あなたもわたしも知らない、体験していないあまた 余ったの事数々 あまりある 御山の噴火  | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

あなたもわたしも知らない、体験していないあまた 余ったの事数々 あまりある 御山の噴火 

 

 

 

 

γνῶθι σεαυτόν

 

Cognosce te ipsum

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ベスビオという山

 

 

Heracules

 

 

 

 

 

火の神

囲炉裏の神

 

力ある者

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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アイネイアース - Wikipedia

アイネイアース(古希: Αἰνείας, Aineiās)あるいはアイネアース(古希: Αἰνέας, Aineās)は、ギリシア神話およびローマ神話に登場する半神の英雄である。ラテン語ではアエネーアース(Aenēās)と表記される。日本語では長音記号を省略しアイネイアス、アイネアス、アエネアスとも呼ばれる。

トロイア王家の人物アンキーセースと女神アプロディーテー(ウェヌス)の息子。トロイアの王プリアモスの娘クレウーサを妻とし、息子アスカニオス(アスカニウス、別名ユールス、イウールス)をもうけた。

アイネイアースはトロイア戦争におけるトロイア側の武将で、トロイア滅亡後、イタリア半島に逃れて後のローマ建国の祖となったといわれる。古代ローマでは敬虔な人物として知られていた。彼を主人公とした作品に詩人ウェルギリウスの叙事詩『アエネーイス』がある。













アイネイアースの誕生
アイネイアースはアンキーセースとアプロディーテーの息子である。トロイアの名祖トロースに3人の息子イーロス、アッサラコス、ガニュメーデースがおり、そのうちイーロスの孫がトロイアの王プリアモスである。一方、アイネイアースの父アンキーセースはアッサラコスの孫であり、したがってアイネイアースはトロイア王家の傍系にあたる。

アイネイアースの母がアプロディーテーであることは『イーリアス』の中でしばしば述べられ、ヘーシオドスも『神統記』で述べており、古くから知られていた。『ホメーロス風讃歌』によれば、ゼウスはアプロディーテーが神々を人間と結びつけているのを見て、アプロディーテーが自慢したりしないようにアンキーセースへの恋を吹き込んだのでアイネイアースを身ごもったという。アイネイアースの名の由来はこのときアンキーセースがアプロディーテーの正体を知って大いに恐れたことによる。アイネイアースは生まれると5年間ニュムペーに育てられたのちアンキーセースのところに連れてこられ、その後姉ヒッポダメイアとその夫アルカトオスのところで育てられた。成長したアイネイアースは常に神を敬う人物だったので多くの神々の援助を得た。アキレウスがイーデー山を攻撃したときアイネイアースはミュルソーネスに逃げた。アキレウスはさらにミュルソーネスを滅ぼしたが、ゼウスは彼を逃がし、以降トロイア戦争に参加した。トロイア戦争ではヘクトールに次ぐ武勇を謳われた。

イタリアへの旅

炎上するトロイアから脱出するアイネイアース(1598年画、ボルゲーゼ美術館所蔵)
木馬の計略によってトロイアが陥落した際、アイネイアースは父アンキーセースを背負い、幼いアスカニオスの手を引いて燃える都から脱出した(以下、ラテン語表記で紹介する)。

トロイアの船団はデーロス島で祖先の地を目指せとの託宣を得て、初めはトロイアの始祖テウクロスの来たといわれるクレーテー島に上陸した。しかしクレーテーではなく同じくトロイアの祖先ダルダノスが住んでいたとされるイタリア半島が目指すべき場所であることを知り、改めて海に出た。アエネーアースはメッシナ海峡を避けシケリア島を時計回りに迂回するコースを取りイタリアを目指したが、途中寄港したドレパヌム(英語版)(ドレパノン)で父アンキーセースが病死した。

