GOODNESSはある 亡い 無い 失っている状態かどうか、NONGOODNESS
『西洋の哲学においてはたいていの場合、身体や欲望、感情などは知から排除されてきたが、東洋の伝統思想の根底には、事柄の真相は知だけでとらえることはできず、むしろ身心全体によってはじめて把握されるという考え方があった。しかも、そのことを単に知るだけでなく、実際に「修行」を通して自分自身のものにすることがめざされてきたと言ってよいであろう。そこに東洋思想の大きな特徴を見いだすことができる。さらに連載記事〈日本でもっとも有名な哲学者はどんな答えに辿りついたのか…私たちの価値観を揺るがす「圧巻の視点」〉では、日本哲学のことをより深く知るための重要ポイントを紹介しています。』
以上は以下の記事から参照。
この身体はどこからきて、どこへいくのか…日本の哲学者が苦悩した「西洋と東洋の本質的な違い」 (msn.com)
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ほんとにそうかな
と
疑いますと
御徳だ
どこまでも
地道に
検証しますと
意図して
作業に取り組みます
それこそ
御徳ですよ
心理と
真理
コンフィデ
フィイデ
事実です
よ
簡単だ
いちいちあまりにも
複雑に思考して
道具を沢山用意しても
結果をご覧くださいね
何があるの
大切な事は
一体なに
と
常に疑問を抱いている事
観察は
予見のためです
あらかじめ
先を知りたいなら
観察す
物事を
空想で
理論化して
そして
数字を媒体にしないで
言
を
利用する時は
非常に
厳密な定義を必要とするのです
そこは
不完全な人は
無理ではないかな
裁きは無理だ
審判行為は
本来
人は不確実な状態を常に維持するので
無理なのですよ
厳密さを追求するのは自由だけどもね
でも
そもそも
無理だ
ほどほどにしないと
おかしくなるよ
「「「「「
」」」」」
GOODNESSはあるなら加増するいつまでもどんどん増やす事が出来る増やしたい人は
もし
嫌だとすると
GOODNESSは
あるまま
そのまま
です
増える事は無い
その人自身に内部に於いては
という
個別の条件が付く
正に
その人だけは
です
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であるので
積算
かける
かけあわせ
一つを
複数にする手法は
いろいろな
アプローチがある
同じ経験は
同時にその場所に居まして
その人の姿を
見ていても
観ていても
全く善徳は⓪の人もある
ある者は
その善徳を
常に
受け止めている
受け皿を既に知っている
うつわを
汚れない器だから
常に
汚れない
あの蓮の葉っぱのように
汚れはつかない
跳ね返すから
構造が
生物の物体と物質の
複数の
組み合わせは
materialです
MATTER
その内容によって
構成した
結果が
違います
ゆえに
決して汚物があるとしても
汚れないから
という状態を
得ているなら
どうでしょうか
と
いう事
どんなに
汚い御品物でも
問題は無い
し
支障もない
無理だと
いう者も大勢あるが
しかし
きたない
おえ
と吐き気があっても
その本質を
知る事は
重要であり重大なのです
そこに
意図するか
単純だ
御徳を
知っているかどうか
でもある
Sophiaとは
その部分
智慧
知恵
では無いのですから
恵みとは
天主
から
拝領するもの
すまり
下賜品
正に
母の鳥が
雛に
口移しで
餌を
和かにして
与える品物それ
こそ
滋養品
だ
育成
育み
養うため
であるからです
その子
弱き
小さな子を
そして
みな
幸福を追求はしている
人だから
動物の幸福と
人の幸福の
違いがあるかないか
など
議論もある次第であるが
家畜よりも
人を
卑下して
しまう
人も
いますね
複数
あんな人
存在を拒否する方もあるし
人というのは
頭脳神経細胞システムのある
ために
そうして
妄想を
自分の本位にしてしまう
認知行動パターンもあるのです
その自由は
それぞれにある
であるので
明確な理由で判断をして出来る
有効な
能力が
どうしても
必要だと
いう事だ
それは
合理なのです
それを
フィロソフィア
哲学とは違いである
希哲学
としたのは
あきらかにする
という
意味で
哲学にしているが
さて
信念体系にしては
ならないのですよ
どこまでも
事実を
どう
認知するか
その基盤を
探求する
作業を
哲学といいます
Sophiaでは無いのです
知恵は智慧には成らないから
啓示とは
人よりも
永久に
善意である
完全な善からの
情報源
です
しかも
確実にある品物ですので
それは
人の頭脳で開発した御品物では無い
御大切な品物は
何かと
人自身は
おもい
めぐらすことこそ
賢明
ワイズ
徳目の一つ
そうして
行為するなら
徳を得ると
いうのは
功徳と
いい
メリット
と云っているのです
善徳の事
純粋な善徳です
ですから
生命を保持している存在を殺せ!
消せ!
なんて
いう
思いを抱いた者は
大罪を
自分につみました
という
証明が
その個人の内実に
誠実にあるのです
荘厳に
シンプルに
酔わないです
何も
その事は
その個人は理解できる
しかし
とぼける人もあるものだ
それはその方の
たしなみ
それです
どうにもならない
その人の
自由自主だから
判断結果は
その私的行為の結果です
公になるか
ならないかは
知りません
自分で
やる必要があるかもしれない
それをしたのは
サウルさん
ベンジャミン族の
金持ち青年でしたね
イスラエルの正当な種族の一人
偉ぶる若者でしたね
南山堂