うがった見方とは本質を突く事を知って物事を観察出来ている事だから、
うがった見方とは本質を突く事を知って物事を観察出来ている事だから、
善徳の欠如している物事なのに
嘘言で誤魔化していいふるまい
多くの人の平然を嘘を申してそれを確信せと
信じろといいまくる者
うがつ事で
その真偽を検分します
全方位から
検査してみる必要がある次第だ
どうも
言っている事
成している行為が
整合性の秩序が⓪の場合
事例として
事例化するのは
当然
長期間にわたって
フィールドワークをして
参与観察するのは
必要があるのです
から
多くの人々に
その虚言を吐く事をして
自分の存在をアピールしている事自体が
彼の人の快感事として成立している次第だし
如何にも
司祭だなんて
いい
そんな振る舞いをしては
自分の自惚れ感情や良い気分を醸しては自己陶酔を繰り返す
正に
行為依存の事だ
行為に支障を抱えている状態を
どこまでも維持している
から
その不正
善徳を稼ぐ事は無理だと
言っても
彼の方は
それを誠実に受け止めて
傾聴などしようとしない
業として
拒否し続けるのです
行い
おこない
業
わざ
技法は
回避する
せっかくの自己覚知の気が付きの機会を提供しても
彼の方は
否認する自己の状態を
周囲の自己都合の追及こそ幸福なんだという価値形成こそを
彼は選択しているだけですから
本来の善徳をはじめから
選択しようとしていない
根本を教える事を
誰もしていないのです
どんなに儀式的な行為を
みせびらかせたとしても
内実の成果は
空っぽ
殻だけの
果実
善徳の種子の無い空の果実と
まったく
同じなのです
空とは
空洞として
内部
内殻に
種子の無い状態であるからこそ
空洞だといいますし
小さな種のその殻しか
無い
本質の形成されている
種子が
形成されていない
FRUITのCOREの部分ですね
そこを気が付いていない
自分で
種子
善徳の種子を
知って
養う事を怠惰している状態を維持するために
生きているのですから
本末転倒
のままです
未だに
意固地の中の意固地であって
おまえは
俺の先生か
教師かと
いいはるから
彼こそ
教師だとそうして
この私こそ
お前にとっての師だぞ
と
どこまでも
彼は自分自身を聖なる司祭だとして
教師であるぞ
として
押し付けて来るから
その意向は
未だに
解散していないのです
自分に陶酔していて
彼は
彼の間違っている事も否認しますし
他者からの訂正や改善の提案も
完全に拒絶する
MIND形成の今までのその仕組みが
そのように
どこまでも
自己を意固地として
自分自身を信じ込み
脳内Imageを
神の意向として
信じ切る
カルト形成に勤しんできた証拠です
外在化して
一つ一つを
検分しようとしませんから
どうしても
その方法論を
自分を疑う事
とは
自己にあるクラスタしているその一つ一つの断片情報を
正当な価値で
検証する事
善徳とは
慈愛そのものだし
仁慈ですし
カリタスといいますが
シャリテとフランス語でいいます
自分の愛着形成では無いのです
自分の好むそれを愛する事ではない
自分に快と樂を贈る主人が自分自身である人は
そうして
ある事で
誰かと
信頼を共に
構築しましょう
と
自立しようとしません
自力
自助という事の
本質を
知らないと
本末転倒になる
のは当然だ
SELFHELPというのは
善徳を自分自身で
研究し
観察し知る事です
第一義は
義とは
正しく善い事ですので
それを正義者として自分に自惚れている者は
全部
不正でも
自分こそいいなら
自分自身を尺度にしてしまうので
不正でも
正として
安易に自己を正義者として
みなに露見するのです
決して間違わないのは自分だ
と信じ切っているからですし
そこが
恐怖なのです
謙虚にして
自分の過ちを
知る事を
究明理しないのですから
いつまでも
必要作業を拒否するのは
正に怠惰です
それは
SELFHELPを
拒否しているのですから
おおいなるわがあやまち
メアクルパですよ
MEA CULPA