その後女神ユーノー(ヘーラー)が起こした嵐のためにコースを大きく外れるが、ネプトゥーヌス(ポセイドーン)に救われ北アフリカに漂着する。この地でアエネーアースはカルターゴーの女王ディードーと出会い、互いに愛し合うようになる。しかし、これを見たユーピテル(ゼウス)がメルクリウス(ヘルメース)を使わしてトロイアの再興のためにイタリアへ渡るよう警告する。神意を受けアエネーアースはカルターゴーを去り、残されたディードーは自殺した。

イタリア半島に到着後アエネーアースはクーマエ(キューメー)において、巫女シビュラ(シビュレー)の導きによって冥界に入り、そこで亡き父アンキーセースと再会した。アンキーセースは、アエネーアースの子孫が未来のローマの英雄となることを告げた。冥界から戻ったアエネーアースは、北上し新たなトロイアを築くべき土地であるラティウムに上陸した。

この地で現地の王ラティーヌスの娘ラウィーニアと婚約をするが、それまでラウィーニアと婚約していたアルデアの王トゥルヌスはこれに反対しトロイア人とトゥルヌスの率いるルトゥリー人との間で戦いが起こった。『アエネーイス』では周辺のラティウムの都市もトゥルヌス軍に加わり、ラティーヌスも自ら望まぬながらもトロイア人に敵対した。さらにトゥルヌスにはエトルリアの王メーゼンティウス(英語版)も助勢した。一方アエネーアースはラティウム人と敵対していたアルカディア人を率いるパッランテウム(パランテイオン)の王エウアンデル(エウアンドロス)を味方とし、その息子パッラス(パラース)が軍勢に加わった。また僭主であったメーゼンティウスを追放したエトルリアの諸都市もアエネーアースに助勢した。こうした両者の間で激しい戦いが行なわれ、パッラスやメーゼンティウスなど多くの将が命を落とした。最終的にはトゥルヌスとアエネーアースとの一騎討ちでアエネーアースがトゥルヌスを殺し、戦いは終わった。アエネーアースはラウィーニアと結婚し新市ラウィニウムを築いた






 

 

 

 

ユーノー - Wikipedia

 

 

Aphrodite - Wikipedia

 

ヘーラクレース - Wikipedia

 

 

Vesta (mythology) - Wikipedia

Ovid derived Vesta from Latin vi stando – "standing by power". Cicero supposed that the Latin name Vesta derives from its Greek counterpart, Hestia, which Cornutus claimed to have derived from Greek hestanai dia pantos ("standing for ever"). This etymology is offered by Servius as well.[5] Another proposed etymology is that Vesta derives from Latin vestio ("clothe"), as well as from Greek ἑστία (hestia, "hearth" = focus urbis).[6] None, except perhaps the last, are probable.

Georges Dumézil (1898–1986), a French comparative philologist, surmised that the name of the goddess derives from Proto-Indo-European root *h₁eu-, via the derivative form *h₁eu-s- which alternates with *h₁w-es-.[7][8] The former is found in Greek εὕειν heuein, Latin urit, ustio and Vedic osathi all conveying 'burning' and the second is found in Vesta. (Beekes considers the Greek goddess-name Ἑστία Hestia is probably unrelated.[9]) See also Gallic Celtic visc "fire."

Poultney suggests that Vesta may be related to the Umbrian god Uestisier (gen.)/Vestiçe (dat.) (as if Latin *Vesticius), itself related to Umbrian terms for 'libation' uestisiar (gen.sg.), 'pour a libation' uesticatu (imv.) from *westikia and *westikato:d respectively. Perhaps also related to Oscan Veskeí from the Oscan Tablet also known as the Agnone Dedication.[10]

