yukinoyamanofurukotomo | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

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感情とか気分とか

 

こうごうしい

というのは

 

 

見た目

のIMAGE

相手の事

 

神々しい

くすしき

というのは

そのままですよ

 

 

人自身が

自然を

生産したのではないのですから

そうなるのは

当然だ

 

 

崇高な

その高峰

 

 

そもそも

高山に

昇るのなど

誰かするかです

 

拝み

ます

となる

 

 

 

正に

山に

神の座する場所と

いう事だし

太陽が昇る先山だし

 

なぜ

そのトップを

制覇するのか

いう事だ

 

 

そもそも

 

 

それは

登山

 

神が示す狭き道を歩む道行と

いうことで

アジアのその

カルメルの登攀

 

 

 

 

よじ登る。唐・李白〔太白峰に登る〕詩 西のかた太白峰に上る 夕陽、登攀を窮む

登攀(トウハン)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

 

古代の日本人はなにを考えていたのか…最古の歌集に隠された「驚きの秘密」 (msn.com)

 

『高橋虫麻呂に次のような歌がある。「富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もて消ち 降る雪を 火もて消ちつつ 言ひも得ず 名付けも知らず くすしくも います神かも」(長歌の一部、巻三・三一九)。富士の高い山は、雲も進むことをためらい、鳥も飛び上がることができず、燃える火を雪で消し、降る雪を火で消してしまうような、ことばで言い表すことも、名付けることもできない、霊妙な神であるという意味であるが、ここでは「くすし(奇し)」、つまり人間にははかりしれないという意味のことばで神が形容され、富士の美しさが表現されている。古代の人々は自然のなかに美しさとともに、神威とも言うべきものを認め、畏れ、敬ってきた。それに祈りをささげてきたと言ってもよい。このように自然は詩歌のなかで、くり返し共感の対象として、あるいは畏怖の対象として詠われてきたのであるが、哲学のなかではそれはどのように論じられてきたであろうか。さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。』

 

 

『日本では人々は自然の威力に対処するために、経験から必要な知識を集め、蓄積していった。そのことによって多くの恩恵を享受してきた。しかし自然を科学的な方法で分析し、普遍的な法則を発見することはしなかった。自然は分析の、あるいは研究の対象ではなかったのである。それは言いかえれば、観察され、分析される「自然」(nature)が生まれなかったということである。人間とともにある山川草木は存在したが、自然科学の対象となる「自然」は存在しなかった。人々はむしろそれと一体になって生きてきた。自然は分析ではなく、共感の対象であった。あるいは畏怖の対象であった。』