こんばんは、mmm(まーママ)です。
昨日のつづき。
1275年
幕府は、蒙古からきた使節を鎌倉竜ノ口で処刑したため、蒙古の2度目の襲来は避けられなくなりました。
1276年
博多湾では、蒙古軍の襲来に備えて防塁が築かれました。高さ2~3メートル、海側は垂直に近いつくりになっています。
1281年6月
博多湾にせめてきた蒙古軍の船を、日本軍は夜襲しました。
7月中旬
戦力をたてなおした蒙古軍は、14万人、4千そうの船で再び博多湾へ向かいましたが、30日の夜暴風雨が蒙古軍を襲いました。戦闘力を失った蒙古軍を相手に戦った日本軍は圧倒的な勝利をおさめました。この戦いを「弘安の役」といいます。
文永の役、弘安の役をあわせて「元寇」といいます。
■元寇防塁
九州各地の御家人に命じて1276年3月から約半年間で、西は今津から東は香椎まで博多湾の海岸沿い約20kmにわたる防塁を築かせ、その場所を警備させました。
再び、元寇防塁を見に行きます
案内表示に沿って駐車場まで20mと書かれた案内板のところまで来るも、肝心の駐車場の表示がありませんでした。それらしき所に車を停めて、数百メートル歩くとこちらに到着。
◼️元寇防塁(今津地区)
福岡県福岡市西区今津
松林の中を進んでいきます。
見えてきました!
フェンスの先が復元整備されているようです。
今津地区は、日向国と大隅国(宮崎県と鹿児島県の一部)が分担して、海岸砂丘上に約3kmの防塁を築きました。約3mの高さまで石を台形に積み上げられています。
フェンスから先のほうも、
ずっと防塁が続いていたことがわかる石が、道のところどころに見ることが出来ます。
防塁のすぐ近くに海岸へ出る小道があったので・・・
きれいな砂浜が広がっていました。
犬の散歩をしている人もいましたよ。
■北条時宗
18歳で第8代執権に就任。
2度にわたる蒙古軍の襲来というかつてない国難にみまわれました。時宗は御家人以外の武士にも出陣を要請。防塁を築造し、台風の恩恵もあってこの国難を乗り切りました。
禅宗に深く帰依しており、元寇で亡くなった敵味方の霊を慰めるため、円覚寺を創建しました。