History
Origin
According to tradition, worship of Vesta in Italy began in Lavinium, the mother-city of Alba Longa and the first settlement by the Trojan refugees after their flight from Troy's destruction, led there by Aeneas and guided by Venus. It was believed that from Lavinium, the worship of Vesta was transferred to Alba Longa, a belief evident in the custom of Roman magistrates going to Lavinium, when appointed to higher office, and offering sacrifice both to Vesta and the household gods of the Roman state known as Penates, whose images were kept in Vesta's temple. Alongside those household gods was Vesta, whom the Roman poet refers to as Vesta Iliaca ("Vesta of Ilium/Troy").[11] Vesta's sacred 囲炉裏was also named Iliaci foci ("hearth of Ilium/Troy").[12]

Worship of Vesta, like the worship of many gods, originated in the home, but in Roman historical tradition, it became an established cult of state during the reign of either Romulus,[13] or Numa Pompilius[14] (sources disagree, but most say Numa).[15] The priestesses of Vesta, known as Vestal Virgins, administered her temple and sustained its sacred fire. The existence of Vestal Virgins in Alba Longa is connected with early Roman traditions, for the mother of Romulus' and Remus, Silvia, was a priestess of Vesta, impregnated by either Mars or Hercules.[16]
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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『79年のベズビオ山のような噴火は「プリニー式」と呼ばれます。噴火の際に救援のために活躍した博物学者でローマ艦隊の提督・大プリニウス、彼の甥で当時の様子を詳しく記録した学者・小プリニウスの名前が由来とされます。

 大量の軽石や火山灰を放出する大規模な爆発を伴い、噴煙は柱状になって高さ10キロ以上に達することもあります。79年の噴火で噴煙は最高30キロ、噴出したマグマ量は約4立方キロと推定されています。富士山宝永噴火(1707年)のマグマ噴出量は約0.7立方キロとされ、5倍以上にあたります』

 

 

『「79年の噴火の痕跡が出てくるはずだと思って20年間発掘を続けてきた」。こう振り返るのは開始時から調査を手がけ、チームの初代代表を務めた青柳正規・東大名誉教授(西洋古典考古学)です。別荘と断定するにはアウグストゥスの一族が造ったことを示す銘文などが出土しなければならないとしましたが、現時点では「別荘である可能性はここが一番高いのでは」と強調しました。』

 

 

『イタリア南部のベズビオ山は、約2千年前の大噴火で南麓の都市ポンペイを埋没させたことで知られる火山です。東京大のチームは、北麓に位置するソンマ・ベスビアーナ市の遺跡で20年以上前から発掘調査を続けています。この噴火による被害はポンペイなど山の南側が中心だったとされてきましたが、北側にも火砕流などが押し寄せ、町を壊滅させていたことが新たに分かりました。古代ローマの火山災害の実態に迫る貴重な成果です。 (榊原智康) ソンマ・ベスビアーナ市はベズビオ山から約5キロに位置します。ローマ時代の歴史書には、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥス(紀元前63~後14年)は山の北側にあった別荘で亡くなり、その後別荘があった場所は皇帝を顕彰するための施設になったとの記述が残っています』

 

以上は東京新聞記事から参照。

以下、リンク。

2000年前、古代ローマ大噴火に迫る 火砕流、北側の町にも 東京大調査チームが新発見 (msn.com)

 

 

 

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以下はウイキペディア参照。

 

Genius

 

 

 

 

ゲニウス - Wikipedia

 

ゲニウス(羅: genius 複数形 genii 、英: genius(ジニアス[1]))は、天才・天賦の才を授ける守護神・守護霊を指すラテン語[2]。なお、英語ではゲニウスも天才も「ジニアス」(genius)と発音されており、特に物語や文学でのジニアスには古代ローマ由来の「神」・「霊」的意味が受け継がれている[1]。

ゲニウスは擬人化された創造性である。古代ローマ人の信仰においては、ゲニウスは概して守護霊もしくは善意の霊とされ、悪霊は malus genius と呼ばれた[3]。一般的に言って、古代ローマの宗教におけるゲニウスとは、個人や場所や事物にあまねく現臨している普遍的な神性を個別化したものであり[4]、換言すれば、万象に宿る非人格的な神的力を個別に人格化・神格化したものである。

