Ur ウルという都市はメソポタミアの中心都市であり、アブラムさんとロトは西に向かったはじめの場所 | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

Ur ウルという都市はメソポタミアの中心都市であり、アブラムさんとロトは西に向かったはじめの場所

Flag of the Assyrians - Shamash - Wikipedia

"The Enunmah, translated as either ‘The Strong Room or The House of Plenty,’ is located southeast of the ziggurat. The building was a sanctuary surrounded by storage rooms, where cuneiform tablets recording temple revenues were kept. It was originally built sometime in the prehistoric period of Ur, its purpose during that time is unconfirmed, but it most likely served as a storage house. Under the kings Ur-Nammu and Shulgi, it was rebuilt as a temple dedicated to the Moon god Nanna and his consort Ningal. While it was refurbished at least 15 times over the centuries, the ground plan of the structure remained the same from its pre-historic beginnings, until the seventh century BCE. It was not until the Neo-Babylonian period that it underwent alterations under King Nebuchadnezzar, and modified again during Cyrus’ Achaemenid occupation."  from  E-Nun-Makh Building – Urima

 

 

 

 


エ・ヌンマハ(E-nun-mah)神殿

E-dub-lal-mah(王のための建物、

エ・ギパル(E-gi-par、高位の聖職者の住処)

エ・フルサグ(E-hur-sag、神殿の建物の1つ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ウル - Wikipedia

 

 

1625年、ピエトロ・デッラ・ヴァッレ(英語版)がウルの遺跡を訪れ、奇妙なシンボルがスタンプされ、瀝青で固められた古代のレンガの存在、および彫刻の施された印章と思われる黒大理石の断片の存在を報告している。

ヨーロッパ人考古学者たちはテル・エル=ムッケイヤルがウルの遺跡だと特定していなかった。この遺跡をウルの遺跡だと特定したのはヘンリー・ローリンソンで、彼はウィリアム・ロフトゥスが1849年に持ち帰ったレンガから、ウルの地名を解読することに成功した[40]。

ウルの遺跡は大英博物館のために、また外務・英連邦省の指示よってイギリスのバスラ副領事ジョン・ジョージ・テイラー(英語版)によって1853年と1854年に初めて発掘された[41][42][43]。テイラーはウルのジッグラトと、後に「審判の門(Gate of Judgment)」の一部であることが特定されることになるアーチ構造を発掘した[44]。

ジッグラト最上段の四隅でテイラーは最後のバビロン王ナボニドゥス(ナブー・ナーイド、前539年)の碑文がある粘土製シリンダーを発見した。これは彼の息子ベル・シャル・ウツルへの祈りで締めくくられており、ベル・シャル・ウツルは「ダニエル書」に登場するベルシャザルにあたる。それ以前にも、イシン王イシュメ・ダガンとウル王シュ・シン、そして前14世紀のカッシートのバビロン王クリガルズがこのジッグラトを再建した痕跡が残っているほか、ネブカドネザルもこの神殿の再建を行ったと主張している[45]。

テイラーはさらに興味深いバビロニアの建築物をこの神殿から遠くない場所で発掘した。古代のバビロニアのネクロポリスの一部である。ウルの全域で彼は後期の時代の豊富な埋葬遺構を発見した。後の時代、その神聖さ故にウルは墓地として人気のある場所となり、人がすまなくなった後でさえネクロポリスとして使用され続けていたように思われる[45]。

この時代の典型として、テイラーによる発掘は情報を破壊し、遺丘を曝け出すものであった。ウルの遺跡は未発掘のまま、現地人たちによって自由に使えるようになった4,000年前のレンガやタイルが、その後75年あまりにわたって建材として使用された[46]。大英博物館はアッシリア地方における考古学的調査を優先することを決定していた[44]。

