installation
うつくしい条件の兼ね備えた実相実装
外見と内面と内実
鏡という道具を媒体(MEDIA)にしないと
自分を観る事になら無い
外見も
内面も
内実も
うつ
くしきこと
汚れているそれらは
どうしたら
その汚れを除く事が可能
あたうるにべきするか
腹
口から
頭脳から
出でる
言
意図
おもい
ことば
おこない
なぜ
その意図があるか
もしも
意図しないで
発する
思考のIMAGEがあるなら
それは
その方にある
備えられている
頭脳神経細胞システムの自動化の機能の運用であって
何か
観念奔逸という状態かもしれない
いろいろな
イデア
アイデア
の
湧き出す機能が
その方にはあって
さっそく
それに取り込むという
強迫観念もあるのかもしれない
なになにしなければならない
べきべきの思考パターン
認知の仕組みの問題であるが
その私的主観の認知行動のパターンとしての
行為のようなもの
明確に脅迫の衝動のような物事があって
それを自力では抗う事が出来ないとなると
その時には
葛藤が生じる
ストレス
その行為をしたらデメリットをつみかさねてしまう
同時に
その行為をやらないのでは気分が優れないなど
快感とか
快楽とか
悦楽状態とか
物質的な快楽体験と
存在自体ある事の喜悦のそのもの
では
価値として
違いがある事の事実
肉体をここちよいことなら
ドーパミンとか
セレトニンとか
オキシトシンなどの
神経伝達物質の内分泌の調整をうまくできる事を制御する事で
それは
問題を解決できるかもしれない
同時に
存在している事のそのもの
について
実存といっていいか
全く思想のものではない
単純な存在をそのまま
あーーうれしい
自分の存在がある事自体を
そのまま
最善最高最良
価値の中の価値として
悦ぶ
喜悦そのものと
生命と共にあって
極上で最善の価値であると
たしなむ
快楽と云う事
それである時は
いつでも
肉体の死を迎えるその瞬間のその一点の今でも
喜悦そのものは
消える事は無い事である
人間としての存在のそのまま
意義と云う事も無視できる事
価値の価値化とは
自分の内部の作為の意図した
そのもの
の
実践の結果でもある
事
まさに
カルチベイトそれ
カルチャーと云う事ではあるが
内的たのしみ
秘密の花園というのは
櫻の花の咲く時とか
たった一人で
誰もいない
野原の奥地で
椿の群生の花のその林にぽつんと
あることとか
正に
花鳥風月のそのまま
夕刻
朝間
昼の日のひかりの綾なし
その取り巻く環境の楽園的要素と共に在る事とか
それを
一度でも
実際に
体験した時は
幼少期でも
高齢期でも
いつでも
ただ
いまあることの
最善最高の幸福そのもの
奉献するとは
どういうことか
詳しく知る事
静かにしつまる
水の
地下から
また
岩から
しみわくように
そのこんこんと湧き出す
よろこふるて
有難い
くすしきこと
物質を呑み込んだ時のドーパミンの内分泌では無い事だから
食べる事の行為をしたときの快感とか
何か飲食のその行為のはじめのきっかけは
一つのスイッチである
内分泌の
神経伝達物質の
そうして
人の生きる様態は
維持されている次第だとすると
もっともな事とは
最高福の福とは
一体
何か
と
自分自身で
探求する事も
一つのまた
幸福の示す事であると云える
それは
日常の労務の時であっても
リラックスして過ごす完全なプライベイトの時間であっても
いつでも
どんな時でも
ふと
一瞬の時でも
観想
自分自身を
観て
思う事
また
自分では無い者である
Almightyである存在のその
意向を知る事を
求める事とか
それは
生命そのものという規定を定める時には
何か汚れをそこに用意する必要は無いと云う事だから
完全な光
光子をそこに規定する時
物質の相互作用の結果
人という生き物は
地上に誕生している結果は
今在る事だから
物質と物理の相互作用の結果である
自己という規定は完了する
そこで
何故
人は
存在しているのか
なぜ
存在している事の
その意味をもしも
追及す時には
神という存在は
人々が
創作してきた結果でもあるし
IMAGEして
偶像を
いかにもある物として
仮想現実化してきた
行為
ARTの実践の結果も世界のいたるところに観る事が
可能だ
では
無そのものを設定して
どうして
そこから
全ての物質が生成されて
今に至るのか
という
完全な合理の計算と
式と
その説明をしている者はあるかと
世界の情報を探ってみると
どうであろうか
検分
信じ込む対象としてではない
ASSESSMENT
これは何かと検分する事
観察
実地で
観る事だ
いまは
以前に比較すると
便利さはアップしている
道具も複数ある事だから
いろいろな物事を
検分できる
実際に
人を検索して
どんな人物なのかと
その一部を知ることも
可能となった
しかし
本質を問う時に
その人物自体は
ほとんど知る事は無理であるのは自明の理だ
文書では
不全