宗教的背景
古典古代の多神教は、地中海地方でアルファベットが使われるようになる前からキリスト教が興隆するまでの間、ギリシア=ローマ圏内の人々の宗教であったが、これらの諸教はあらゆるものに宿る普遍的な神性を奉じた。それは多神教もしくはペイガニズムという名の下に今なお研究対象になっている信仰である。神学者パウル・ティリッヒの指摘したように、多神教は単に複数の神を信仰するという単純なものではない。彼の観点では、それを区別するのは「統一的かつ超越的な至高者の欠如」である[5]。かれのいう多神教の「普遍的類型」においては「場所や国土の神性のような特別な神的存在は…森羅万象の背後に隠されている普遍的な、あらゆるものに浸透する聖なる力(マナ)の具現化である…が、この統一性は真の統一性ではない。それは多様なものへと分かたれるものを超え出ることはない。」かれのいう「神話的類型」については、ティリヒは「祈りのひととき、ひとが祈りを捧げる神は絶対者である…これは真実である、次に別の神に祈りを捧げる時はその神が同じ役割をもっているという事実があるにしても。多様な神々がいようとも、この種の独占的経験の可能性は、神的なものの同一性の感覚を表しているのである…」と述べる。

「いまだに古い宗教を奉じている田舎の人々」という偏見的な意味である、キリスト教徒とキリスト教から除外されるべき「異教徒」というキリスト教的言葉の用法に対抗して、ガース・ファウデンは「ケンブリッジ古代史」にて偏見の少ない多神教という言葉を採用している[6]。ファウデンによれば「いかなる神格も…至高性と全能性を主張しえた。しかしその神がかく為しえたのは、他の環境において同じように至高とみなされうる他の神々と同化することによってであった。」ファウデンはこの見方をシンクレティズム(諸教混淆・習合)と呼び、プロティノスを引用(「ひとは讃えるべきである…かの他界の偉大なる王を、わけても数多くの神々のうちにその偉大さを誇示していることに。神的なるものが一者に集約されるのは縮小ではなく、神自身が多様性において示すところの、その多様性のうちに単一性を顕すことである…かれはそこに留まりながら多くのものをつくるからである…かれ自身に依存し、かれを通じて存在し、かれより生ずる一切のものを」)して「この見方とプロティノスの考え方は基本的に相違するものではない」と考察している。

神性は単数形では deus または divinitas だが、特定の力に細分された場合は複数形で dei となる[7]。そのような個々の力をラテン語でゲニウスと呼んだ。これはギリシアのダイモーンと同一視された。神性はその力を示すことで知ることができるとされた。物理的エネルギーの概念がなかったため、古代人にとっては何らかの現象を引き起こす力は全て神性の証だった。神性はその力の現れ方によって区別された。海の神はネプトゥーヌス、火の神はウゥルカーヌスといった具合である。名前のついた神話内の神々は、全て何らかのゲニウスだった。しかしさらに、個々の人間が持つ理性的な力と能力はその魂に起因するものとされ、それもゲニウスとされた[8]。個々の場所にもゲニウス(ゲニウス・ロキ)があり、それゆえ火山などの力の溢れるものがあるとされた。この概念はさらに拡張されていき、劇場のゲニウス、ブドウ畑のゲニウス、祭りのゲニウスといったものが考案された。これらのゲニウスはそれぞれ上演の成功、ブドウの実り、祭りの成功を司るとされた。古代ローマ人にとって、何か大きなことを成し遂げようというとき、対応するゲニウスをなだめることが非常に重要だった。

