マリアという存在は、聖母マリア まーてるでい | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

マリアという存在は、聖母マリア まーてるでい

まーてるでい

 

DEI

TEO

 

てお

でい

同じですよ

 

 

Θ

 

人自身を超えている

スーパー

SUPERUME

 

人は決して

人を超えたりできないです

弱いから

 

それを嫌うから

人は

神のようになりたがるし

神と人を一致したがる

 

それは

人にとってはとても不幸

 

 

 

神のようになりたい

聖なる人だとか

 

どうして

そんな事

あるのでしょう

 

 

聖人と云う事を

 

立証する時に

 

ミラクロ

 

 

医科学では起きない事を

起こした者が

聖人とかいっているけども

 

 

その者の物理の行為は

一体

何かです

 

神に委託し

尽くしたからこそ

 

神自身

行為が

あったというだけです

 

 

ゆえに

 

執り成しの執り成しをしているだけの

使命

役割でしかない

 

そんな

脆弱な者が

なぜ

全智

全善で

全能である事があるか

 

あるは無い

 

そもそも

 

もしも

人が

いうとき

 

神の名前でと

いうが

 

それも

 

全く

信頼の

構築が

神と人の間での

結実として

 

完全である者としてある時に

迎える

至福があるという事ですから

 

 

 

奇跡をどんなに起こしたとしても

 

信頼の形成と

いう

荘厳な行為を

不足するなら

 

その者は

 

神と共にはいないと

実証してしまうので

 

 

見かけだけは

聖人と

いうだけです

 

自分に

だけ

神は

呉れたその権能を

なんでも

自分は使えるんだぞ

なんて

いうのは

おかしい

 

非常に

 

それで

自分をメシアですとか

 

ありえない

 

英雄幻想と

英雄の現象です

 

完全に

 

その者は

自分を神にしたいだけ

 

 

という実証を

自ら

実践してしまっているだけのこと

 

永久に

虚しい

事に

自力で

投資しているだけです

 

念力とか

信念とか

 

不完全な人そのものに

一体何の

完全な思考があるのでしょうか

 

 

必ず

何か不足した

⓪があるのですから

虚無の全体の

中で

 

一部の虚無があるなら

 

完全とは言えない

 

 

確実とは

成果

 

実入り

 

殻の中に

果肉と

果実

 

種子のあることの

丈夫

大丈夫であって

COREの

善である事が

必要十二分の条件なのです

 

 

 

 

それを

全部

必須として

 

可能としてくれるのは

 

人では無い

 

 

神だという事

 

そして

 

あまりにも悲惨だからこそ

人の元に

神は

人になって

降りて来た

しかも

 

人の

 

女性の

胎内に

と云う事だ

 

母をして

子として

 

人として

神は

人の世に

誕生し

 

人自身を体験した

神だという事

 

 

そして

人々から

蹴散らされる

 

唾を吐きかけられた

 

冒涜とはそう云う事です

 

 

罵り

 

馬頭し

 

拒否し

 

たのは

人々

 

ローマの兵士の中でも

 

神が人になったと

知る事を

ゆるされた人は

 

その一言を

宣う事を

希望したので

 

その神人は

 

そうした

 

のでした

 

 

 

実りを

観た

聴いた

味わう事

然りで

 

いまそうなった

実に検証できたのでした

 

報せた

 

報告

 

つげてきたその全ての

集約と総体があることでした

 

 

 

キリスト

イエシュアは

 

メシア

人々をあし事から

吉事に

救い出し

 

扶けて

呉れる方と云う事だが

 

そんなものは要らないと

拒否し

頑なに

廃棄したのです

 

 

 

 

 

慈愛とは

カリタスですので

 

コトバでは

いかようにでも言える

 

吐く事は自由だ

 

 

問題は

実徳は

何ですか

 

口先だけの

愛しなさい

とか

愛しているは

 

簡単

 

いくらでも

嘘をつける

 

操作するために

 

相手を

 

どこまでも

操作し

 

呑み込み

 

全部

その者は

腹に

納めて

同化してしまいたい

欲望の権主

だからです

 

これは

人が

渇いている証拠

 

完全に枯渇しているから

 

仁慈

実徳に

 

でも

 

素直に

実徳者である

者を

 

尊重しようとしない人もいる

そうだ

受け止める事を

拒否する人もいた

 

未だにそうだし

 

 

セレニティ

 

荘厳

しょうごん

とか

 

 

厳しく

対象者を査定したら

可能だ

知る事は

その者は

優しいからこそ

 

おしえてくれるのです

と云う事

 

 

おしえるとは

 

おそわり

 

知識を

別けてくれるのですから

 

 

命令では無い

 

知りたいと

希望したら

 

誠実に善い事を知らせる事が

必要十二分出来る方です

 

論理を

知る事

 

認知の手順を

計る事

 

数字で計算し

 

合理を計算して

成果を出す事です

 

 

なんとなく

感情で

よい

すき

いや

では無いです

 

 

 

 

そこが

 

東洋趣味となるとどうでしょうか

 

 

理知を嫌うのは何故でしょか

 

 

面倒くさい

 

同じ

仲間じゃないか

 

 

偉い者は

搾取しても

ゆるされる

環境は

どうでしょう

 

偉大なる王様が

いても

 

横暴に

その権力を

乱用しまくる

それで

 

治世となると

 

その者自体は

崩壊してしまう

 

みな

バラバラです

結果

幾度もそうしてきた

 

 

 

アジアは

イスラエルもアジアの西です

 

ヨーロッパでは無い

 

