藤家  良房さんと 清和水尾帝   | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

藤家  良房さんと 清和水尾帝  



あきらけいこ

さん

 

良房さんの娘

 

 

 

子は

 

文徳天皇が東宮の頃に、良房の娘の明子(あきらけいこ)が入内しており、ちょうど天皇即位の年の3月に第四皇子(惟仁親王、後の清和天皇)を産んだ。惟仁親王は11月に、生後8カ月で3人の兄を押しのけ立太子した。天皇は更衣の紀静子所生の第一皇子の惟喬親王を鍾愛し期待したが、良房の圧力で惟仁を皇太子とせざるを得なかった。


文徳天皇 - Wikipedia
文徳天皇(もんとくてんのう、旧字体:文󠄁德天皇、827年〈天長4年8月〉- 858年10月7日〈天安2年8月27日〉)は、日本の第55代天皇(在位:850年5月4日〈嘉祥3年3月19日〉- 858年10月7日〈天安2年8月27日〉)。諱は道康(みちやす)。田邑帝とも。

仁明天皇の第一皇子。母は左大臣の藤原冬嗣の娘の順子。

来歴
承和9年(842年)、承和の変で皇太子の恒貞親王が廃されると、変の解決に功のあった伯父の藤原良房にも推されて代わりに立太子し、嘉祥3年(850年)3月19日仁明天皇の譲位により践祚。

こうした経緯も含め、藤原良房は仁明朝期頃から次第に権勢を強めた。文徳天皇が東宮の頃に、良房の娘の明子(あきらけいこ)が入内しており、ちょうど天皇即位の年の3月に第四皇子(惟仁親王、後の清和天皇)を産んだ。惟仁親王は11月に、生後8カ月で3人の兄を押しのけ立太子した。天皇は更衣の紀静子所生の第一皇子の惟喬親王を鍾愛し期待したが、良房の圧力で惟仁を皇太子とせざるを得なかった。

しかしその後も天皇と良房の暗闘は続き、良房の圧力の前に大内裏の東部にある東宮雅院や、嵯峨上皇の後院だった冷然院などに居住して、遂に一度も内裏正殿を居住の間として生活を送ることはなかった。また、天皇自身も病弱で朝廷の会議や節会に出る事も少なかった。9世紀後半における摂関政治や陣定の成立など、朝廷の政務における「天皇の不在化」の原因を文徳天皇期の天皇不在が影響しているとする説もある[1]。

やがて天皇は惟喬親王の立太子を条件に惟仁親王への譲位を図るが、惟喬親王の身に危機が及ぶ事を恐れた左大臣の源信の諫言で取り止めとなった。

かかる状況下で、天安2年(858年)8月に突然の病で急死する。宝算32。通説では死因は脳卒中といわれている。

藤原良房 - Wikipedia

 

 

 

清和朝:人臣初めての摂政へ
天安2年(858年)に文徳天皇が死去し、良房の外孫・惟仁親王が9歳で即位する(清和天皇)。『公卿補任』ではこの時に摂政に就任して貞観6年(864年)に清和天皇の元服と共に摂政を退いたとするが、正史である『日本三代実録』の清和天皇即位の記事には摂政に関する記述がないことから、良房は太政大臣として天皇を後見したと考えられている。なお、太政大臣の職掌は太政官の政務のすべてに及んでいたが、令の規定は具体性を欠いていた。太政大臣の職掌の具体化として、後世に摂政の職務とされた権限を行使していたものと見られる。両者の職掌が明確に分離されたのは次代の基経の時代である[注釈 1]。清和天皇は幼少期に良房の邸宅で育てられたので、良房を終始篤く信任していた。

清和天皇即位の翌月の12月には、朝廷が特に尊重し、年末に荷前の使を派遣して奉幣する十陵四墓が定められる[16]。また、貞観2年(860年)には九州の宇佐から八幡神を山城国男山に勧請して石清水八幡宮を創祀しているが、いずれも良房が幼帝である清和天皇の権威付けを意識して行った施策と想定される[17]。また、貞観5年(863年)には神泉苑を利用して史上初めて朝廷主催で御霊会を開催した[18]。これは、かつて政争に敗れて不慮の死を遂げた早良親王・伊予親王・藤原吉子・藤原仲成・橘逸勢・文室宮田麻呂の6人の霊の慰撫により、疫病(咳逆病)を鎮めることを目的としたイベントであるが、これら6名はいずれも清和天皇の近祖に関わる者であったことから、これも清和天皇の存在感に重みを増すための演出とも考えられる[19]。

貞観6年(864年)冬に良房は大病を患って政務を退いたとみられ[20]、その間に太皇太后・藤原順子、その信任を得ている右大臣・藤原良相、太皇太后宮大夫を兼ねる大納言・伴善男の三者連合が政権中枢を牛耳っていたとみられる[21]。一方で、左大臣源信・中納言源融・右兵衛督源勤らの兄弟が謀叛を謀っているとの投書があり、信と対立していた大納言・伴善男はあからさまに讒言するなど、政情は不安定な状況にあった[22]。翌貞観7年(865年)秋までに良房は回復し政務に復帰する。なお、良房の意志によるものか、清和天皇は即位後も内裏(仁寿殿)に入らず東宮に居住していたが、良房が病に伏した上に内裏に天皇不在という二重の異常事態に良房も危機感を覚えたらしく、同年11月に清和天皇は初めて内裏に移っている[23]。貞観8年(866年)3月に藤原良相の西三条第(百花亭)に清和天皇が行幸して、40人もの文人を参加させた詩会を伴う大規模な花見の宴が開催される[24]。これに対して、閏3月には良房の染殿第にて天皇の行幸を伴う観桜宴が競うように開催された[25]。先の投書事件が良房の不在を狙って起こされた可能性があり、良房が良相に対して俄に警戒心を強めたと想定されるが、ここで競うように天皇を招待しての観桜会が行われ、両者の亀裂が決定的なものとなる[26]。