個々のゲニウス

ローマ兵が拝んでいたゲニウスの頭(ウィンドボナで出土。2世紀ごろ)
どんなものでも神性があるとされればゲニウスという言葉を使ったが、より高位のゲニウスにはそれぞれ独自の名前が付いていた。ゲニウスは、一般に知られていない個々の場所や人によく使われた。すなわち、社会の最小単位である家族やその家である。家、扉、門、通り、地区、氏族などにそれぞれのゲニウスがあるとされた[9]。ローマの神々の階層はギリシア神話にならい、人間の家族をモデルとしている。父であるユーピテルは家父長制社会と同様に最高神とされ、母であるユーノーは神の女王とされた。この最高の神々の統一体が個々の家庭のゲニウスに細分化された。そのため、個々の女性のゲニウスは女性の子を産む能力を表し、ユーノーに呼応している。男性のゲニウスはユーピテルに呼応している[10]。

ユーノーは次のような様々な称号を伴って崇拝された。

Iugalis - 結婚
Matronalis - 既婚女性
Pronuba - 花嫁
Virginalis - 純潔
ゲニウスは守護霊とされることも多く、守護してもらうためにそれをなだめる必要があるとされた。例えば、乳幼児を守護してもらうために Cuba(眠らせるゲニウス)、Cunina(ゆりかごのゲニウス)、Rumina(授乳のゲニウス)の機嫌をとる必要があった[11]。これらのゲニウスがへそを曲げて役目を果たさないと、その乳幼児は危険にさらされる。


家父長 (pater familias) として描かれたブロンズ像のゲニウス(1世紀ごろ)
家庭内の祭壇であるララリウムは、ポンペイの数百の家(ドムス)で見つかっており、主に煙を外に逃がす開口部が天井にあるアトリウムの周辺にあった。ララリウムには常に同じ主題のフレスコ画があった。左右にラレースが描かれ、中央にその家族のゲニウス(1体または男女2体)が描かれている。そして、その下にゲニウスに向かって這っている1匹か2匹の蛇が描かれている。カンパニア州やカラブリア州には、ゲニウスとの関連で、幸運をもたらす蛇を飼う習慣が保持されていた[12]。ララリウムとは別のフレスコ画 (Casa dei Centenario) では、ヴェスヴィオ山の下に草地の蛇が描かれ、アガトダイモーン(よいダイモーン)だと記してある。ダイモーンはギリシア版ゲニウスとみなされていた。

 

 

 

 

 

 

 



ゲニウス - Wikipedia


オクタウィアヌスはアクティウムの海戦でローマ内戦に終止符を打ち、ローマに凱旋すると、偉大な権力と成功という明らかな神性の印をまとって元老院に現れた。その天才を認めた元老院は、全ての宴会で彼のゲニウスに献酒することを議決した。このとき彼はアウグストゥスに改名した。この考え方を背景にして、紀元前30年にその家族のゲニウスだったゲニウス・アウグスティ (Genius Augusti) を神格化することが議決された。それは、他の家庭の神と共に食事の度になだめられた[18]。この議決が皇帝崇拝の伝統の始まりである。しかし、その神性は地位に対するものとなり、皇帝個人に対するものではなくなっていった。ローマ皇帝たちは、個人としては不滅でもないし神でもないという十分な証拠を与えた。

インペラトルのゲニウスをなだめることで、配下の全軍団が皇帝の命に従うとされた。各地方の軍団にもこの考え方を拡大して適用し、属州のゲニウスという考え方が生まれた。例えば、ブリタンニアではローマのゲニウスやブリタンニアのゲニウスの祭壇が設けられ、さらにブリンタンニア内の軍団、コホルス、アラ、ケントゥリアに対応したゲニウス、カストラ(要塞)毎のプラエトリウム(宿舎)や軍団旗にまでゲニウスが考案され祭られた[19]。ゲニウスは軍だけのものではなかった。ガリア・キサルピナでは、多数の権威ある人や尊敬される人のゲニウスを生み出した。皇帝のゲニウス・ピリンキピス (genius principis) に加えて、解放奴隷の後援者のゲニウス、奴隷の所有者のゲニウス、ギルド後援者のゲニウス、慈善家のゲニウス、役人のゲニウス、親族のゲニウス、友人のゲニウスなどである。時には献呈の辞で他の言葉と組み合わせて「ゲニウスと名誉に」としたり、1対として「ゲニウスとユーノーに」としたりした[20]。

