マリアに頼み事を依頼するのは、最も最善で御徳だからです、合理がある事だから。それは・・・。
マリアに頼み事を依頼するのは、最も最善で御徳だからです、合理がある事だから。それは・・・。
大王の中の大王
という事での
イエシュア
ギリシア語では
イエスでいいです
IESU
だから
子
たった一人子の
イエシュアに
いろいろ
な事を
執り成しできる
分際は
マリアさんだけ
母だから
子よ
と云う事で
もう
御仕舞です
つまり
言わずもがな
全て
母の心は子は知っているから
婦人よ
おんなよ
なんのかかわりがあるか
と
正に
逆説を
意白ので
子のJesusは
ですから
Gesu
それを
字面で
解釈すると
全く
正に
逆になる
ほら
母のマリアもイエスは
認めていないんだぞ
と
いう論拠を
持ち出す
クリスチアンである方もいて
論争になる
そのような
論争は
無駄ではないが
信念闘争のような
醜さの争いもある事だし
余計な世話なのです
そもそも
母
の事を
誰よりも
案じているのは
子の
イエシュアなのですから
阿吽の呼吸こそ
このメリットなのです
なぜ
Almightyである君は
誰も
見捨てはしませんよ
と
既に
何度も約束は
提示し顕示し
秘匿の案件も
明けらかにして
黙秘を
示したのです
2000年前
に
ヨハネという
ゼベダイの子
母は
マリア・シャロメ
の
子の二男だ
長兄は
ヤコブ
IYAKOPHEN
やこへん
こーへん
まあ
いい
ですが
どちらも
雷のように
怒る
人で
純粋なユダヤ主義者だったのですから
ゆえに
神に従わない者は
天から火で焼き滅ぼせ
と
いうのだし
母のマリア・シャロメも
どうか先生と
右と左に
おいてもらいたいと
この世の地位の最高位を
求めるから
いさめられた
三人ともに
もともと
漁師としての
働きがある事
ガリラヤの
湖で
船を
二つ
網を
投じる時は
小さな石を
いくつも
結んで
水の上に
投じる
魚群を
みていないと
無理だけども
なかなか
手厳しい訳です
その漁の方法は
知らないものは
トラマエル事はできない
理解するとか
全てを
受け止める作業から
必要十二分を
実地で
実践してそうして
着実に
もの
こと
人の
実情を
はあくするを
個別にして
為す事だ
それを成果といいます
功徳を積みますと
いっている
善業の事ではない
そもそも
いかにして
父の意向を
しるか
他者をとおして
仲介として
媒体として
MEDIAとして
人
そもそも
人は
父子霊
三方に
似せて
作ったと
そう
いいはるのですから
いつくしみ
はあるからこそ
生を贈るのです
存在をふーーと一息で
その存在をせしめる
事だと
そこで
その人は
存在は
生まれたからこそ
あーーよかった
いかった
ありがてい
くすしきこと
これきわまり
感謝を
申し上げる
たて
まつり
かしこみ
かしこみ
となる
内的
態度を
形成する事です
よこしまでは
意図は狡猾では
おれこそ
海賊だ
みんな魂を奪って
神に捧げるぞ
とか
あかんし
あかんたれのすっこと
まったく
父の意向の
真逆です
それそのもの
いかにも
自分を稀有な者として
もっとも聖
とか事白は
正に
大口者の
餌まき
とおなじこと
全部
自分の腹に
呑み込みたい
からこそ
褒められたいからこそ
そもそもの
存在としての
喜悦の
まったく無い事を
如実に
自己表現しまくるから
行為として
常にその意図が
具現しているだけです
いまにも
自壊する
その姿を
自分で
丸裸で
晒したのですから
そこまで
自分を
見せつけないと
その私的な
気分は済まないというのは
異常だ
親と子の
親密な
関係を
構築してこなかった
一つの証
あかし
となる
のです
結論を申し上げるなら
非常に
気の毒
どこまでも
自己の行為は正当で
正義で
正しく善いに決まっているんだと
信じ込む事を
投資し
努力し
鉛のような
心を
自分で
形成してしまう
どこまでも
気の毒なのに
ですね
いつくしみとは
その者へも
永久に
必要十二分
恩恵は
父
子
霊
から
マリアに
受け止められて
分配を
する
マリアがあるのです
水は涸れない
井戸
その受け止める純粋な
汚れ無い
その方の心は
清い器なのです清浄
常に
清浄の盃
です
汚れ無い皿
です
聖体
ホスティアを
載せる
皿
鏡のように
神の光を
全て反射し
そして
闇は
光を知りませんから
闇は
光を
回避する
いつまでも
永久に
それを
証明する
一つの媒体
道具なのです
最少の最小の存在こそ
マリア
なのです
潮の味
涙
の
一粒
です
マグネシウム
ナトリウム
南山堂