世界の常識だと・・・他人・他の家族等の事を考えるという事は余程の余裕が有る人が行う救世主的な事だと思っている。救世主と成ると、基本、一神教の世界では一人の神になる。その他は、そのレベルが無いので、救世主の出現を待ち浴びて2000年程、過ぎている。それ程、己が生き残る為の環境が厳しかったと言う事にもなる。私はよく家族守・親守・地域守・親族守・色々な守があって最後に墓守が出来るのが、人間だと何度も書いている。要は、責務を背負うと言う覚悟だし、その後の実践だと考えている。しかし、この守るが思うように出来ない、私の見解だと、責務を担ぐ勇気が無いために、守ると言う口実で支配に向って行く・・・保護したと思って居ても捉え方次第では支配されたとなる。現代、教育も、子育ても、私は守る覚悟が無いから、支配したいという方向に向っている。要は、世界のグロバル化に向かっていると言うこと、責務が嫌だ覚悟が無い、この様な人に子を生め増やせ・命懸けで会社・仕事を大成させろ等々、言っても、響かない・・・・なと馬鹿なことを言うのかハラスメントと騒ぎ出す。差別とも言いだし、人権侵害等乙、都合の良いことを言い出す。今後、本来の人としての生き方から餓鬼・畜生・修羅での生き方が、当然だし、其れで唯物的利を得ると、一瞬の天道に入りそれをしを幸せせと感じるが直ぐに覚めるので、この繰り返しを、己の居心地が良い、レベル、餓鬼か・畜生か・修羅という世界で普段生きる事に成る。要は、その人が生まれる前に選んだ環境に生まれるという考えが仏教・・・・その様な環境が好きだから、その環境で生まれてきた。そこで、問題点を感じ、努力することが来世に繋がるという考えに生る。しかし、思わない、普通ともう事に疑問を持つという事は、統治側も許す方向で無い、結果、勇気が要るし、異端児扱いされる程度が丁度良いと言う事に成る。