テイラーの時代の後、ウルの遺跡には多数の旅行者が訪れ、そのほとんどが古代バビロニアの遺構、彫刻された石などが地表に横たわっているのを目撃した[45]。この遺跡は遺構が豊富であり、比較的探索しやすいと考えられていた。1918年にレジナルド・キャンベル・トンプソン(英語版)が数度の調査を行った後、H・R・ホール(英語版)が1919年に大英博物館の事業としてウルで1シーズンの調査を行い、その後のより広範な研究の基礎を築いた[47][48]。



ウルの航空写真(1927年)
大英博物館とペンシルベニア大学の資金によって、1922年から1934年まで、考古学者チャールズ・レオナルド・ウーリー卿の指揮で発掘が行われた[49][46][50]。総計約1850の墓地が発見された。その内の16基は「王墓(英語版)と呼ばれ、ウルのスタンダードなど多くの貴重な副葬品が収められていた。この王墓の多くは前2600年頃に年代付けられる。発見された王墓の中には王妃プアビ(英語版)[51]のものと考えられる未盗掘の墓もあった。彼女の名前はこの墓から見つかった円筒印章から知られているが、他に2点の無記名の印章も同じ墓から見つかっている。彼女以外にも多くの人々が人身御供として一緒に埋葬された。ウルのジッグラトのそばでは、エ・ヌンマハ(E-nun-mah)神殿とE-dub-lal-mah(王のための建物)、エ・ギパル(E-gi-par、高位の聖職者の住処)、エ・フルサグ(E-hur-sag、神殿の建物の1つ)が発掘された。この神殿の境内の外側には、日常生活が送られていた家屋が多数見つかった。王墓群の下の層の発掘も行われ、3.5メートルもの厚さを持つ堆積土の層(layer of alluvial clay)が最初期の居住地の層を覆っているのが確認された。最初期の層からはウバイド期の土器が見つかっており、これはメソポタミア南部における定住の最初の段階のものである。ウーリーはこれらの発見について後に多くの論文と本を書いている[52]。ウーリーのウルにおける発掘調査の助手の1人がマックス・マローワンである。ウル遺跡での発見はその王墓群の発見と共に世界中の主要メディアのヘッドラインを飾った。この結果、ウルの遺構は多くの訪問者を惹きつけた。こうした訪問者の中には有名なアガサ・クリスティーがおり、彼女はこの時に知り合ったマックス・マローワンと結婚した。

この頃、ウルにはバグダードとバスラを結ぶ路線の「ウル・ジャンクション(Ur Junction)」と呼ばれる停車場からアクセスすることができた[53]。

ウル王墓が初めて発見された時、発見者たちはそれがどれほど大きいものであるか知らなかった。彼らは砂漠の真ん中で2つの発掘坑を掘ることから始め、発掘を継続することで何かを発見できるかどうか見定めた。発掘隊は当初、チームA、チームBという2つのチームにわかれていた。両チームは最初の数か月で発掘坑を掘り、金製の飾りや土器の小さな破片などを収集し、埋葬地の痕跡を発見した。これは当時「ゴールド・トレンチ(gold trench)」と呼ばれていた[54]。最初の発掘シーズンが終わるとウーリーはイギリスに戻り、秋に第2発掘シーズンを始め発掘を継続した。このシーズンの終わりまでに、彼は多くの部屋に取り巻かれた中庭を発見した[55]。第3発掘シーズンにおいて彼らはそれまでで最大の発見をした。発見したのは王の命令で建てられたと考えられた建物と、高位の神官の住居であったと考えられた建物であった。第4シーズンと第5シーズンの終わりが近づく頃には、数多くの出土品が見つかっており、発掘隊は実際の発掘による物品の発見よりも、発見したものの記録の方にほとんどの時間を費やすようになっていた。金製の飾りから土器や石まで数多くの遺物が発見された。墓の中からはいくつかリュラ(英語版)もあった。最も重要な発掘品の1つはウルのスタンダードである。6シーズン目の終わりには、1850の墓が発見され、そのうちの17が「王家の墓」と考えられた[56]。ウーリーは1934年に王家の墓の発掘を終えた。彼は一連の埋葬跡を発見した。彼はこれらの埋葬跡を「王家の墓(Royal tombs)」および、「死の穴(Death Pit)」と呼んだ。多くの従者(servants)が殺害され王族と共に埋葬されたが、ウーリーはこれらの従者が喜んで死んで行ったと考えていた。ウーリーとその妻で協力者のキャサリン(Katherine)はこれらの従者たちは毒入りの飲み物を与えられており、その死は支配者たちへの貢物としての集団自殺であるという説を立てた。しかし、現存する頭骨のいくつかの断面スキャン(tomography scans)を行いコンピュータ処理をすると、その中に銅斧の先端のスパイクで頭を殴られて殺害された形跡があることがわかった。これによって、毒による集団自殺というウーリー夫妻の説は正しくないことが証明されている[57]。王女プアビ(英語版)の墓の内部、部屋の中央に箱(chest)があった。その箱の下にはいわゆる「王の墓(King's grave)」PG-789へ通じる穴があった。これは王妃の墓に隣接していたので王の墓であると考えられた。この「王の墓」では銅の兜と剣を装備した63人の従者(attendants)がいた。これは王と共に埋葬された軍隊であると考えられている。「Great death pit」と呼ばれる別の大きな部屋(PG-1237)も発見された[58]。この部屋には74体の遺体があり、うち68体が女性であった。この墓内には2つの副葬品しかなく、その両方がリュラ(英語版)であった。


