魯迅の魯  魯というのは国の名前でもありまして周の典礼など継承していはったそうだし孔子の古里 | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

魯迅の魯  魯というのは国の名前でもありまして周の典礼など継承していはったそうだし孔子の古里

 

 

紀元前1000年

とは

いまから

三千年の前ほど

 

イスラエルはソロモン王の栄華の時かな

 

 

 

 

 

魯(ロ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

 



Lu

中国,周代の諸侯国の一つ (前 1055~249) で,山東省の曲阜に都した。周の武王の弟の周公旦が封じられたのに始るが,任地の曲阜におもむいて魯侯となったのは,その子の伯禽 (はくきん) で,その地の統治には多くの労苦があったという。以後 34代 800年あまり続いたが,初期の状況については伝説的要素がほとんどであり,不明な点が多い。春秋時代の 14代隠公から 25代哀公までのことは孔子が編集したという『春秋』やその注釈書の『左伝』に詳しい。国内では春秋時代初期の桓公の子の三桓氏が代々交互に権力を握り,君主の廃立さえ行い,前6世紀後半の昭公は三桓氏に敗れて国外に逃亡し,帰国できないまま亡くなったという例もある。対外的には斉,晋,楚の3強国の勢力にまったく左右されていた。戦国時代にはますます弱小国になり,最後の頃公 (けいこう) が頃公 25 (前 249) 年に楚の考烈王に滅ぼされた。周王の権力が低下した春秋時代に周の文化や制度を保持し続けた国として知られる。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典



日本大百科全書(ニッポニカ) 「魯」の意味・わかりやすい解説



中国、周代の諸侯国の一つ。姫姓。周の武王の弟で、周王朝創建の大功臣である周公旦(しゅうこうたん)が曲阜(きょくふ)(山東省曲阜県)周辺の地に封ぜられたのに始まる。ただし、周公旦は都にとどまって周王を補佐し、長子の伯禽(はくきん)が封地に赴いた。その地はもと東夷(とうい)の地であり、最初は統治に苦心したといわれる。春秋時代には、斉(せい)、晋(しん)、楚(そ)などの強国の圧迫を受けて国は振るわず、とくに、その後期になると、その君主であった桓(かん)公の子孫の孟孫(もうそん)氏、叔孫(しゅくそん)氏、季孫(きそん)氏のいわゆる三桓氏が国の実権を握って公室を三分し、ついには季孫氏の臣下の陽虎(ようこ)に実権を奪われるありさまであった。その後、孔子が君権の回復を図ったが失敗し、戦国時代には国はますます衰え、紀元前249年、楚に滅ぼされた。春秋時代、周の王室が衰えて以後、魯は周の文化をもっともよく伝える国であった。そのような国に生まれた孔子は、周公の理想政治を回復しようとして果たせなかったが、その政治思想は諸国に散らばった弟子によって伝えられ、後世中国の歴史に絶大な影響を与えた。

[江村治樹]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 



イスラエル

 

ISHUEIYAEL

 

 

神と人に勝ったのは

IYAKOPHUE

 

YAKOHE

IYAKOBU

 

ヤコブ

ヤコーヘン

 

 

アブラハム

イサク

双子の

弟の方です

兄はエサウ

 

父の意向は無視したのは

エサウの方だ

兄の方

 

 

弟は長子権を継承するのですが

直接

神さまと

格闘したのです

一晩中

つまり

日没からずっと旭日まで

川のこっちがわ

あっちがわに

渡る前

 

家族を引き連れている

母のレベッカの兄のハランの土地から

イスラエルの方面に

向かいます時だからね

 

そして

祝福とは

神さまの顔を

見合う事を

許可されたのです

 

本来

アブラハムの礼拝している神が

三方あるんで

 

三一とは簡単ないいかた

 

 

TriUni

 

 

 

 

三つ葉のクローバーで説明したのは

 

アイルランドに

渡る

緑の司教です

 

