mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~ -93ページ目

中庸 中道  標準  多数の人々の価値化した価値類と最善の中でも最善の御品物の事は違う

中庸 中道  標準  多数の人々の価値化した価値類と最善の中でも最善の御品物の事は違う

 

 

政治とは

たんなる

環境でしかない事

 

大前提

社会政策制度の実施主体の一つではある

 

それらは

人工作としてのSYSTEMのサブシステムの一つであって

全部では無い

 

 

力というのは

種類はあるから

 

人に属する力とは

一体

何かとは

誰かの研究とか

価値化した価値とか

思想

考えとしての意見などに反映されている

 

 

 

人を知る

理解する時の

一つの道具であるから

 

実際に

生きる事とは乖離するのは

どうしようもなことだ

 

そもそも

ほんとに

神のような人があっても

その者は

神では無いのと同じ

 

 

 

行き過ぎた期待は

中庸とは言わない

 

偏執

といますし

 

信じ込むのは

危険だと云う事だ

 

 

 

 

民意をどう

DEMOCRACYだとして

 

 

意見は

尊重する事

 

揶揄

侮辱意図

それは

マルトリートメントの事であるので

 

それを

誰かに投じる事では

侵害行為である事など

倫理の規範の種類も

自分で

内在化して

統合化する能力も必要だ

それは

中道かもしれないし

 

 

右でも左でも

中でも

あるく道は

いろいろあるので

路線がどうの

となると

もっと人は

自由にあるきたくなる時もあるし

 

敷かれた線路をどこまでも

そのカートに乗せてもらうと

 

どこにいきつくか

 

蒙昧では無理だな

 

でも

時に人は

ミステリアスなtunnelの向う岸に

興味を示す事でもある

 

特に

せっぱつまったときなど

 

どうにかなるさと

信じ込むイメージは

空想的な楽園などだ

 

 

 

 

そこは

注意していないと

危険だと云う事

 

 

なにが

 

自滅的な嗜好のある認知行動だとすると

ある主の犠牲論も登場してくるし

 

また

ドリームとしての自己犠牲もあるし

 

cultの中でも

侵害する事への促進を世間の価値化としての準備もあるから

 

いままでの

メシアとしての

存在者には

非常に注意している必要があるので

つねに

REAL

 

というのは

賢明だ

と云う事

 

 

 

 

 

自己陶酔の傾向とか

自己高揚の傾向とか

 

丸め込みとか

 

操作する意図の如実さとか

 

いろいろなイメージの工作なども

 

どうか

詳しく査定している事

虚飾は直ぐに

あからさまになるのは

常だし

 

 

 

 

南山堂

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人気者になる必要など微塵も無いし、人の存在自体、誰かに規定されている事も必要無い事だし、、、自由

自由というのは

 

何か

 

束縛するその力から常に

自己保持できている存在自体

そのもの

 

環境や

また

肉体の状態など

保持しているとしても

 

自由はあるのであるから

 

という

大前提

 

精神の自由とかいう理屈では無いのです

 

 

 

 

 

多くのMENUから

一つ最善の品物を

選ぶ

指示する自由もある

 

 

 

 

そこは

RELATIONそのもので

 

何かを詳しく全部知っているかどうか

理解というのは一つの能力そのもの

 

それこそ

恩寵の一つだと言われている次第だ

 

7つの

賜物とかいいます

 

それは

 

実際の宝石などよりも

無限に価値ある事だから

 

 

現実にどんなに

花やかな

生活があっても

それはそれ

物質物理の現象の結果の事

 

 

同時に

存在している自体のその固有のそのもの

である自分というものがある

 

認知機能の問題でもない

 

そのもの

 

正に

FRUITです

 

 

 

 

 

 

果物という意味ではありません

 

 

 

貴重な宝石類よりもはるかに価値ある存在

 

唯一無二であるその者と云う事です

 

 

失いたくはないそれ

決して

 

 

 

 

 

 

 

ゆえに

嫉妬するという言い方は

 

