環境の資質な資料に資源のそれぞれに適当な応対は必要だが、適応する義務も責任も無いね、となる次第、 | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

環境の資質な資料に資源のそれぞれに適当な応対は必要だが、適応する義務も責任も無いね、となる次第、

じつは誤解されているスペンサーの「社会進化論」…意外と知らない、スペンサーが唱えた社会進化論の概念(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

 

 

 

『徹底した自由と個人主義を重視するスペンサーは、「いかなる個人も、他者の平等な自由を侵害しない限り、意図することをすべて行う自由を持つ」(1851年)と記し、他者の自由を侵害しない限り、各人のあらゆる自由を尊重しようとする、現代のリバタリアニズムの源流とされる。  スペンサーは競争の意義を否定しなかったが、それは競争が個人の向上心を刺激するからである。競争を通じた個人の努力と切磋琢磨が、資質の向上と社会全体の利益をもたらすのである。互いの競争で得られた資質の向上は次世代に遺伝するので、互いの利益になり、社会を発展させ、最後に平和的な共存を生むと考えたのだ。  従ってスペンサーの考える競争は、適者生存ではない。彼の想定する「進化した社会と人間」とは、協調的で利他性を重んじる社会とそれに適合した者の意味だった。その進歩のプロセスは、各人の努力によって未来に全員が最大の幸福を享受する理想的な社会が実現するという、楽天的な、ある意味ユートピア思想に基づくものだったのである。  しかし、そのプロセスは、こうした実際の想定と無関係に、適者生存、の言葉で呼ばれるようになったため、誤解されていつしかマルサス的な生存闘争の意味に捉えられるようになったのだと思われる。』

 

 

以上は現代ビジネスのサイト参照

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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至福とは状態そのものだし

空腹は無い

永久に

常に

肉体も霊魂も活き活きして

若々しい

 

それを

保持できる

糧を得る事を

許可されている次第と

いう

理想の街の住人と云う事

 

 

 

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知る事とは

最悪である事も知る必要がある

善の完全な欠如は

いったいどういう状態を保持するのか

 

苦々しいとか

苦痛とは

本質は何?

 

 

 

クオ

 

自己存在の許可を

否定する事だ

 

自分の存在を消して欲しいと

どこまでも欲望の権現となること

 

要らない

こんな自分は

存在自体

要らない

 

存在していたくないんだと

 

消して欲しい

はじめからおわり

 

全部

 

記憶を消す事ではない

存在と肉体と

その情報の全部を

抹消して欲しいと

いう

事だ

 

 

自分を要らないと望む人

どこまでも

 

どんなにあなたと

ともに

このわたいがいるではないかと

事白事をしても

 

いちいちくるさい

 

そんなこと

いうな

 

もういい

要らない

自分を消せ!

 

この自分を存在は不要だ

消せと

そうして

どこまでも野犬のように

吠えて

 

どこまでも猪のように噛みつくのです

 

真珠を与えている者に

 

 

そう云う事

 

であるからそれは

許可されて

ゆるします

 

となる事は

無いのです

 

なぜか

 

父は

子を産みだしたのは

全部の子に示す事だから

どこまでも

仁慈を持っている事の

確実な証明品だから

晒しモノになったのです

 

それは

苦杯であった

全身の真っ白な

白いリネンの衣服は

 

ころも

血の汗で

赤染した

 

 

 

 

次に

紫を着せられて

荊で編んだ

冠の王冠と

 

蒲の穂先の

王権の印として

 

 

ハイル

ローマの軍人から

揶揄され

 

彼らは

口から

唾を

吐いた

イエシュアの顔面に

 

 

そして

大笑いし

 

ユダヤ人の王様と

 

ひざまつきました

 

 

馬鹿にして

ローマ人は

イスラエルのユダヤ人たちを

みな束縛し

ローマの皇帝に

かしつかせたいからです

 

 

 

 

ローマとは

其の後

 

ペトロと呼ばれたヨナの子のシモン

頑固の頑固者

 

ローマ人をどうしても

愛する事をしたくない

 

あいつらは

穢れているからと

いって

 

一緒にいる事を拒否する

 

そこで

イエシュアは

全部そのあけなるこころを証明したのです

更に

 

 

メアクルパ

メアクルパ

マクシ

メアクルパと

公言したのに

かかわらず

 

まだ

彼は

気が付かない

使徒だった

故に

 

キャプテンに使命されているのです

 

そもそも

 

全部善の無かった

どこまでも

貧しい者としての

ペトロ

砂粒の壱個だから

 

偉大な聖人とかではないのです

 

どうして

そうして

理想を

人に押し付けるか

 

あのような者として

英雄幻想を

 

人々がつくりあげてしまうのでしょうね

 

 

パウロもそうだ

 

 

地上の権威が

如何に

人々に

 

魅力的か

 

生きている期間

 

他人よりも

より

よい

状態を

得たいからですかね

 

見栄まくりで

 

 

見栄を振りまくからね

 

おかしなことだけども

愚かしい

とても

愚かしい

 

 

しかも

かつての行為をすっかり

わすれて

ごまかしてしまうしね

 

 

それは

人なんだと

いうことだ

 

 

南山堂

 

蓮艸艸院