西暦700年代の人々  ::::百済滅亡の西暦660年をMEDIAにして観察するとどうなるかな | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

西暦700年代の人々  ::::百済滅亡の西暦660年をMEDIAにして観察するとどうなるかな


西暦700年代の人々  ::::百済滅亡の西暦660年をMEDIAにして観察するとどうなるかな

 

 

新羅は統一を成すが

其の後

 

 

 

高句麗

 




宝蔵王 - Wikipedia

宝蔵王(ほうぞうおう、生年不詳 - 682年)は、高句麗の第28代・最後の王(在位:642年 - 668年)。姓は高、諱は臧、または寶臧[1]。先代の栄留王の弟の大陽王の子で、642年に栄留王を弑逆した淵蓋蘇文によって王位に即けられた。彼を最後に高句麗は滅亡したため諡されず、諱のまま宝蔵王と呼ばれる。子には、男福・徳男・任武・徳武・連などの名が文献にみられる。

治世
政変を起こして権力を握った淵蓋蘇文によって王に擁立されたので、王としての実権を持つことはできなかった。在位中には天災地変が頻繁に起こり、淵蓋蘇文の主張によって道教振興策を実施した。

唐と結んだ新羅とは敵対関係が続いていたが、百済とは緊密な関係を維持した(麗済同盟)。唐の高句麗出兵でははじめのうちは善戦し、太宗が親征した第1次侵攻は撃退した。しかし高宗の代になって唐が戦略を持久戦に転換すると国力の消耗が著しくなり、その結果として離反や内紛が相次いだ。660年に百済が唐に滅ぼされると、新羅と唐が後背からも攻め寄せる形となった。

666年の淵蓋蘇文の死後にその三子の後継争いが生じ、淵男生一派は唐に投降しその先鋒となった。淵蓋蘇文の弟の淵浄土は新羅に投降した。こうして668年の第3次侵攻で平壌長安城を落とされ、ここに高句麗は滅亡した。宝蔵王は唐に投降して長安に連行されたが、政治の責任は王になかったとして処刑されることはなく、唐から司平大常伯・員外同正に任命された。

高句麗滅亡後
その後唐が朝鮮半島の経営を放棄せざるを得なくなると、これに伴って遼東地域には動揺が生じた。そこで唐はこれを抑えるために677年に宝蔵王を遼東州都督・朝鮮王に任じて遼東に帰らせた。ところが宝蔵王は唐の意に反して高句麗流民を糾合し、靺鞨と内通して高句麗復興を図った。これが発覚すると681年に邛州(現在の四川省成都市邛崍市)に流され、682年頃死去したと見られる。高宗は詔して宝蔵王の遺体を首都長安に送らせ、突厥の頡利可汗の墓のそばに葬らせた。





白村江の戦い - Wikipedia

唐による新羅冊封
新羅は、627年に百済から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。しかし、高句麗と百済が唐と敵対したことで、唐は新羅を冊封国として支援する情勢となった。また、善徳女王(632年〜647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は、積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(〜661年)として即位すると、たびたび朝見して唐への忠誠心を示した。648年頃から唐による百済侵攻が画策されていた[9]。649年、新羅は金春秋に代わって金多遂を倭国へ派遣している。

百済の情勢
百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済義慈王は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた[10]。656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠(浄忠)が投獄され獄死した。日本書紀でもこのような百済の退廃について「この禍を招けり」と記している[11]。657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる[12]。このような百済の情勢について唐は既に643年9月には「海の険を負い、兵械を修さず。男女分離し相い宴聚(えんしゅう)するを好む」(『冊府元亀』)として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた[12]。

659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年「国家来年必ず海東の政あらん。汝ら倭客東に帰ることを得ず」として倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した[12]。

倭国の情勢
この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、警戒感が高まった。大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出て来たことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝(唐)と百済との間で二者択一を迫られることになる。この時期の外交政策については、「一貫した親百済路線説」「孝徳天皇=親百済派、中大兄皇子=親唐・新羅派」「孝徳天皇=親唐・新羅派、中大兄皇子=親百済派」など、歴史学者でも意見が分かれている。