シュメールの帽子とネックレス。大英博物館収蔵。これらはウルの「王家の墓(Royal tombs)」の中のプアビの墓で発見された。
ウルで発見された宝物のほとんどは大英博物館とペンシルベニア大学考古学人類学博物館にある。この博物館では2011年の春の終わりに「Iraq's Ancient Past(イラクの古代)」という企画展が開かれ[59]、「王家の墓(Royal tombs)」の発掘品の中でも最も有名な作品なども展示された。それ以前にもペンシルベニア大学考古学人類学博物館は「Treasures From the Royal Tombs of Ur.」と題する企画展において、ウルから発見された最高の作品を数多く巡回に出した。この企画展はクリーブランド、ワシントン、ダラスなど、8つのアメリカの博物館を巡り、2011年5月にデトロイト美術館で巡回を終えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

ハラン

 

シリアとトルコの近く

今のトルコの領土

 

 

 

月の神のシンの神殿があるので

みな礼拝していたそうだ

 

アブラハムは

ここに居たし

 

 

IYAKOPHUE

IYAESAU

 

双子

ツインズ

 

の兄である

エサウの怒りを回避して

殺してやる!

長子権を

スチールされた事

神の意向は

彼では無い事は明白だから

 

どうしもうない

 

 

 

償い

埋め合わせが

必要

 

 

身代わり

IYAKOPHUE

 

であるのでしたが

長子権

次第に

 

Joseph

 

そしてその孫に

行き

 

 

エッサイ

切り株の

ヒコバエの

 

マリアと

その子

 

イエシュア

そして

養父は

Josephでした

 

栄冠を受け止めるのではないです

栄冠を

父に手向けたのです

 

父の意向を

全て知るからこそ

永久に

喜悦

なのですから

 

 

そうあらまほ

 

さなり

真秀なのです

我の身に言なれかし

あれ

 

アメン

 

南無

 

はしまりからおわりまで全部そうなる

既にそうです

そういっている

 

 

祝い

事吹き

なのです

 

メリット

Gracia

 

 

栄光の事ですそれこは

善い事の最善の充満悠久にある

 

から

嬉しいのは当然ね

どんな深刻な暗闇が急に襲ってきても

灯は消えないのです

 

それは生命の生そのもの

 

一旦死んだ

そして

死んでから

三日目で

あらたし

いきふくことで

白い雪よりも白く

羊毛の城よりも白く

と云う事です

光輝

 

 

光そのものは

言である子

言とは

LOGOS

 

ダールマ

カリタス

 