他の善徳では無いものといつまでも一緒にいたいといいますのは

どうかと

 

それは

ストーカーでは無いのです

 

操作して

相手を

自分の所有物として

呑み込む対象では無いから

です

 

 

それは

人の情であって

 

不完全な状態の証明の一つだ

 

と云える

 

 

 

 

 

 

そういう物質の原理性の問題では無いと云う事です

 

 

存在自体を限りなく尊重する

エスティームそのもの

 

EST

 

ある

と云う事を

無限に喜ぶ事なのです

 

よかった

 

うれしい

 

 

喜悦

 

 

慶祝する事

 

福そのものだと

している

 

福実

 

 

 

福田とは

福田思想などありますけども

 

そういう思想的な意図では微塵も無いのです

 

地上でのいろいろな相互作用の物理の問題とはまるで違う事

 

 

 

 

 

南山堂

 

 

 

 

 

うつくし 現 くすしきことのそれ うつす鏡の反射した光の写像 反映 

installation

 
うつくしい条件の兼ね備えた実相実装
 
外見と内面と内実
 
鏡という道具を媒体(MEDIA)にしないと
自分を観る事になら無い
 
外見も
内面も
内実も
 
うつ
くしきこと
 
汚れているそれらは
どうしたら
その汚れを除く事が可能
あたうるにべきするか
 
 
 
口から
頭脳から
出でる
 
意図
 
おもい
 
ことば
 
おこない
 
 
なぜ
その意図があるか
 
もしも
意図しないで
発する
思考のIMAGEがあるなら
それは
その方にある
備えられている
頭脳神経細胞システムの自動化の機能の運用であって
何か
観念奔逸という状態かもしれない
 
 
いろいろな
イデア
アイデア
湧き出す機能が
その方にはあって
さっそく
それに取り込むという
強迫観念もあるのかもしれない
 
 
なになにしなければならない
べきべきの思考パターン
 
認知の仕組みの問題であるが
 
その私的主観の認知行動のパターンとしての
 
行為のようなもの
 
 
 
 
 
明確に脅迫の衝動のような物事があって
それを自力では抗う事が出来ないとなると
その時には
葛藤が生じる
 
ストレス
 
その行為をしたらデメリットをつみかさねてしまう
同時に
その行為をやらないのでは気分が優れないなど
 
快感とか
快楽とか
悦楽状態とか
 
物質的な快楽体験と
 
存在自体ある事の喜悦のそのもの
 
では
 
価値として
違いがある事の事実
 
 
 
 
 
 
 
肉体をここちよいことなら
ドーパミンとか
セレトニンとか
オキシトシンなどの
神経伝達物質の内分泌の調整をうまくできる事を制御する事で
それは
問題を解決できるかもしれない
 
 
同時に
 
存在している事のそのもの
について
実存といっていいか
全く思想のものではない
 
単純な存在をそのまま
あーーうれしい
自分の存在がある事自体を
そのまま
最善最高最良
 
価値の中の価値として
悦ぶ
喜悦そのものと
 
生命と共にあって
極上で最善の価値であると
たしなむ
快楽と云う事
 
それである時は
いつでも
肉体の死を迎えるその瞬間のその一点の今でも
 
喜悦そのものは
消える事は無い事である
 
人間としての存在のそのまま
 
意義と云う事も無視できる事
 
 
価値の価値化とは
 
自分の内部の作為の意図した
そのもの
実践の結果でもある
 
まさに
カルチベイトそれ
 
カルチャーと云う事ではあるが
 
内的たのしみ
 
 
秘密の花園というのは
 
櫻の花の咲く時とか
 
たった一人で
誰もいない
野原の奥地で
椿の群生の花のその林にぽつんと
あることとか
 
正に
花鳥風月のそのまま
 
夕刻
朝間
 
昼の日のひかりの綾なし
 
 
その取り巻く環境の楽園的要素と共に在る事とか
 
それを
一度でも
実際に
体験した時は
 
幼少期でも
 
高齢期でも
 
いつでも
 
 
 