パトリキウス

さん

セントパトリック

シャムロック

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Gewisse - Wikipedia
History
Evidence of Germanic settlements appearing around Abingdon and Dorchester on Thames in the 6th and 7th centuries[8] has been used to make assumptions about the origins of the Ġewisse, presuming them to be Germanic mercenaries that may have been settled in the region after the end of the Roman occupation to protect a border region between Britons.[9] Another theory holds that the name of the tribe and its founding house is Brittonic and that they originated from the area that would become Old Sarum.[10]

The early Saxon myths say that the Gewisse captured Searobyrig (Old Sarum) in AD 552 and Beranbyrig (Barbury Castle) from the Britons in 556.[11] Birinus converted the Gewisse to Christianity in AD 636 by baptising their king Cynegils and establishing the Diocese of Dorchester.[12] The Gewisse killed the three sons of Sæbert of Essex in about 620, defeated the Britons at the Battle of Peonnum in 660 and by 676 had sufficient control over what is now Hampshire to establish a see at Winchester.[13]

The conquests by the royal house of Gewisse in the 7th and 8th centuries led to the establishment of the Kingdom of Wessex,[14] and Bede treated the two names as interchangeable.[12] It was only during the reign of Cædwalla (685/6 – 688) that the title "king of the Saxons" began to replace "king of the Gewisse". Barbara Yorke has suggested that it was Cædwalla's conquest of the Jutish province and the South Saxons that led to the need for a new title to distinguish the expanded realm from its predecessor.[15] However, as there are no surviving documents to indicate how these people described themselves, the most that can be said is that by the time Bede was writing (early 8th century), the phrase "West Saxons" had come into use by scholars.

 

 

イングランド


イングランド王国 - Wikipedia

『イングランド王国(イングランドおうこく、英: Kingdom of England)は、927年のアングロ=サクソン七王国の一つウェセックス王国の王アゼルスタンのイングランド全土統一から1707年のスコットランド王国との合同まで存在した国家である。ウェセックス王エグバートの825年のイングランド統一から最初のイングランド王と言われることが多いが、実際の称号はブレトワルダ(覇王)であった。

スコットランド王であったステュアート朝のジェームズ6世が1603年に王位を兼ねて以来(イングランド王ジェームズ1世)、スコットランドとは同君連合の関係にあったが、アンの時代の1707年の合同法により、スコットランド王国と合同してグレートブリテン王国となった。』

 

以上はウイキペディア参照。

 



古代イスラエル - Wikipedia
士師の時代から王政へ
サムエル記によると、紀元前1080年ごろペリシテ人が北部のガリラヤを制圧し、その地域のイスラエル人が奴隷となると、最後の士師で預言者でもあったサムエルは、サウルをはじめてのイスラエルの王として任じた。この王はペリシテ人との戦いの必要からでた軍事的な指導者であった。

サウル王の死後、サムエルに見出されたダビデは南部のユダ族をまとめて王となり、都ヘブロンを中心とした王国を建てる。これに対して北部イスラエルの11部族はサウルの死後、その子イシュバールを王とし、都マハナイムを中心に王国を建てた(サムエル下2:9-11)。これら二王国の内紛は7年以上続くが、イシュバールの死後、両国はダビデを王として認めることで和解した。

紀元前995年頃、ダビデは両王国の中心に位置するエルサレムのエブス人を倒し、以後、ここを拠点にペリシテ人らを退け、イスラエル王国(統一王国)を築いた。

ダビデの死後、紀元前963年にその子の一人ソロモンが国王を継ぐ。ソロモンは引き続き国の体制を整え諸外国との交易を盛んにし、またエルサレムに大きな神殿(エルサレム神殿)を建てた。この神殿は後世、第一神殿と呼ばれることになる。

ソロモンの死後、部族間の抗争により統一体制は崩れ、やがて10部族がイスラエル王国(北王国)として独立し、南のエルサレムを中心とするユダ王国(南王国)と分離することになる。以後両国は盛んに争ったが、この戦争によって国力が衰えた。