CAHARITE

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




ハッラーン(ハラン、Harran)、別名カルラエ(Carrhae)は、古代シリア地方の北部にあった都市の名で、現在はトルコ南東部のシャンルウルファ県にあたる。

概要
古代メソポタミア北部およびシリア北部の商業・文化・政治・宗教の中心都市であった場所で、現在は非常に貴重な考古遺跡となっている。

また大プリニウスによればハランの特産品は Stobrum の木から採れる香りのよい粘液(サンダラック樹脂)であったとされる(博物誌 xii. 40)。ハランの街はメソポタミア神話の月の神シンの祭儀の中心であり、バビロニア時代のみならず古代ローマ時代までその崇拝は続いた。

ハランはローマ時代には「カルラエ」と呼ばれたが、その遺跡はこの地方に今も残る。ハッラーンの街はローマ時代からサービア教徒の時代、イスラム教や十字軍の時代まで存続し、イスラム世界の学問の中心としても栄えたが、モンゴル帝国の襲来で廃墟と化し、以後再建されることはなかった。その遺跡はT.E.ロレンスが調査し、イギリスとトルコによる共同発掘調査が1951年から1956年まで続いた。

歴史
古代のハラン

古代オリエント・シリア地方の地図
ハッラーンはトルコとシリアの国境に近く、古代にはエデッサの名で知られたシャンルウルファ(ウルファ)の街から南東へ44kmほどの位置にある。シャンルウルファからハッラーンまでの道は、トルコ南東部の農業の中心である灼熱のハッラーン平原をまっすぐ伸びている。

古代メソポタミア文明の都市としての最盛期には、ハランは南のダマスカスからの道と、ニネヴェとカルケミシュを結ぶ道が交わる地点にあり、古代オリエントにおいては戦略的に非常に重要な地であった。なおかつ、ハランやエデッサはユーフラテス川やその支流バリフ川の上流の平原にあり、土壌は肥沃で雨量もメソポタミア南部より多く、農耕が早くから行われた地であった。

旧約聖書創世記12章にはエホバからカナンの地へ行くよう命じられたイスラエルの始祖アブラム(後のアブラハム)がしばらく住み着き、彼の父テラはここで死んだがその後アブラハムの一家はハランを出立してカナンに向かった。このことから正しい信仰まで半道を進みながら途中でとどまる信者を「ハラン信者」と呼ぶことがある。[誰によって?][要出典]

アッシリアの粘土板文書において、ハランは「ハラヌ」(Harranu、アッカド語で道路・通り道・旅を意味する「harrānu」より)の名で、紀元前1100年ごろのティグラト・ピレセル1世の時代以来頻繁に現れている。ヒッタイトのシュッピルリウマ1世は、ハラン付近を支配していたフルリ人のミタンニ王国を破り、ミタンニの王にシャッティワザを擁立して条約を交わしたが、シュッピルリウマ1世の息子でカルケミシュの副王ピヤシリはミタンニ征服の途上でハランを焼き払った。

ハランは紀元前763年にも略奪されたが、新アッシリアの帝王サルゴン2世により復興された。

紀元前612年にアッシリアのシン・シャル・イシュクンは、新バビロニアとメディアに敗れて首都ニネヴェが奪われ(ニネヴェの戦い)、アッシリアの亡命政権の首都はハランに移された。紀元前608年にアッシリアはハランでも敗れ、滅亡した(ハッラーン陥落(英語版))。紀元前605年にアッシリアと同盟を結んでいた、古代エジプトのネコ2世が新バビロニアと戦った(カルケミシュの戦い[1])。

ハランにあり古くからの崇敬を集めていた月神シンの神殿は、新アッシリアのアッシュールバニパルや新バビロニアのナボニドゥスなどにより何度も再建された。ローマ時代のシリアの歴史家ヘロディアヌス(紀元170年 - 紀元240年頃)もハランにあった月の神殿について言及している。

ユダ王国のヒゼキヤ王と同じ時代、ハランはアッシリアに対し反乱を起こし、アッシリアに再征服される[2]。ハランに与えられていた特権の多くは奪われたが、サルゴン2世が後に回復した。

