じていることと思われます。仏法が厳しいことはあなたもご存知のはずです。“魔競わずば正法と知るべからず”という御文を当然知っていらっしゃるはずです。魔が競うから正法なのです。自分は創価学会だ、創価学会を信じ抜いているんだ、と思っているときの題目と、自分は創価学会でなく単なる法華構だ、と思っているときの題目はそれぞれ違います。自分は創価学会だ、創価学会を信じ切っているんだ、と思っているときの題目が一番元気が出てきます。自分はそれを“自分には自分だけはあんまり元気が出るのは良くないんだ”と思い創価学会の信心を辞めてキリスト教に走ったり瞑想に凝ったりしてきました。でもすべて“青い鳥”でした。真理は自分の家にすぐ近くにありました。自分の家の一階の仏壇のなかにあったのです。僕はそれを知りませんでした。
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○○さん。○○さんは誤ったようです。
僕が法華講に入るのを止めたのは、法華講には不幸せな人たちを救ってゆこうとする情熱が希薄だったからです。その情熱が希薄な処には大聖人さまの御精神は住みません。僕が法華講に引かれていたのは法華講には燃え上がるような歓喜がなく、そのために僕の病気が悪化しないからです。僕はどうしてでも御本尊様を信仰していきたかった。でも創価学会で信仰していると、その燃え上がるような歓喜が僕の病気を悪化させてしまっていました。それでキリスト教のところへ行ったり、この信仰を止め瞑想法を行ったりしてきました。
信仰は形式ではありません。信仰とは(少なくとも大聖人さまの信仰とは)不幸せな人を救ってゆくことです。広宣流布してゆくことです。お山に登山することも、勤行することも、大切なことではありません。
大聖人さまの魂は不幸せな人を救ってゆこうという情熱の中にあります。自分の安楽・一時的な快楽を捨てて不幸せな人たちを救ってゆこうと思う人のそのときの胸の中にあります。
自分の幸せを願う心は、少なくとも大聖人さまの信仰に於いては、もう信仰ではありません。信仰とは自分の身を犠牲にして不幸せな人を救ってゆく行動の中にあるのだと思っています。
自分の幸せを捨て去ること、その中に信仰があるのだと思います。
完