北王国の首都サマリアは紀元前721年にはアッシリアによって陥落した。アッシリアのサルゴン2世はサマリアのイスラエル人指導層などを奴隷として連れ去りまたは追放して、その土地にメソポタミアなどからの異民族を移住させた。ここにイスラエル王国は滅亡する。このとき故地から引き離されたイスラエル人たちは後に「失われた十部族」と呼ばれている。またサマリアにはアッシリア支配下の各地からの移民が移り住み、イスラエル王国の故地に残ったイスラエル人と移民との間に生まれた人々がサマリア人と呼ばれるようになった。サマリア人は、混血したことや移民たちの信仰をユダヤ教に混交させたことから後に差別される存在となった。

貢納国としてのユダ王国

イスラエル分断後 イスラエルとユダの王の系譜
一方の南部のユダ王国はアッシリアの貢納国(英語版)として独立を保った。ヒゼキヤ(前715?-686年)が王のときにアッシリアとの間に戦争を起こすが、前701年にはエルサレムが包囲され陥落されそうになり、和議を結んで再び貢納国として独立を保った。 前612年にアッシリアが新バビロニアに滅ぼされたため、旧北王国の領土が解放された。これを受けてヨシヤ(前647-609年)は国内の宗教改革に取りかかった。前622年に祭壇から発見されたとする『申命記』の記述に従って、国内の祭儀と司祭制度を中央集権化した(申命記改革)。

前597年、新バビロニアのネブカドネザルがエルサレムに侵攻し、ヨヤキン王を含めた1万ほどのイスラエル人をバビロンに連れ去り捕虜とした。これは第一回の捕囚と呼ばれる。その後ユダ王国は新バビロニアの貢納国となったが、10年後にゼデキア王が完全独立を試みる。だが紀元前586年にはネブカドネザルによってエルサレム城壁が崩され神殿は破壊された。ここにユダ王国は滅亡。このときもバビロンに多くが捕虜とされて連れて行かれたが、これは第二回の捕囚と呼ばれる。捕囚されたユダヤ人たちのバビロンでの生活はかなり自由であった。

ユダヤ人のエルサレム帰還
新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝(ペルシア)のキュロス2世(前600年頃-前529年)は、紀元前538年にイスラエル人を解放する。だがバビロニアでの生活を捨ててエルサレムに帰還したユダヤ人は2~3割と言われている。それ以外の多くは自由意志でバビロニアに残留した。 ペルシア王ダレイオス1世治下の紀元前515年、ゼルバベルの指導でエルサレム神殿が再建された。これは第二神殿と呼ばれている。紀元前458年にエズラの指導のもとで二度目の集団帰還が行われた。またネヘミヤとエズラとがこの時期、国の整備とユダヤ教の形式とを固め、これが現代のユダヤ教またはユダヤ文化へ直接に影響している。ユダヤ人の民族外結婚を禁じたのもこの時であり、これによってユダヤ民族の独自性が今日にまで保たれている。

ヘレニズム時代
アレクサンドロス大王
紀元前333年にマケドニア王国のアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)がペルシアのダレイオス3世を打倒すると、ユダヤ地方もギリシアの支配下に入った。ヘレニズム国家支配時代の始まりである(ヘレニスト)。

ヘレニズム国家による支配は紀元前143年まで続くが、ギリシアの自由政策のもとユダヤ人による自治と宗教の自由は守られ国内の商業も盛んとなった。同時にユダヤ地方がギリシャ風のヘレニズム文化の影響を受けていくことになる。

プトレマイオス朝の支配
アレクサンドロス大王が逝去すると、その領土は将軍たち(ディアドコイ)によって分割され、その支配をめぐる争いがおきた(ディアドコイ戦争)。ユダヤを含むシリア地方南部ははじめエジプトを領したプトレマイオス朝の支配を受けたが、この地方に手を伸ばすセレウコス朝(シリア)との間で何度も戦いが繰り返された。