ただ
いまあることの
最善最高の幸福そのもの
 
奉献するとは
どういうことか
詳しく知る事
 
静かにしつまる
水の
地下から
また
岩から
しみわくように
 
 
 
そのこんこんと湧き出す
よろこふるて
 
 
 
有難い
 
くすしきこと
 
 
物質を呑み込んだ時のドーパミンの内分泌では無い事だから
 
食べる事の行為をしたときの快感とか
 
何か飲食のその行為のはじめのきっかけは
一つのスイッチである
内分泌の
神経伝達物質の
 
そうして
人の生きる様態は
維持されている次第だとすると
 
 
もっともな事とは
 
最高福の福とは
一体
何か
自分自身で
探求する事も
一つのまた
幸福の示す事であると云える
 
それは
日常の労務の時であっても
リラックスして過ごす完全なプライベイトの時間であっても
いつでも
どんな時でも
ふと
一瞬の時でも
観想
 
自分自身を
観て
思う事
 
また
 
自分では無い者である
Almightyである存在のその
意向を知る事を
求める事とか
 
それは
生命そのものという規定を定める時には
何か汚れをそこに用意する必要は無いと云う事だから
 
完全な光
 
光子をそこに規定する時
 
物質の相互作用の結果
 
人という生き物は
地上に誕生している結果は
今在る事だから
物質と物理の相互作用の結果である
自己という規定は完了する
 
 
そこで
何故
人は
存在しているのか
 
なぜ
 
存在している事の
その意味をもしも
追及す時には
 
 
神という存在は
人々が
創作してきた結果でもあるし
IMAGEして
偶像を
いかにもある物として
仮想現実化してきた
行為
ARTの実践の結果も世界のいたるところに観る事が
可能だ
 
では
無そのものを設定して
どうして
そこから
全ての物質が生成されて
今に至るのか
という
完全な合理の計算と
式と
その説明をしている者はあるかと
世界の情報を探ってみると
どうであろうか
 
 
検分
 
信じ込む対象としてではない
 
ASSESSMENT
 
 
 
 
これは何かと検分する事
観察
 
 
実地で
観る事だ
 
いまは
以前に比較すると
便利さはアップしている
道具も複数ある事だから
いろいろな物事を
検分できる
 
実際に
人を検索して
どんな人物なのかと
その一部を知ることも
可能となった
 
 
 
しかし
 
本質を問う時に
その人物自体は
ほとんど知る事は無理であるのは自明の理だ
 
文書では
不全
 
 
完全では無いから
 
ただたんに
記号化しているに過ぎないのです
 
文書があって
本人の意向として
そこに
記載記事があっても
情報の一つでしかなくて
 
信頼に価する事や物ではまずない
 
 
浮遊しているそれと同じく
記号化した言語の羅列であって
 
その人そのものでは無いと云う事だ
 
 
その価値化の意図を
知る事もとても重要である
 
 
 
 
 
文言を絶対化したがるのは
何か強迫観念の仕組みがそもそもその人にある頭脳神経細胞システムに生成されてしまっているから
かもしれないので
 
 
そこは
許容範囲の容量を
かなり保留している事のほうが
賢明ではあると云える
 
 
 
人というのは
 
やわら木
とか
いう
その輪
とか
和とか
倭とか
 
とか
とか
 
柔軟さとか
寛容さとか
仁慈とか
慈悲とか
慈愛とか
 
どの人に対しても保持している普遍価値の実態
 
実存的な成果の過程
 
ゆるし
という
行為実践
許可では無い
 
 
 
存在自体の尊重を
いつまでも限りなく
そうだと
あることを
尊重すること
つまり
操作し
自己の主観のIMAGEのそのとおりにさしむけることをしないこと
 
試験は可能だ
 
ゆらぐことではあるから
 
どの程度のゆらぎか
のためしは
必要である
 
どこまで
臨むのか
問題
 
クリニカルではあるけども
 
 
 