 

北の民は

南に下りますし

 

東は西に向かいましたし

西に者は東に向かうし

 

バチカンの貴族のPOPEは

それを認可したし

世界をどんどん

 

神の私物化にしてしまう事をそそのかした

 

それは

 

 

いいことでしたと

いう

司祭もいる

 

どうしてでしょうね

 

 

他者を排斥しておき

 

どこまでも

従えと

命令する

その司祭らが

 

善い行為者でしょうかね

 

おかしい

 

いっていることが

 

 

世界中に

Catholicの聖堂の建築があるが

 

 

ネットワーキングを

もってしているが

 

情報も錯綜している次第だ

 

ほんとに

確実に

個人を知る事をしていないから

 

 

尊重をしようと

努力を

自分自身に

傾ける事をしようとしないなら

 

軽薄な態度で

浅薄な知識でしかない事に

うつつを抜かして

大損してしまう

 

全て

自分から崩壊する

 

既にそうです

 

 

それは

 

個人の存在自体を

無視し

 

全体の自分の組織の成長しか

頭目にないのですから

 

 

 

数でどうの

 

それで

全く

 

頓珍漢です

 

確実な果実を

与える仕事を

自分から放棄して

 

悦ぶのは

どうかな

 

 

と云う事だ

 

 

聖体というのは

 

神自身といっているのに

 

聖体自体は

ないがしろにして

いる

者もあるし

 

ある者は

嘘をついて

司祭を名乗りまくり

 

聖体を

與ているが

それもまた

 

不正だ

 

全く

効果は無いのです

 

しかし

 

確実に

信頼のある

神人に

信頼を完全に構築している者が

 

あわれみを共にする時は

違います

 

その状態は

 

執り成いの執り成しの役目ですので

 

何を重点にして

尊重するか

という

内的意図が

明白

 

誰にも知れない事

秘匿の

正に

神秘

闇の内に

 

光の灯が

 

灯される時ですので

 

その光こそ

 

Nazarethのイエシュア自身だから

油は

マリアが常に用意するのです

 

 

その灯の無い

者は

マリアに依願したら

全てよろしい

という理屈が成立する

 

そもそも

 

マリアこそ

 

われは

主のはしためなり

 

主の言の

我が身になれかし

アメンと

 

そうして

事を吐いた

事実だと

そうして

そうなった

 

しかも

 

三日で

また生きる事を

観た

聴いた

検証した

 

イエシュアとは

こういう人物で

神であったと

 

実証したのは

12人

マリア自身です

 

 

 

全部

ことごとく

疑い切る事をしたら

 

はっきりする

 

 

 

そうだとなるか

 

そうだ

ではないと

なるか

 

理論

論理

LOGO

はじめに

知り尽くしている必要がある

からこそ

学習の必要がある

スコラ

STUDY

シューレ

です

 

 

今までの

知識を

検分を

見聞を

 

事実を

 

情報を

 

ことごとく

うけとめて

検証

再度自分で

成す事こそ

ワーキングなのですから

 

行為として

自分で

ウイル

自由に選択する事を

許可されている

誰も邪魔をする者はいません

 

支障は⓪なのです

 

怠惰こそ

大罪の一つ

 

ワーキングを

怠る事で

知らないと

 

それを当然というなら

 

もう

手の施す

意義も無いと

いう事で

 

自分から

そのまま

 

放置している

ネグレクトと云うだけの事を

自分に招いて

 

悩み

悔やみ

最期は

歯噛みを

永久にしてしまう

それを

 

自分で選択する

 

もう疲れたというなら

 

やすませてあげよう

Nazarethのイエシュアは

自分で自分を証明したですし

 

 

信頼とは

疑いの全部を

通過してこそ

 

その者の根拠が

如実に

露見

正に

 

磐のように

天晒しとして

 

人々に

晒しモノとして

ある事ですから

 

いきたけても

 

勇敢な振りでも

英雄のような

人気者でも無いのです

 

 

 

わざわざ人から

見下しを

醸す事をして

その者を

証明した

その

狡猾な意図はどうですか

 

自分を自惚れに

導くために

 

他人さまと

という道具として

 

生きる事を

選択しても

 

神さまは

悦ぶなどしません

 

 

自分を

目立ち

自惚れにして

 

何を

得たいのか

 

ほめてほしいという

願望は

 

父とか

母に

むけた

怨み

です

 

そうして

 

他人をどこまでも

利用し

自分がいいこだと

言いたいわけだし

 

その魂胆は

 

正に

 

枯れている

枯渇した

その

状態の

実証なのです

 

ゆえに

その者は

自分で自分に

気が付くをしないなら

いつまでも

自分にある

MINDのIMAGEによる

工作した

IDEAのIDOL

に愛して

恋して

酔うだけ

 

永久にそうして

ありたいと

希望するでしょう

 

 

闇はそこにあるという事

 

そもそも

不完全な者が

なぜ

光など成るか

ありないのです

 

 

生を

蔑ろにして

 

侮辱しておきながら

自分こそ聖なる司祭だとか

 

どこまでも自分自身を信じ込むのは

 

あまりにも

稚拙な

幼稚な

MIND形成で

終始している

いうしかない

 

おさなこ

という

アンファントの

イエシュアと云う事の

おさなこでは

とても

同意は

不可で

 

父の子

 

子が

父に

語るその

祈る

中身は

一体

何でしょうね

 

自分をほめてほしいなんて

祈るのでしょうか?

 

 

 

 

 

南山堂

南海ぷたらか安居