大きく窓を取ったロビーからは、山下公園の街並みが見える。大桟橋も赤レンガ倉庫も開発に改修を重ね、もはや昔見た姿ではない筈だが、いざ、違いを探そうとすると、よく分からない。
県民ホールは、子供の頃、チケットを貰って昭和アイドルを見たのが最初だ。昭和アイドルはとうに引退し、チケットをくれた旧友は疎遠になったが、ホールは変わらずに、港街を見下ろしている。変わるのは人ばかりだ。あの頃確かにいた人々が、少なからず、今はもう居ない。

懐かしい階段を下り、席に着く。
客席には、落ち着いたホールの趣に合った装いの人々が多い。幾度か公演を経験した限り、公演内容を投影したような癖のある服装は案外少ない。

だが、演者の姿に度肝を抜かれた。
Chara氏提供とのことで、服一点一点はとても洒落れている。しかし纏っているのは中年期のメンズを主としたメンバーだ。固定観念や既成概念など何処吹く風で、痛快な程、コンセプトはまるでない。

今日はきっと、とても哀しい日だ。
居た筈の大切な人が、今はもう居ない。
けれど、哀しまずに哀しむ。
肩にかけた偽ミンクみたいなストールも、ずり落ちて顔面を覆いだすウィッグも、おじさんメンバーの華奢な膝頭が覗くミニスカートも、みんな雑で、最高だ。

大切な人が居ても居なくても、今日は続いている。とりあえず泣かずに、最高に雑な格好で音楽を奏でる。奏でる程、綺麗な顔の造形は、安いアクリルみたいなウィッグに覆われ、いよいよ人物の判別がつかなくなる。

ファンクの詩は、ワンフレーズを繰り返すことが多い。一見雑だが、極めると、訴求はかえってシンプルに響く。
Pファンク的な出で立ちと無機的なワンフレーズに取り込まれていく。

長いMCが始まる。
Chara氏から衣装提供に至るくだりは、いつもながら軽妙だが、やはり本筋は恩師の件だ。
率直に、淡々と、想いを語る。
生きづらい人生を生きていくために、長年の経験から体得した俯瞰、鳥瞰なのかもしれない。もしくは、哀しむにはまだあまりにも、日が浅いのかもしれない。
もっとも、幾ら推しはかっても、誰にも断定は出来ない。想いは、個々の胸のなかに在る。出せない正解など、勝手に求めてはいけない。

圧巻はラス前だった。
長い間、セットリストに君臨してきた定番だが、これまでより歌パートを減らしている。減らしたことで更に凄みが増す。遂にはいよいよフロントマンがステージから消える。残された観客は、テンポアップしていく曲になんとか食らいついて手を挙げ、不在にも応じていく。疾走は止まらない。フロントマンは其処に居ないのに、統制下に置かれていることに、快楽すら覚える。

帰ってきたフロントマンは丸腰だった。
爪弾く武器を持たず、長年信頼を置くキーボードをバックに、シンプルで、以前より音数の減ったバラードを始める。所謂、AメロBメロ、サビといった境界は曖昧だ。歌声が、凪の水面を静かに打つ。
訴えるバラードから、内省的なバラードに転化した印象を抱くのは、聴覚との兼ね合いだけではないのかもしれない。

アーティストも観客もそれぞれに年を重ね、ただ与えられる音楽から、それぞれに内省する音楽へ転換すべき時期にきているのかもしれない。受け身一方で、メッセージを待つだけではいけない。アーティスト、観客、双方の成熟がなければ、Pファンクと、非訴求型バラードの整合性は到底成り立たない。観客としてそれに応えられているだろうか。凡庸で無難な我が身を振り返る。

確かに其処に居た人々が、日々居なくなってゆく。それは、我が身も然りだ。
ちゃんと生きているか?
凡庸で無難な身に、不整合のごった煮が、意外にストレートなメッセージを突き付けてくる。

メッセージを留保して、セッションに逃げる。逃げるが骨太なセッションに、尻を叩かれる。
そして、恩師は旅へ。 
ミラクルな異世界へ旅立ったのか、初めから、ミラクルな旅の途中だったのか。
旅立ちを見送っているのか、旅先から見守られているのか。

表と裏。
表の造形美からアイドル(表)としてスタートした彼は今、ファンクを奏で、サブカル的な出で立ち(裏)でメッセージを放つ。 
どちらかを手放した訳ではない。今生ではお別れだが、決別ではない。すべては表裏一体だ。

自省していた筈が、次第に骨太なセッションに血の巡りがよくなり、腹が減る。
いま、どちら側なのかは分からないが、演者も観客も、とりあえず生きて、此処に会していること、それだけでスーパーミラクルだ。