大学周辺地域  ジェイムズ・カーチス・ヘボン ヘップバーンですね、脳外科の医師 | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

大学周辺地域  ジェイムズ・カーチス・ヘボン ヘップバーンですね、脳外科の医師

明治学院大学が地域×大学を考える公開セミナーを開催、フィジカルとバーチャルから選べるハイブリッド形式で (msn.com)

 

『本セミナーでは「地域」という言葉を「大学周辺地域」という範囲に絞り、本学で地域との関わりを大切にしてきた名誉教授をはじめとする講師陣が登壇します。「グローバルからローカルへ―深まる危機の中の大学―」や「地域社会課題の解決に於ける大学の可能性―外部ステークホルダーの視点から―」など、地域と大学のつながりを探る実践的なテーマで話題を深めていきます』

 

TENDのサイト記事から参照。以上。

 

学長・副学長からのメッセージ | 明治学院大学 “Do for Others” (meijigakuin.ac.jp)

 

 

 

 

 

 

J.C.ヘボン – 明治学院歴史資料館 (meijigakuin.jp)

J.C.Hepburn(1815.3.13-1911.9.21)

東洋伝道の志~その思いは消えることなく
ヘボン(James Curtis Hepburn)は1815年3月13日、米国ペンシルベニア州ミルトンに生れました。ヘボンは両親の厚い信仰の内に成長し、プリンストン大学卒業後、ペンシルベニア大学で医学を学びました。その中で「いつか外国伝道をしたい」との思い抱くのですが、両親から反対されるという苦悶の日々を過ごします。

1838年、ペンシルベニア州ノリスタウンで開業したヘボンは、クララ・メアリー・リートと出会います。クララはヘボンの良き助け手となり、勇気を与え、外国伝道の志を分ち合いました。外国伝道の志を共鳴した二人は1840年に結婚しました。

二人は早速、外国伝道の申し込みを行い、1841年、医療宣教師として中国のアモイに派遣されて医療伝道に従事しました。しかし1845年、クララの病気のため帰国を余儀なくされました。帰国後はニューヨークで開業し、ヘボンは名医としての評価を得て、開業医として成功をおさめました。ニューヨークでの開業13年の間に、富と名声を得ましたが、その間も外国伝道の志が消えたわけではありませんでした。

1858年暮れ、日米修好通商条約締結のニュースを聞くと、ヘボンは北米長老ミッション本部に医療宣教師として日本への派遣を申し出ます。1859年1月、派遣許可を得たヘボンは、老父と息子サムエルを知人に託し、クララを伴い1859年4月24日、日本に向けて出帆しました。時にヘボン44歳、クララ41歳でした。

日本での生活の始まり~「コレハナンデスカ」
1859(安政6)年10月17日、神奈川沖に到着、翌18日上陸し、神奈川宿にあった成仏寺本堂に居を構えました。寺院がヘボンとクララの住まい、また礼拝の場となり、1862(文久2)年、横浜居留地※1)39番に転居するまでの約3年間、ここが活動の拠点となりました。ヘボンは「コレハナンデスカ」を何度も質問し、日本語習得と日本語蒐集に務めました。この積み重ねが、後年の辞書編纂の素地となりました。