新羅征討進言
白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが、採用されなかった。

遣唐使
白雉4年(653年)・白雉5年(654年)と2年連続で遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。

蝦夷・粛慎討伐
斉明天皇の時代になると北方征伐が計画され、越国守阿倍比羅夫は658年(斉明天皇4年)4月、659年3月に蝦夷を、660年3月には粛慎の討伐を行った。

百済の役
660年、百済が唐軍(新羅も従軍)に敗れ、滅亡する。その後、鬼室福信らによって百済復興運動が展開し、救援を求められた倭国が663年に参戦し、白村江の戦いで敗戦する。この間の戦役を百済の役(くだらのえき)という[13]。

百済滅亡
「百済・唐戦争(英語版)」を参照
660年3月、新羅からの救援要請を受けて唐は軍を起こし、蘇定方を神丘道行軍大総管に任命し、劉伯英将軍に水陸13万の軍を率いさせ、新羅にも従軍を命じた[14][15]。唐軍は水上から、新羅は陸上から攻撃する水陸二方面作戦によって進軍した[15]。唐1万・新羅5万の合計6万の大軍[要出典]が百済に攻め入っていた[16]。

百済王を諌めて獄死した佐平の成忠は唐軍の侵攻を予見し、陸では炭峴(現大田広域市西の峠)、海では白江の防衛を進言していたが、王はこれを顧みなかった[15]。また古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同様の作戦を進言していたが、王や官僚はこれを流罪にされた恨みで誤った作戦を進言したとして、唐軍が炭峴と白江を通過したのちに迎撃すべきと進言した[15]。百済の作戦が定まらぬうちに、唐軍はすでに炭峴と白江を超えて侵入していた[15]。

黄山の戦い
百済の大本営は機能していなかったが、百済の将軍たちは奮闘し、将軍階伯の決死隊5000兵が3つの陣を構えて待ちぶせた[要出典]。新羅側は太子金法敏(後の文武王)・金欽純(きん きんじゅん)将軍・金品日(きん ひんじつ)将軍らが兵5万を3つにわけて[要出典]黄山を突破しようとしたが、百済軍にはばまれた。7月9日の激戦黄山の戦いで階伯ら百済軍は新羅軍をはばみ四戦を勝ったが、敵の圧倒的な兵力を前に戦死した[15]。この黄山の戦いで新羅軍にも多大な損害を受け、唐との合流の約束期日であった7月10日に遅れたところ、唐の蘇定方はこれを咎め新羅の金文穎を斬ろうとしたが、金は黄山の戦いを見ずに咎を受けるのであれば唐と戦うと言い放ち斬られそうになったが、蘇定方の部下が取り成し罪を許された[17][18]。

唐軍は白江を越え、ぬかるみがひどく手間取ったが、柳の筵を敷いて上陸し、熊津口の防衛線を破り王都に迫った[19]。義慈王は佐平の成忠らの進言を聞かなかったことを後悔した[19]。

7月12日、唐軍は王都を包囲。百済王族の投降希望者が多数でたが、唐側はこれを拒否[19]。7月13日、義慈王は熊津城に逃亡、太子隆が降伏し、7月18日に義慈王が降伏し、百済は滅亡した[19]。

660年(斉明天皇6年)8月、百済滅亡後、唐は百済の旧領を羈縻支配の下に置いた。唐は劉仁願将軍に王都泗沘城を守備させ、王文度(おう ぶんたく)を熊津都督として派遣した[14](熊津都督府)。唐はまた戦勝記念碑である「大唐平百済国碑銘(だいとうへいくだらこくひめい)」を建て、そこでも戦前の百済の退廃について「外には直臣を棄て、内には妖婦を信じ、刑罰の及ぶところただ忠良にあり」と彫られた[12]。大唐平百済国碑銘は、現在も扶餘郡の定林寺の五重石塔に残っている[6]。