そこには
完全に全能である者があって
かつ
善徳者で
いつでも善い事しか意図していない者があって
 
そしても
その者は
そうであるからこそ
自由の行為を限りなく尊重する自主がある事である
これも善である
 
選ぶ
その行為自体に
操作しない事なのですから
要は
 
そのまえに
報せる事
報せて
 
知る事を
支援する事
 
それから
必要十二分の条件を整備した段階で
 
最終判断を
求のです
 
 
 
その時に
何かを決めるのは
その個人自身であること
 
故に
楽園があるから
強制連行など
まったくする必要はないのです
 
社会主義思想の実践の中で
一つの口実をもってそうした者の中には
そうして
強制的な操作を実務した者も複数あった
 
善意であっても
それは
侵害する事であった
人の自由自体を
 
自由からの逃避では無い
 
 
その事例の場合は
 
 
人自身には
いろいろな
正に
光子の反射の様のように
 
陰陽全ての煌めきがあるので
 
かがやき
 
ひからない部分とは
一体何か
 
それは
闇ではなのです
 
 
 
光を吸収してしまっているからこそ
観えないといいますし
 
 
POSITIVE
 
とは
 
正に
打ち明けの真意
 
打ち明けても
それは認識の蒙昧状態では
 
そのうち明けは
 
内側の内面の事実の事を
そのまま
すなおに
うちあけ
 
るかどうか
 
そこは
勇気
忍耐
謙遜
理解
などの諸能力が必要となる時もあるのです
 
 
特に
自分に過失のある時などは
 
 
 
それを自覚していても
そうだとは
言えない事も
人には否認という作業をしてしまう事もあるから
 
 
そこで
どうするか
 
なぜ
否認という機能があるのか
 
 
 
本来の素性とその時までの
行為の選択の一つ一つの蓄積と
それを
全て
照らし出す方の存在と
 
その全ての必要な条件がそろっても
 
人の意思とは
詳しくは知る事は不可能なのです
 
行為として
確実に観察する事の重要はそこですし
 
 
それで
どんな成果
結果
 
行為としての
結果
 
その木の実を
やはり
くわしく検分
ASSESSMENT
 
査定
する
仕事は
重要の一つかと
云えるのは当然かもしれません
 
なんでも
他人の云う事のその果実を
 
盲目に信じ込む事で
丸のみしては
あまりにも
危険であるから
 
霊そのものは
試すと云う事
 
 
 
それは
当然のアプローチではある
 
 
真意を知るという事は
自己防衛でもある
 
セルフヘルプとは
自助であるが
 
誰かの強迫性の言動に左右されていたり
誰かの脅迫行為に左右されていたり
 
自分の受け止める事のそれを
しっかりと
覚えていまあることの貴重は
 
それも
賢明という能力
たからもの
の一つだということ
 
 
 
という
個人の
自立
自尊
自主
自由
意図は
なんだろうか
人間としてです
 
 
野生の動物と同じでは無いと云う事
 
 
それは
権能として
預かっている能力として
管理する能力
地上の全てを理解し
管理維持する為に必要な能力
 
 
 
 
何かを進化させて
もっといまよりも良い
 
よい
といいますのは
仕事の中でも
問題解決の手法とか
課題の達成の仕方の敏速化とか
 
効率化でも
金銭の積み重ねの循環システムを維持するための投資など
 
それらの
価値の価値化と
 
人間の本質の存在して
すごしている
日常のいとなみのそのありのまま
 
 
そこの生産されてしまっている
ニッチ
隙間に
何をいま
うずめてしまっているか
 
です
 
 
 
埋めているその物事を
詳しく調査する方法も必要ではある
とは
云える
なぜなら
より善く
 
善い事のその物事を知ると云う事では
ある比較の方法論も必要だからです
 
選ぶためだからです
 
自分で
 
ここに
最終的にJUDGEするのは
その個人自身の主なる意向となるからです
それこそ
たしなみ
ためして
なめること
 
 
何か
永遠に
なめていたいものとは
という
質問
 
命題
Theme
 
 
 
 
 
 
南山堂