この時代、紀元前3世紀の中ごろ、エジプトのアレクサンドリアにおいて聖書がギリシャ語に翻訳された。これを『七十人訳聖書』という。

セレウコス朝の支配
セレウコス朝は数次にわたる戦いのすえ、ついに紀元前198年にユダヤ地方を含む地域の支配権を獲得した。

紀元前175年にはセレウコス朝のアンティオコス4世エピファネスがプトレマイオス朝を圧迫し、アレクサンドリアも陥落寸前となった。ここにおいて急速に勢力を伸ばしていた共和政ローマが中東における巨大勢力の誕生を危惧して、中東情勢に介入したため、プトレマイオス朝は滅亡を免れた。このアンティオコス4世はユダヤにおいてもヘレニズム化政策を強引に押し進め、エルサレム神殿での異教崇拝などを強要したため、ユダヤ人の反感は高まっていった。

ハスモン朝、ヘロデ朝とローマ支配時代
マカバイ戦争とハスモン朝
詳細は「マカバイ戦争」および「ハスモン朝」を参照

ハスモン朝の拡大 マカバイ家の蜂起(紀元前167年)からアレクサンドロス・ヤンナイオスの治世(紀元前76年)まで
紀元前167年になると祭司マタティアとその息子たち(マカバイ家)をリーダーとする反乱が勃発した。マタティアがなくなると息子のユダ・マカバイ(ユダス・マカバイオス)をリーダーとして戦闘が継続され、紀元前164年にエルサレム神殿を奪回した。ユダの死後は兄弟のヨナタンが指揮をとった。

この一連の戦いをマカバイ戦争といい、この戦争のユダヤ人側の観点による記録が「マカバイ記」である。ヨナタンとその兄弟シモンは諸勢力との合従連衡をたくみに繰り返し、紀元前143年にはセレウコス朝の影響を脱してマカバイ家による支配を確立させた。ここに実に数百年ぶりにユダヤ人による独立国家が回復した。

この国家は紀元前130年ごろ、セレウコス朝の支配力の増大によって、一度は独立を失ったが、セレウコス朝の内紛によって再び独立を獲得した。シモンの息子ヨハネ・ヒルカノス1世は父の死後、父の保持していた大祭司にして首長というユダヤ神権政治の権威を世襲した。このマカバイ家の世襲支配によるユダヤ独立国家を、祭司マタティアの曽祖父ハスモンの名からハスモン朝という。

ヨハネ・ヒルカノス1世は軍事的才能と傭兵の力によって支配領土を拡大することに成功した。ハスモン朝のやり方は伝統的なユダヤ人の反感を買うこともあった。この時期にユダヤ教敬虔主義からエッセネ派、ファリサイ派、サドカイ派が起こり、特にエルサレム神殿祭司層を中心としたサドカイ派と在家で民間基盤のファリサイ派の対立が激しくなる。

ハスモン朝の内紛とヘロデ朝の成立
詳細は「ヘロデ朝」を参照

紀元前89年頃の東地中海およびオリエント
ヨハネの子で親サドカイ派のアリストブロス1世がはじめて「王」の称号を名乗った。以後、弟アレクサンドロス・ヤンナイオス、さらにその死後、親ファリサイ派の妻サロメ・アレクサンドラは息子ヨハネ・ヒルカノス2世を大祭司にたてて統治した。

サロメが死ぬと、ヨハネ・ヒルカノス2世が王位を継いだが、弟アリストブロス2世は武力にものを言わせてこれを奪取。王位についた。

紀元前63年にはローマのポンペイウスが中東へ遠征してきてセレウコス朝を滅ぼした。当時のハスモン朝はヨハネ・ヒルカノス2世とアリストブロス2世の争いが続いていた。両勢力はローマへの接近を図るが、ローマは無能なヒルカノス2世のほうが傀儡にふさわしいと考え、支援したため、アリストブロス2世は死に追い込まれた。