百済復興運動
唐の目標は高句麗征伐であり、百済討伐はその障害要因を除去する意味があり、唐軍の主力は高句麗に向かう[20]と、百済遺民鬼室福信・黒歯常之らによる百済復興運動が起きた。8月2日には百済残党が小規模の反撃を開始し、8月26日には新羅軍から任存(にんぞん。現在の忠南礼山郡大興面)を防衛した[21]。9月3日に劉仁願将軍が泗沘城に駐屯するが、百済残党が侵入を繰り返した[21]。百済残党は撃退されるが、泗沘の南の山に4,5個の柵をつくり、駐屯し、侵入を繰り返した。こうした百済遺民に呼応して20余城が百済復興運動に応じた[21]。熊津都督王文度も着任後に急死している[21]。

唐軍本隊は高句麗に向かっていたため救援できずに、新羅軍が百済残党の掃討を行う。10月9日に、ニレ城を攻撃、18日には攻略すると、百済の20余城は降伏した[22]。10月30日には泗沘の南の山の百済駐屯軍を殲滅し、1500人を斬首した[22]。

しかし、百済遺臣の西武恩卒鬼室福信・黒歯常之・僧道琛らの任存城や、達率余自信の周留城などが抵抗拠点であった[22]。

倭国による百済救援
百済滅亡の後、百済の遺臣は鬼室福信・黒歯常之らを中心として百済復興の兵をあげ、倭国に滞在していた百済王の太子豊璋を擁立しようと、倭国に救援を要請した。

中大兄皇子はこれを承諾し、百済難民を受け入れるとともに、唐・新羅との対立を深めた。

661年、斉明天皇は自ら九州へ出兵するも那の津にて急死した(暗殺説あり[要追加記述])。斉明天皇崩御にあたっても皇子は即位せずに称制し、朴市秦造田来津(造船の責任者)を司令官に任命して全面的に支援した。この後、倭国軍は三派に分かれて朝鮮半島南部に上陸した。

だがこの時点で、百済陣営は全く統率が取れていなかった。豊璋は戦乱への自覚が足らず、黒歯常之ら将は当初から豊璋を侮る状態であった。道琛は鬼室福信によって殺害され、鬼室福信は豊璋によって殺害された。

軍事力

 

西暦660年は

 

 

 

桓武天皇

とかね

桓武天皇 - Wikipedia

坂上田村麻呂将軍とかね

 

坂上田村麻呂 - Wikipedia

 

 

羽栗翼 - Wikipedia

羽栗 翼(はぐり の つばさ/たすく)は、奈良時代から平安時代初期にかけての貴族。姓はなしのち臣。羽栗吉麻呂の子。官位は正五位上・内薬正。

経歴
養老元年(717年)の第9次遣唐使で留学生・阿倍仲麻呂の従者として渡唐して唐に留まり、唐人女性と結婚した羽栗吉麻呂の子として養老3年(719年)に唐で生まれる。天平6年(734年)第10次遣唐使にて吉麻呂の帰国に従い、来日する。日本では、多くの事柄に通じており非常に聡明であるとの評判を得るが、出家して僧となる。学業が優秀ですぐに進歩を見せたことから、朝廷はその才能を惜しんで翼を還俗させ官人に登用し、特別に得度の枠二人分を与えた[1]。

その後大外記を務めるが、宝亀6年(775年)第16次遣唐使が派遣されることになり、6月に使節が任命されると翼は遣唐録事となる。同年8月には録事から准判官に昇格すると共に、正七位上から五階昇進して外従五位下に叙せられた。宝亀7年(776年)3月に勅旨大丞を兼ねる。4月に大使・佐伯今毛人らが節刀を与えられ[2]、出航して一旦肥前国松浦郡合蚕田浦まで到着する。しかし、その後順風が吹かなかったため博多大津まで引き返すと、同年閏8月に渡海の時期を来夏に延期することになった[3]。なお、同年8月に翼は臣姓を与えられている。

