自分たちとは違う者 ウエールズ ケルトブリトンBrito Anglo Sax Nord
自分たちとは違う者 ウエールズ ケルトブリトンBrito Anglo Sax Nord
迎合するか
しないか
調和するかしないか
融合するかしないか
独立を尊重し
同時存在を
維持する
仕組みを
明確に構築するかどうか
その意味の
包括SYSTEMを
形成し
構築した制度を
維持するかどうか
誰かシンボリックな統合者がいるを選択するかどうか
Idol
または
神命への
拝命を
あらゆる人々の
身代わりになる者を
選択し
奉献するかどうか
大祭司とか
神官の長とか
王の家族や
それ以外のみな家臣の家族も
含めて
身代わに磯そきます
拭い去る罪穢れ汚物の
役目を
背負う
担う
主体
としての
祭司
司祭
犠牲
生贄
それを
選ばれた動物にしている場合は
その生贄としての
動物に
全て
ぬたくるんです
から
悪食を
悪事を
全くの
タールのような
わろしこと
を
全部
人々の
隈なく
拭い去る事
で
雪よりも真白に
光よに
してもらえるという
仕事です
それを
使命とする
MISSION
目的の事は
狙いは
あらゆる人の
悪からの
救い出しです
から
善徳であるその者を
贈り物として
全て
プレゼントにしてしまうこと
それぞれに
個別に
最高善の贈り物と云う事
それこそ
大祭司の中の大祭司ですと
いっている
次第
であるのは
父が
その子
一人っコを
地上にいる
人々に
それぞれ
贈り物としたから
そうなった
という
単純素朴な
明快の解答なのです
全く
謎の神秘などありえない
という次第
言は人になったから
そうだというだけ
言とは
LOGOSで
父の口からふ――と吐かれた
一言で
それは
マリアの意向で
受け止めて
胎内に
下り
肉を纏う
小さな
小さな
肉体の
0.1mmの
肉です
それは
正に
全智
全能
全善が
人そのものになった瞬間でした
と云う事
成長し
子
オトナとなって
世に出た
家から
30歳の時です
つまり
29才までは
家にいて
Josephと
Mariaと
共にいて
Josephの仕事は
家具をつくりこさえる
オーダーメイドの職人です
それを
Nazarethのイエシュアもして
日銭を稼ぐ事で生きていた
寸法を測るのは
その家の主人からの依頼で
その家にあった
適応した
家具です
数学をしり
計算し
IMAGEした
カタチに
具体化できる
能力を
養う事は
技法
技能
技術
ART
そのものですね
それは
神と言われているが
全智全能者が
なぜ
わざわざ
制約ある能力のままに
いきることを
体験したのか
という質問があるのです
神は人を
無から
素材を複数活用して
製造した
クリエイトしたのです
からという理由です
泥
土から
人を
Adam
アダマ
として
誕生させた
生んだ
地上に
ふーーと息を吹きつけて
生きる事になる
Adamは
一人では不足しているので
管理者として
楽園の仕事ですよ
その適切な管理人を
もう一人
用意したのは
やはり
父
子
霊
三方
Adamを眠らせて
右の脇の
骨と肉を
ほんの少しだけ採取して
女
EVE
を
形成した
誕生させた
故に
Adamは
これは
わたしの骨の骨だと
いい
肉の肉だといった次第だ
そこに
イッシュ
イシャア
おのこ
おなこ
として
男女の人が
登場する
次第だ
歴史
異邦人の国
ウェールズには先史時代からケルト系のブリトン人(キムリ人)の小部族が分立していたが,1世紀後半以後ローマの支配下に入った。5世紀初めローマの支配が終わると,再び分立に立ち返り,北部のグウィネッズ,中東部のポーイズ,南西部のディベッドなどの王国が有力となった。5世紀半ばに始まるアングロ・サクソン人のブリタニア侵入によって,イングランドの地のブリトン人はその支配下に入ったが,ウェールズのブリトン人は天険の地形を利して自立を保持した。〈ウェールズ人(ウェルシュWelsh)〉とは,古英語で〈異邦人〉を意味する。かつてはブリタニアの支配者であったブリトン人は,イギリス人(アングロ・サクソン人)に圧せられてウェールズの地に押しこめられ,よそ者と呼ばれるにいたったのである。以後のウェールズの歴史は,イングランドとの絶えざる闘争のうちに,しだいに自立を失っていく歴史である。