この状況の中で、貞観8年(866年)閏3月に応天門が焼失する。右大臣・藤原良相と大納言・伴善男が左大臣・源信に応天門放火の嫌疑をかけた。しかし、これを知った良房が清和天皇に奏聞した結果、勅によって慰諭の遣使が行われて源信の嫌疑は晴れた[27]。その後8月になって、大宅鷹取が応天門放火犯として伴善男を告発したため、伴善男に対する訊問が行われるが、この最中に清和天皇は良房に「摂行天下之政(天下の政(まつりごと)を摂行せしむ)」とする摂政の詔を与えた。これが人臣最初の摂政である。その後、事件の犯人として伴善男が失脚し、藤原良相は連座を逃れたものの政治的影響力を失った(応天門の変)。同年12月には数度に亘る致仕の上表を行った藤原良相を横目に[28]、養子・藤原基経の妹の高子を清和天皇に入内させている[29]。

良房は晩年に法制の整備と修史編纂に力を注ぎ[30]、『貞観格式』を公布させるとともに(格は貞観11年(869年)、式は貞観13年(871年)に公布)、仁明天皇の一代のみを対象とした『続日本後紀』を貞観11年(869年)に完成させている。

貞観13年(871年)准三宮を宣下される。貞観14年(872年)年初から流行していた咳逆病に良房も罹患して重症に陥ったとみられ、2月半ば、宮中に与えられていた宿廬を退出して自邸に移る[31]。しかし、良房の体調は回復せず、清和天皇から度者80人が下賜されるなどしたが効果はなく[32]、同年9月2日死去。享年69。没後正一位を追贈され、忠仁公と諡された。

官歴
注記のないものは『六国史』による。

弘仁14年(823年) 日付不詳:嵯峨天皇皇女の源潔姫と結婚[33]
天長3年(826年) 1月:蔵人[34]。2月:中判事[34]
時期不詳:正六位上
天長5年(828年) 1月7日:従五位下。閏3月9日:大学頭[34]
天長7年(830年) 5月:春宮亮(皇太子は正良親王)[34]。11月:兼越中権守[34]。閏12月:兼加賀守[34]
天長10年(833年)2月30日:兼左近衛権少将。2月:蔵人頭[34]。8月8日:正五位下。11月1日:兼左近衛権中将。11月18日:従四位下
承和元年(834年) 7月9日:参議。左近衛権中将如元[34]
承和2年(835年) 1月7日:従四位上。4月7日:従三位。権中納言。4月16日:兼左兵衛督
承和6年(839年) 1月11日:兼陸奥出羽按察使
承和7年(840年) 8月8日:中納言
承和9年(842年) 1月7日:正三位。7月11日:兼右近衛大将。7月25日:大納言。8月11日:兼民部卿
承和15年(848年) 1月10日:右大臣。右近衛大将如元
嘉祥2年(849年) 1月7日:従二位
嘉祥4年(851年) 11月7日:正二位
仁寿4年(854年) 8月28日:左近衛大将
斉衡4年(857年) 2月19日:太政大臣。4月19日:従一位
貞観8年(866年) 8月19日:摂政
貞観13年(871年) 4月10日:准三宮
貞観14年(872年) 9月2日:薨御。9月4日:贈正一位
系譜
父:藤原冬嗣
母:藤原美都子(藤原真作の娘)または大庭王の娘
妻:源潔姫(嵯峨天皇の娘)(810-856)
女子:藤原明子(828-900) - 文徳天皇女御
養子:藤原基経(836-891) - 兄・藤原長良の三男
生母について
藤原良房の生母については通説では藤原美都子とされるが、請田正幸は以下の点から藤原良世の生母でもある大庭王の娘が正しいとする説を唱える。

『公卿補任』の天長11年条の良房の項目において良房の母は大庭王の娘と記され、異説として藤原美都子が追記されている。また、『尊卑分脈』においても、良房の欄では母は藤原美都子とされている一方で、良世の欄では大庭王の女、忠仁公(良房)同母、と矛盾した内容になっている。
良世が著した『興福寺縁起』の長講会の部分において良房が両親の為に長講会を始めたとある。この中で良世は自分が続けなければならないところ高齢で無理なため寺領を寄付した事、また順子が先考(亡父・冬嗣)の為に寄進したことが記されているが、これは良房の母親は良世とは同じであるが順子とは違う事を意味する(順子は父親のみを供養の対象としているため)。また、先妣(亡母)は尚侍正二位に叙せられたとあるが、美都子は没後の贈位で従三位から正一位になっているので二位に叙せられた事実はない。
良房・清和天皇共に舎人親王系王氏ゆかりの宗像神を特に信仰していたが、これは良房の母方が王氏であった事を示す傍証となる。
なお、請田は良房の母に関する系図の改竄は藤原摂関家がその始祖と言うべき良房と自分達の血縁上の祖である美都子所生の長良(基経の実父)が異母兄弟である事実を不都合と捉えた事によるものであり、『大鏡』が編纂された11世紀には行われていたとする。また、請田説を取ると、良房と良相及び文徳天皇(順子所生)との対立の背景の1つとして良房と彼らの血縁的結びつきの弱さがあり、それが良房をして外孫である清和天皇の即位を推し進める一因になったと解される[35]。