翌宝亀8年(777年)6月24日に今毛人に代わって大使代行となった副使の小野石根ら遣唐使節一行に従い出帆、7月3日に揚州海陵県(現在の江蘇省泰州市)に到着。8月29日に揚州大都督に至り宿舎や衣食を供給される。揚州では、かつて天平神護2年(766年)に日本の丹波国天田郡華浪山で産出した白鑞に似た鉱物を鋳工に示して鑑定させたところ、「鈍隠」と呼ばれる私鋳銭を偽造する際に用いられる鉱物との結果を得ている[4]。その後一行は長安へ向かうが、安史の乱による駅舎の荒廃を理由に入京人数を43名に制限される。翌宝亀9年(778年)正月13日に翼は石根や副使・大神末足らと共に長安に到着し貢ぎ物を進上、3月22日には皇帝・代宗への拝謁も果たす。同年9月より一行は4船に分乗して順次帰国の途につき、第一船は海上で分断し石根が水死したが、翼は無事に帰国を果たす[5]。翌宝亀10年(779年)4月に使節員に対する叙位が行われ翼は内位の従五位下に叙された。また、唐で使われていた『宝応五紀暦経』を日本に持ち帰って朝廷に献上し、唐では当時日本で使用されていた大衍暦が既に廃止され五紀暦が採用されていることを報告している[6]。

天応元年(781年)難波に派遣され、朴消の精製を行っている[7]。天応2年(782年)丹波介に任ぜられ、延暦4年(785年)従五位上に昇叙される。本草学にも通じていたらしく、延暦5年(786年)には内薬正兼侍医に任じられて都に戻り桓武天皇に近侍した。また、延暦7年(788年)左京亮、延暦8年(789年)内蔵助と京官も兼ねている。延暦9年(790年)正五位下、延暦16年(797年)正五位上に至る。

延暦17年(798年)5月27日卒去。享年80。最終官位は正五位上行内薬正。

官歴
『続日本紀』による。

時期不詳:正七位上。大外記。
宝亀6年(775年) 6月19日:遣唐録事。8月29日:外従五位下、遣唐准判官
宝亀7年(776年) 3月6日:兼勅旨大丞。8月8日:賜姓臣
宝亀10年(779年) 4月27日:従五位下(内位)
天応2年(782年) 2月7日:丹波介
延暦4年(785年) 8月14日:従五位上
延暦5年(786年) 7月15日:内薬正兼侍医
延暦7年(788年) 3月21日:兼左京亮
延暦8年(789年) 日付不詳:兼内蔵助[要出典]
延暦9年(790年) 2月27日:正五位下
延暦16年(797年) 正月7日:正五位上
延暦17年(798年) 5月27日:卒去(正五位上行内薬正)
脚注
^ 『日本後紀』大同5年5月27日条
^ 『続日本紀』宝亀7年4月15日条
^ 『続日本紀』宝亀7年閏8月6日条
^ 『続日本紀』天平神護2年7月26日条
^ 『続日本紀』宝亀9年10月23日,11月13日条
^ 『日本三代実録』貞観3年6月16日条
^ 『続日本紀』天応元年6月25日条

 

 

 

 

 

 

 






羽栗吉麻呂 - Wikipedia
羽栗 吉麻呂(はぐり の よしまろ)は、奈良時代の人物。姓はなし。

経歴
羽栗氏(葉栗氏)は春日氏の一族で[1]、氏の名は山城国久世郡羽栗郷(現在の京都府久世郡久御山町佐山付近)の地名に因む[2]。

養老元年(717年)の第9次遣唐使で留学生・阿倍仲麻呂の傔人(従者)として渡唐する。翌養老2年(718年)遣唐使節の帰国に同行せず、仲麻呂と共に唐に留まる。その後、唐人女性と結婚し、唐で翼・翔の二子を儲ける。天平5年(733年)多治比広成が率いる第10次遣唐使が来唐し、阿倍仲麻呂はそのまま唐に留まったが、吉麻呂は息子らと共に帰国の途につき、天平6年(734年)無事帰国を果たした[3]。

天平8年(736年)に新羅に渡った第20次遣新羅使の使節が詠んだ和歌の中に『羽栗』作のものがあり、これが吉麻呂によるものであるとする説がある[要出典]。これが事実ならば、羽栗吉麻呂はこの遣新羅使にも加わっていたことになる。

脚注
^ 『新撰姓氏録』左京皇別
^ 佐伯[1994: 365]
^ 『日本後紀』延暦17年5月27日条