帝国期の現存する数百の献納や奉納や墓碑銘から、ゲニウス信仰が存在した範囲がわかる。決まり文句には次のような省略形があった。GPRは genio populi Romani(ローマ市民のゲニウス)、GHLは genio huius loci(この場所のゲニウス)、GDNは genio domini nostri(我々の主人のゲニウス)などである。テオドシウス1世はキリスト教を国教とし、紀元392年にゲニウスとラレースとペナーテースを信仰したら反逆とみなすという法律を制定し、公式にはこれらの信仰は行われなくなった[21]。ゲニウスの概念は、天使や精霊など異なる名前で様々な修正を加えられて生き残っていった。

ローマ帝国以降
キリスト教に守護天使が現れたのは、ゲニウス信仰の禁止の後のことである。守護天使の概念がゲニウスに影響された度合いは明らかではない。哲学的には、両者の類似は表面的なものだけである。守護天使はその被後見人とは全く別個の存在であり、神ではないが神のメッセンジャーである。守護天使が守護するのは個々の人だけである。その唯一の機能は被後見人を導くことである。ゲニウスは個人や場所や事物と完全に別のものとはされておらず、それらが本質的に有するエネルギーを表し、その力の源とみなされている。ゲニウスは単なる守護神ではない。

古代のゲニウスの概念はアラブ世界のジン (jinnīy) にも受け継がれている。『千夜一夜物語』に登場する精霊や魔人であり、そこから更に英語の "genie" が生まれた[22]。哲学的にはジンとゲニウスは同じではない。ジンも独立した存在であり、必ずしも個人に対応する存在というわけではない。また、"jinnīy" が "genius" から派生したという説も議論の余地があり、アラビア語の語源があるとも言われている。

ゲニウスの姿
ゲニウスの姿については、そのゲニウスが表す力や統一体を象徴するという以外決まりごとはなかった。ゲニウスは、カメオや沈み彫りなどの樹脂、彫像、帯状彫刻装飾、硬貨、記念碑、建築物、フレスコ画、花瓶の絵など様々なものに描かれている。例えば、ゲニウス・アウグスティはアウグストゥスを単に理想化しただけではなく、コルヌコピアを持つなど、彼の慈善的な力の象徴を伴っている。ゲニウスには翼があることが多い。ゲニウスは古代から現代まで常に何らかの形で描かれてきており、現在もそれが続いている。英語ではゲニウスの代わりに spirit という語を使うことが多い。例えばチャールズ・リンドバーグは自身の飛行機を "Spirit of St. Louis" と名付けたが、これはゲニウス・ロキに近い考え方が根底にあると思われる。チャールズ・ディケンズは『クリスマス・キャロル』で過去・現在・未来の「クリスマスの霊」を登場させているが、これもゲニウスに近い考え方である。

硬貨
古代の硬貨の浮き彫りには、それを発行する国や地方のゲニウスが描かれたものが多い。紀元76年ごろのスペインのデナリウス貨の表面には GPR(ローマ市民のゲニウス)の胸像が描かれている[23]。紀元270年から275年、クロアチアのシサクで発行された金貨(アウレウス)の裏面には GENIUS ILLVR の立像が描かれていた[24]。これは Genius Exercitus Illyriciani[25](イリュリア人軍隊のゲニウス)である。紀元134年から138年に発行されたローマのアウレウスでは、裏面に若者がコルヌコピアとパテラ(献酒皿)を持った姿が描かれ、GENIOPR という文字が刻まれていた。これは genio populi Romani(ローマ市民のゲニウス)を意味する[26]。