ユダヤはこうしてある程度の自治を認められながら、ローマのシリア属州の一部となった。この時期、ローマに取り入ってユダヤの実権を握ったのはヒルカノス2世の武将でエドム人系のアンティパトロスであり、ユリウス・カエサルからも地区統治を委任された。紀元前43年にアンティパトロスが暗殺され、息子ファサエロスとヘロデが後継となってからも親ローマ路線を取った。カエサル暗殺後はガイウス・カッシウス・ロンギヌスへ味方し、フィリッピの戦いでカッシウスらが敗北した後はマルクス・アントニウス、アクティウムの海戦でアントニウスが敗北した後はアウグストゥスへ従った。

紀元前40年、先の王アリストブロス2世の息子アンティゴノスが隙に乗じてヒルカノス2世とファサエロスを捕らえると、ヘロデは辛くも脱出。ローマにわたって支援を要請した。


ヘロデ大王によって改装された第二神殿を再現した模型 イスラエル博物館
ヘロデはユダヤの王という称号を認められ、エルサレムに帰還してアンティゴノスを撃破。紀元前37年に捕虜となったアンティゴノスが処刑されハスモン朝が滅亡し、ヘロデが開祖となるヘロデ朝が成立した。大王と称されたヘロデは純粋なユダヤ人でなかったので、ヒルカノス2世の孫マリアンメ1世を妻にするなどハスモン朝の血統を利用しながら、自らの正当性を確立していった。そして不要となるとハスモン朝の血を引く人々をすべて殺害していった。

猜疑心にとりつかれたヘロデが紀元前4年に血にまみれた生涯を終えると、その息子たちによってユダヤは分割統治された。ローマはユダヤ王の称号をヘロデの息子たちに与えず、ユダヤ、エルサレム、サマリアをヘロデ・アルケラオスが、ペレヤとガリラヤをヘロデ・アンティパスが、ゴランとヨルダン川東岸をヘロデ・フィリッポスがそれぞれ統治した。結局アルケラオスの失政のため、ユダヤはローマの総督による直轄支配となった。

対ローマ戦争 
詳細は「ユダヤ戦争」、「キトス戦争」、および「バル・コクバの乱」を参照
ローマ帝国はユダヤでサンヘドリン(最高法院)に宗教的権威を認めながらも政治的権威を与えなかった。ユダヤは総督の支配におかれたが、総督たちがユダヤ文化を軽蔑し、失政を繰り返したこともユダヤ人の反感を募らせた(そもそもユダヤ人にはローマ帝国の国是である政教分離の概念が無かった)。その間、ヘロデ大王の孫アグリッパ1世がユダヤの統治をしたこともあったが、死後はまた総督直轄に戻された。

66年、ついにユダヤ人の不満が爆発し、ここに独立を目指してユダヤ戦争(第1次ユダヤ戦争)が勃発。しかし70年にはローマ軍が半年にわたってエルサレムを包囲し兵糧攻めにしてついに陥落、神殿も破られた。(この間の事情はフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』にくわしい。)。

115年からはキトス戦争が起き、132年にはバル・コクバに率いられた反乱(バル・コクバの乱)がおきた。バル・コクバはユダヤの独立を達成し、キリスト教徒を除く全ユダヤ人からメシアであると承認された。彼はエルサレムで二年半の間イスラエルの大公(ナーシー)として統治した。彼の公国は135年にローマ帝国によって征服された。

大きな反乱が続発し、ユダヤ人の統治の困難さに手を焼いたローマ人はユダヤ地方からユダヤ色を一掃しようと考え、ユダヤ人が忌み嫌っていたペリシテ人の名前をとり、この地方をパレスチナと名づけた。ユダヤ人たちはこれ以前にもすでに広くローマ帝国内や各地に離散していたが、ここに再び多くのユダヤ人が離散を余儀なくされ、長いディアスポラの時代が始まった。ローマによるエルサレム神殿破壊の結果、神殿祭儀中心の古代ユダヤ教は終焉し、以後ユダヤ教の学問の中心はガリラヤ地方に移り、ファリサイ派の伝統を下地に、今日の現代ユダヤ教にまで発展するユダヤ教の原型ができた。