7世紀前半グウィネッズの王カドワロンは,当時アングロ・サクソンの七王国に覇をとなえていたノーサンブリアを撃破して威を示したが,彼はまもなく敗死し,ウェールズ人のブリタニア回復の望みは断たれた。8世紀後半にはイングランドのマーシア王オファは,ほぼ今日のウェールズ国境に長大な土塁を築いてウェールズ人の反撃を封じた。9~10世紀のウェールズでは全海岸にわたってバイキングの略奪が行われたが,この外圧も一因となって,グウィネッズを中心に分立小王国間に統合の気運が生じた。9世紀半ば,大王と称されたロードリは,北部および中部ウェールズを統一,イングランドと戦って譲らず,バイキングをも撃破した。このことはウェールズ人の民族意識の高揚をもたらし,いくつかの英雄詩が成文化され,またブリトン人の起源をローマから古代のトロイアに求める壮大な建国伝説が成立した。
しかし9世紀末以降,イングランドがアルフレッド大王およびその後継諸王のもとで統一されたことは,ウェールズに大打撃を与えた。ウェールズの諸首長は相次いでイングランド王を宗主と仰ぎ,その下風に立つにいたった。この中で10世紀前半親イングランド政策をとってウェールズの安定をはかり,慣習法の成文化を行ったヒウェル・ザが著名である。10世紀末からバイキングの攻撃は再び激しくなり,ウェールズは甚だしく荒廃したが,11世紀半ばグウィネッズ王グリフィズは,イングランド王エドワード懺悔王時代の混乱に乗じて,再三にわたってイングランド軍を破り,オファの塁壁をこえて東方に領土を拡大したが,彼も結局敗死した。
ノルマン・コンクエスト以後
1066年の〈ノルマン・コンクエスト〉によりイングランドを征服した後,ウィリアム1世はウェールズ国境に三つの辺境伯をおいてウェールズに侵入した。しかしウェールズ諸首長はやがて反撃に転じ,イングランドのスティーブン王時代の内乱に乗じて自立を回復した。続く12世紀後半ヘンリー2世時代にもしばしば反乱をおこしてイングランドを悩ませた。しかし1170年ころからヘンリー2世はアイルランド征服に着手するため対ウェールズ懐柔策に転じ,南ウェールズの首長リースに率いられた諸首長は,イングランドとの友好関係に入ることになった。
13世紀に入ると,大首長と称されたルーウェリン・アープ・イオーワースがウェールズの大半を勢力下に収め,イングランドのジョン王およびヘンリー3世を悩ませたが,13世紀半ばその庶子グリフィズの子ルーウェリン・アープ・グリフィズが台頭,イングランドの内紛を機にウェールズ全土に覇権を樹立し,はじめて〈プリンス・オブ・ウェールズ〉を称した。彼はしばしばイングランドを脅かしたので,ヘンリー3世をついだエドワード1世は1277年および82年の再度にわたってルーウェリンを討伐,ついに彼を敗死させ,ウェールズ各地の反乱を鎮定して全土を支配下に収めた。ここにウェールズの自立の歴史は幕を閉じ,その主権を象徴する〈プリンス・オブ・ウェールズ〉の称は,エドワード1世の長子エドワード(後のエドワード2世)に与えられた。
ウェールズではその後もしばしば独立回復を求める反乱がおこったが,チューダー朝の始祖ヘンリー7世がウェールズ人の血統をひき,かつ彼がボズワースの戦で対立者のリチャード3世を敗死させて即位したとき,多数のウェールズ人の援助を受けたこともあって,ウェールズ人はチューダー朝諸王を単にイングランドだけでなく,みずからの王と認め,ここにイングランドとウェールズの関係は好転した。そして次のヘンリー8世時代の1536年〈合同法〉により,ウェールズにイングランドと同じ法,自治制度,代議制がしかれ,また全土が州に分けられ,法制上はイングランドに合体するにいたった。
執筆者:青山 吉信