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多賀  

故其伊邪那岐大神者坐淡海之多賀也

 

 

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犬上御田鍬 - Wikipedia


犬上 御田鍬(いぬかみ の みたすき、生没年不詳)は、飛鳥時代の人物。名は三田耜とも記される。姓は君。冠位は大仁。

最後の遣隋使および最初の遣唐使を務めた、大和朝廷の中級官吏・外交官の一人。

出自
犬上氏(犬上君)は日本武尊の子・稲依別王の後裔とされる皇別氏族[1]。氏の呼称は近江国犬上郡(現在の滋賀県犬上郡および彦根市とその周辺地域)に由来する[2]。

経歴
推古天皇22年(614年)6月に矢田部造(名不明)とともに最後の遣隋使として隋に渡る[3]。翌推古天皇23年(615年)9月に百済使を伴って帰国した[4]。

舒明天皇2年(630年)8月に第1次遣唐使の大使として、薬師恵日と共に唐に遣わされる(このとき二人の冠位は大仁)[5]。舒明天皇3年(631年)[6]使節一行は皇帝・太宗と謁見した。この際、太宗はその道の遠いことを矜(あわ)れみ、担当の役人に勅して毎年の入貢をやめさせたという[7]。舒明天皇4年(632年)8月に使節一行は唐使・高表仁を伴って対馬国に着いた。この際、霊雲・旻・勝鳥養や新羅の送使も行をともにしている[8]。なお、高表仁は10月に難波津に到着し[9]、翌舒明天皇5年(633年)1月に唐へ帰国したが[10]、この間の三田鍬らの動向は明らかではない。




 

 

 

 

 


犬上郡 - Wikipedia

 

 

犬上郡(いぬかみぐん)は、滋賀県(近江国)の郡。

人口20,036人、面積157.2km²、人口密度127人/km²。(2024年4月1日、推計人口)

以下の3町を含む。

豊郷町(とよさとちょう)
甲良町(こうらちょう)
多賀町(たがちょう)
郡域
1879年(明治12年)に行政区画として発足した当時の郡域は、下記の区域にあたる。

甲良町・多賀町の全域
彦根市の大部分(松原町、古沢町、里根町、原町、野田山町より南西かつ三津屋町、日夏町、清崎町、賀田山町、太堂町、安食中町より北東[1])
豊郷町の北東部(安食西・安食南・三ツ池・四十九院・石畑・八目・雨降野・八町)
地理
東部地域は南北に走る鈴鹿山脈の西麓にあたり、東麓側にある三重県いなべ市(旧・員弁郡)および岐阜県大垣市上石津地域自治区(旧・養老郡)と県境を接する。主な山として霊仙山と三国岳がある。多賀町域の山間部は石灰岩帯であり、総延長距離全国第4位の大洞窟として知られる鍾乳洞の河内風穴を擁している。

地域は扇状地であり、標高は東に高く、西に低い。最も面積の大きい多賀町は町域の大半が山地であり、平地が少ないのに対して、甲良町と豊郷町は全域が平地である。そして、これらの平地は湖東平野の一部をなしている。

地域の北部を流れる芹川は、霊仙山に発して西進し、彦根市域に入ったのち、琵琶湖に流入する。南部を流れる犬上川は、東方の鈴鹿山脈に発した北谷川と南谷川が多賀町川相(かわない)で合流し、犬上川となって西進。多賀町域から甲良町域・彦根市域を経て琵琶湖に達している。また、最も南部を流れる宇曽川は、鈴鹿山麓の東近江市北東部の永源寺地区の北東に発して西進し、愛知郡愛荘町域・豊郷町域・彦根市域を経て琵琶湖に注ぐ。

中世以前
近世以前は、いぬがみのこおり、いぬがみこおり、いぬがみごおり、いぬかみごおり、とも呼ばれた。日本武尊(やまとたけるのみこと)の子・稲依別王の後裔と『記紀』に記載される地方豪族・犬上君(いぬがみのきみ、犬上氏)や、天津彦根命の後裔で三上氏の同族である犬上県主(いぬがみのあがたぬし)らが勢力的地盤としていた地域であり、郡名もそれら氏族の名に由来している。

古代
下記の郷が置かれた。

多賀郷(たがのごう) / 多可郷(たかのごう)
水沼村(みぬまむら) - 現在の多賀町敏満寺字尼子の南部一帯にあった。現存する日本最古の地図の一つであり、現存する世界最古の地籍図の一つとも考えられる「東大寺領近江国水沼村墾田図」(天平勝宝3年〈751年〉に作成された絵地図。正倉院所蔵)で有名[2]。後世、東大寺の荘園となる[3]。
甲良郷(かわらのごう)
安食郷(あじきのごう、あんじきのごう) - 現・豊郷町域の半分。阿直岐氏の居住地とされる。
覇流村(へるむら) - 犬上郡と愛智郡の郡境で琵琶湖と荒神山に挟まれた曽根沼(現在は彦根市に所在)一帯。「東大寺領近江国水沼村墾田図」に記された水沼村と同様、「東大寺近江国開田図」に記述がある。後世、東大寺の荘園となる[3]。
中世
下記の荘が置かれた。

犬上荘(いぬかみのしょう) - 領家は、広隆寺領、興福寺領、山門家領、ほか。
多賀荘 - 領家は多賀神社(現・多賀大社)。
水沼荘(みぬまのしょう) - 水沼村を前身とする荘園。領家は東大寺[3]。
高宮庄 - 領家は山門領。
甲良荘(かわらのしょう) - 尼子郷(尼子氏発祥地)、下之郷(多賀氏の本拠地)、藤堂村(藤堂氏発祥地)、法養寺村(甲良氏発祥地)、ほか。
安食荘(あじきのしょう、あんじきのしょう)
安養寺荘
覇流荘(へるのしょう) - 覇流村を前身とする荘園。領家は東大寺[3]。
近世以降

『木曽海道六拾九次之内 高宮』
天保6 - 8年(1835年-1837年)頃、歌川広重[4]
江戸時代には中山道が郡の中央を南北に走り、犬上郡内の宿場としては高宮宿(64番目、現・彦根市高宮町)が設けられていた。また、旧・坂田郡の鳥居本宿(63番目、現・彦根市鳥居本町)を北の起点として始まる朝鮮人街道も郡内を通っていた。ただしこれらの全ては現在、近代になって犬上郡から分かれた彦根市の市域となっている。