完全では無いから
ただたんに
記号化しているに過ぎないのです
文書があって
本人の意向として
そこに
記載記事があっても
情報の一つでしかなくて
信頼に価する事や物ではまずない
浮遊しているそれと同じく
記号化した言語の羅列であって
その人そのものでは無いと云う事だ
その価値化の意図を
知る事もとても重要である
文言を絶対化したがるのは
何か強迫観念の仕組みがそもそもその人にある頭脳神経細胞システムに生成されてしまっているから
かもしれないので
そこは
許容範囲の容量を
かなり保留している事のほうが
賢明ではあると云える
人というのは
やわら木
とか
いう
その輪
とか
和とか
倭とか
吾
とか
環
とか
柔軟さとか
寛容さとか
仁慈とか
慈悲とか
慈愛とか
どの人に対しても保持している普遍価値の実態
実存的な成果の過程
ゆるし
という
行為実践
許可では無い
存在自体の尊重を
いつまでも限りなく
そうだと
あることを
尊重すること
つまり
操作し
自己の主観のIMAGEのそのとおりにさしむけることをしないこと
試験は可能だ
ゆらぐことではあるから
どの程度のゆらぎか
のためしは
必要である
どこまで
臨むのか
の
問題
クリニカルではあるけども
そこには
完全に全能である者があって
かつ
善徳者で
いつでも善い事しか意図していない者があって
そしても
その者は
そうであるからこそ
自由の行為を限りなく尊重する自主がある事である
これも善である
選ぶ
事
の
その行為自体に
操作しない事なのですから
要は
そのまえに
報せる事
報せて
知る事を
支援する事
それから
必要十二分の条件を整備した段階で
最終判断を
求のです
その時に
何かを決めるのは
その個人自身であること
故に
楽園があるから
強制連行など
まったくする必要はないのです
社会主義思想の実践の中で
一つの口実をもってそうした者の中には
そうして
強制的な操作を実務した者も複数あった
善意であっても
それは
侵害する事であった
人の自由自体を
自由からの逃避では無い
その事例の場合は
人自身には
いろいろな
正に
光子の反射の様のように
陰陽全ての煌めきがあるので
かがやき
ひからない部分とは
一体何か
それは
闇ではなのです
光を吸収してしまっているからこそ
観えないといいますし
POSITIVE
とは
正に
打ち明けの真意
打ち明けても
それは認識の蒙昧状態では
そのうち明けは
内側の内面の事実の事を
そのまま
すなおに
うちあけ
るかどうか
そこは
勇気
忍耐
謙遜
理解
などの諸能力が必要となる時もあるのです
特に
自分に過失のある時などは
それを自覚していても
そうだとは
言えない事も
人には否認という作業をしてしまう事もあるから
そこで
どうするか
なぜ
否認という機能があるのか
本来の素性とその時までの
行為の選択の一つ一つの蓄積と
それを
全て
照らし出す方の存在と
その全ての必要な条件がそろっても
人の意思とは
詳しくは知る事は不可能なのです
行為として
確実に観察する事の重要はそこですし
それで
どんな成果
結果
行為としての
結果
その木の実を
やはり
くわしく検分
ASSESSMENT
査定
する
仕事は
重要の一つかと
云えるのは当然かもしれません
なんでも
他人の云う事のその果実を
盲目に信じ込む事で
丸のみしては
あまりにも
危険であるから
霊そのものは
試すと云う事
それは
当然のアプローチではある
真意を知るという事は
自己防衛でもある
セルフヘルプとは
自助であるが
誰かの強迫性の言動に左右されていたり
誰かの脅迫行為に左右されていたり
自分の受け止める事のそれを
しっかりと
覚えていまあることの貴重は
それも
賢明という能力
たからもの
の一つだということ
個
という
個人の
自立
自尊
自主
自由
の
意図は
なんだろうか
人間としてです
野生の動物と同じでは無いと云う事
それは
権能として
預かっている能力として
管理する能力
地上の全てを理解し
管理維持する為に必要な能力
何かを進化させて
もっといまよりも良い
よい
といいますのは
仕事の中でも
問題解決の手法とか
課題の達成の仕方の敏速化とか
効率化でも
金銭の積み重ねの循環システムを維持するための投資など
それらの
価値の価値化と
人間の本質の存在して
すごしている
日常のいとなみのそのありのまま
そこの生産されてしまっている
ニッチ
の
隙間に
何をいま
うずめてしまっているか
です
埋めているその物事を
詳しく調査する方法も必要ではある
とは
云える
なぜなら
より善く
善い事のその物事を知ると云う事では
ある比較の方法論も必要だからです
選ぶためだからです
自分で
ここに
最終的にJUDGEするのは
その個人自身の主なる意向となるからです
それこそ
たしなみ
ためして
なめること
何か
永遠に
なめていたいものとは
という
質問
命題
Theme
南山堂