出羽の國の方策   移民政策で領地を拡大してきているのであるから・・。 | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

出羽の國の方策   移民政策で領地を拡大してきているのであるから・・。

みやつけ

 

三輪神社

 

大三輪

 

 

羽後町の杉の宮

にも

三輪

 

 

 

奈良の三輪の神の

勧請の地

 

 

 

 

何を意味しているか

 

 

 

 

城柵の直ぐ近くで

守護

の神さまと云えるのでしょうから

 

礼拝行為している

 

でしょう

 

 

 

 

 

 

 

 

飛鳥

奈良

 

 

越國

出羽國

712年(和銅5)出羽国

 




真昼岳 - Wikipedia

真昼岳(まひるだけ)とは、秋田県仙北郡美郷町と岩手県和賀郡西和賀町との県境にある山である。真昼山とも。

真昼山地の主峰で、標高は1059mである[1][2]。

概要
秋田県側の周囲は真木真昼県立自然公園に指定。なお、県境をまたぐ真昼岳林道(峰越連絡林道)が付近を通るが、未舗装かつ大変狭い。

古くから信仰の対象として真昼山大権現社(三輪神社)が設けられ、中世には周辺の小野寺氏や本堂氏の氏神ともなっていた。 山名は伝説の坂上田村麻呂が東征の折、昼頃に山頂についたからとされている。山頂の三輪神社はその時将軍が建立したものという[3]。江戸時代の記録には「麓に石の鳥居がある。三輪神社がある。大同2年に田村麻呂が開基した。祭礼は4月の6月とも12日である。この山には怪異の話が残されている[4]。

 

 

出羽柵 - Wikipedia
飛鳥時代末から奈良時代
文献上の初見は続日本紀の709年(和銅2)7月1日「蝦夷征討のため、諸国に命じ、兵器を出羽柵へ運搬した」という内容の記事である。これにより、709年以前から出羽柵が存在したことが判る。

当時の中央政府は、東北地方の蝦夷征服活動を進めており、日本海沿岸方面では、708年(和銅1)越後国に出羽郡がたてられた後、712年(和銅5)出羽国が置かれた。出羽郡設置の前後に出羽柵が設けられ、これにより蝦夷征服の拠点が確保され、出羽国へ昇格する契機となったものと考えられている。設置当初の出羽国の国府機能は、出羽柵が果たしていたようである。当時、陸奥や出羽に置かれた「柵」は、城柵であると同時に、その周辺地域を統治する行政機関としても機能していた。

続日本紀には、714年(和銅7)に尾張・上野・信濃・越後等から200戸を出羽柵へ移住させたこと、その後も716年に信濃・上野・越前・越後から各100戸、717年にも信濃・上野・越前・越後から各100戸、719年には東海道・東山道・北陸道から200戸を出羽柵へ入植させたことが見える。柵戸の出羽国への移住は総計で1300戸におよんだ。柵戸は公民身分である。

これらは、蝦夷を教化し、出羽国の開発・開拓を促進するために行われたものであり、また、律令制支配を辺境部にまで徹底し、城柵への兵士の供給源とした。[1]

秋田県へ移設される前の出羽柵は庄内地方(山形県沿海部)、赤川の河口と羽黒山の中間地域に設置されたとも見られるが、詳しい所在地は不明である。

733年(天平5)12月26日、出羽柵は秋田村高清水岡(秋田県秋田市)へ移設された(続日本紀)。これに伴って出羽国府も秋田へ移されたのかについては諸説あるが、考古発掘によれば8世紀後半に秋田へ国府が移されていたと推測される。760年頃、出羽柵は秋田城へと改変され(大日本古文書『丸部足人解』)、この後、出羽柵の名は史上に現れなくなった。

その後、蝦夷の反乱が相次ぎ、秋田城から出羽国府が移設されたが、その有力な候補として現在考えられているのが、昭和6年に現在の酒田市城輪で発見された城輪柵(きのわのき)である。

 

 

払田柵跡 - Wikipedia

 

横手盆地の北部に位置し、硬質泥岩の丘陵である真山(しんざん)と長森(ながもり)を囲むように外郭が築かれ、そのさらに内側には、長森だけを囲むように内郭が築かれている。内外郭の東西南北にはそれぞれ掘立柱による門が築かれていた。長森の中央には、板塀で囲われた平安時代の政庁と考えられる建築物の跡が残されている。その配置と造営技術は律令制官衙様式に則っている。また、政庁は4回、建て直されていることがわかっている。建設当時は外郭の中に川が流れていたことが判明している。現在は流路を変えているが、一部当時の川跡が復元されている。外郭は東西約1,370m、南北約780m、面積約87.8haの不整楕円形をしており、東北地方最大級の城柵遺跡である。自然の丘陵上をそのまま利用していること、三重の区画施設に囲まれていることも大きな特徴である。

 

 



雄勝城 - Wikipedia

天平5年(733年)12月26日 - 出羽柵を秋田村高清水岡に移設し、雄勝に郡を置いて民衆を移住させた[1]。
天平9年(737年)正月、陸奥按察使兼鎮守将軍の任にあった大野東人は、多賀柵から出羽柵への直通連絡路を開通させるために、その経路にある男勝村の征討許可を朝廷に申請し、男勝村の蝦夷を帰順させて奥羽連絡通路を開通した[1][2]。
天平宝字3年(759年) - 雄勝城の造営が行われた。所轄郡司、軍毅、鎮所の兵士、馬子ら8,180人が春から秋にかけて作業にあたったので、これらの者は淳仁天皇より税の免除が認められた。また、雄勝に驛が置かれた(雄勝驛のほか、玉野、避翼、平矛、横河、助河、嶺基にも驛が新設された)[1]。
天平宝字3年(759年)9月27日 - 坂東八国(下野国、常陸国、上野国、武蔵国、相模国、下総国、上総国、安房国)と越前国、能登国、越中国、越後国の4国の浮浪人2,000人が雄勝柵戸とされた[2][3]。また、相模、上総、下総、常陸、上野、武蔵、下野の7国が送った軍士器を雄勝桃生の2城に貯蔵した[1]。
天平宝字4年(760年)1月4日 - 孝謙天皇により雄勝城造営を指揮した按察使鎮守将軍正五位下の藤原朝狩が従四位下に叙せられた[4]。このほか、陸奥介鎮守副将軍従五位上の百済足人、出羽守従五位下小野竹良、出羽介正六位上百済王三忠が1階級進級となった[注釈 2]。
天平宝字4年(760年)3月10日 - 没落した官人の奴233人と婢277人の計510人を雄勝城に配して解放し良民とした[2]。
天平神護元年(767年)11月8日 - 雄勝城下の俘囚400人余が、防衛にあたることを約束し内属を願ったためこれを許した。
宝亀7年(776年)2月6日 - 陸奥国から20,000の軍を発して山道・海道の賊を討伐するよう言上があったため、出羽国に4,000の軍を発して雄勝道から陸奥の西辺を討伐するよう命じた。
宝亀11年(780年) - 賊に襲われ、雄勝・平鹿の2郡の百姓は業を失った。散り散りになった民衆を集め、郡府を再建し口分田を支給する。
延暦21年(802年) - 雄勝城の鎮守府兵士の兵糧として、毎年越後国と佐渡国から大量の米と塩が輸送される。
元慶2年(878年) - 雄勝城は10道が交差する要衝の地であり、出羽国の要害となっている。
元慶5年(881年)2月26日 - 雄勝郡、平鹿郡、山本郡(後の仙北郡)の百姓の調庸が再開されることとなる。
研究史概要
所在地をめぐって
1910年(明治43年)、秋田県史編纂主任の長井金風が雄勝・平鹿に所在する小字を中心として地名から雄勝城の解明に乗り出し、雄勝郡新成村(現、羽後町)土館の城神巡り遺跡の発掘調査を行った[5][注釈 3]。その結果、多くの墨書土器をふくむ遺物を発見している[5]。1961年(昭和36年)から1976年にかけて、城神巡り遺跡を含む足田遺跡群の発掘調査がなされ、多くの遺構を検出し、遺物の出土も確認されたが、これらは古くとも9世紀中葉、多くは9世紀後半から10世紀前半にかけてのものであり、いずれも創建期の雄勝城よりは時代的に新しい、平安時代の遺構・遺物である[5]。現在の雄勝郡域内に創建期である奈良時代の城柵は見つかっておらず、その造営地は現在も不明である[5]。

記紀から推定されている雄勝城の造営地は、「雄物川流域沿岸地で、出羽柵と多賀城の経路上にあり、かつ出羽柵より2驛手前の距離の土地」ということができる。現時点で発見されている城柵遺跡でこの条件に一致するものは払田柵跡であるが、その創建年代は9世紀初頭と考えられる。

現在、横手市雄物川町地域で発掘調査が進められており、払田柵跡に先行する時代の検出遺構や出土遺物が確認されて、大きな成果をあげている[5]。今後、当該地域の発掘調査が進むにつれ、古代雄勝城造営地が徐々に明らかにされていくものと期待される。