メディア、ペルシャ、ギリシャ、ローマ
新アッシリアが崩壊に向かう最中、ハランはその最後の王アッシュール・ウバリト2世の本拠となったが、紀元前609年に新バビロニアの王ナボポラッサルの軍勢に包囲され征服された。その後はハランはメディア王国の一部となり、さらにアケメネス朝ペルシャが引き継いだ。その支配は紀元前331年、マケドニア王国のアレクサンドロス大王の軍勢による征服と入城まで続いた。

紀元前323年6月11日にアレクサンドロスが没すると、ハランはその後継者たち(ディアドコイ)の争奪に巻き込まれる。ペルディッカス、アンティゴノス、カルディアのエウメネスらがハランを相次ぎ支配したが、最終的にはセレウコス1世ニカトールの支配下になりセレウコス朝のオスロエネ地方(英語版)(旧名のウルハイ Urhai からギリシャ語化された)の首都となった。その後1世紀半にわたりハランは繁栄を謳歌した。

オスロエネ王国
パルティアがバビロニア地方を征服した頃には独立状態になった。ハランやエデッサはペルシャのパルティアとシリアのセレウコス朝との緩衝国となり、アラブ人のアブガル朝(英語版))がパルティアのシャーの臣下となってオスロエネ王国(英語版)(紀元前132年 - 244年)を3世紀以上にわたり治めた。

ハランは、ローマにはラテン語で「カルラエ」(Carrhae)の名で知られていた。ローマ共和国とパルティアの間で行われたカルラエの戦い(紀元前53年)の古戦場でもある。この戦いではスレナスに率いられたパルティア軍がクラッスス率いるローマ軍を大敗させ、クラッススは捕まり殺されている。217年、カラカラ帝はエデッサからパルティアとの戦いに赴く途上、この付近で近衛軍団長マクリヌスに殺された。ガレリウス帝は296年、パルティアを滅ぼしたサーサーン朝の軍勢にこの付近で敗北している。

ハランはオスロエネ王国のもとで非常に早い時期からキリスト教を受容しその中心地のひとつとなった。最初から教会にする目的で公開的に建設された最初の教会堂もハランにあった。ハランには司教も住んでいたが、ハラン市民の大部分は古代からの月神や星辰への信仰を続けた。

ローマ帝国
オスロエネ王国はローマの属国となり半独立を維持したが244年にローマ帝国に吸収された。

サーサーン朝
ハランの地は勃興するサーサーン朝に飲み込まれその支配下にあった。

イスラム時代のハッラーン
651年にアラブ人がサーサーン朝を滅ぼしイスラム帝国を打ち立てた。イスラム教の時代の初期、ハッラーン(ハラン)やアル=ルファ(エデッサ)、アル=ラッカーなどを主要都市とする北メソポタミア(ジャズィーラ地方)西部にはアラブ人のうちムダル部族が住み、ディヤルムダル(Diyar Mudar)と呼ばれるようになる。

ウマイヤ朝の最後のカリフ・マルワーン2世の時代にはハッラーンはスペインから中央アジアまでの大帝国を治めるカリフの座所となった。

サービア教徒のハラン
月神や星辰を崇拝していた人々は9世紀以後、アッバース朝の支配下で啓典の民の一つ「サービア教徒」を名乗り、ハッラーンを中心に独自の信仰を育んでゆく。ハッラーンの住民が「サービア教徒」を名乗るきっかけとして、830年の出来事が挙げられる。この年、アッバース朝のカリフ・アル=マアムーンが東ローマ帝国への遠征の途中にハッラーンを通過したが、ハッラーンの住民が異教を信じていることに驚き、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教など同じ啓典を信じる「啓典の民」への改宗を命じた。ハッラーンの住民はアッバース朝支配下で生きるため、クルアーンに言及される啓典の民の一つであるサービア教徒であると自称した。イラク南部にあったグノーシス主義のサービア教は当時すでに衰退しておりその実態はほとんど知られていなかったことが好都合な点であった。ハッラーンの自称サービア教徒と、クルアーンに言及されたサービア教徒との関係は、以後論争の的となる。

8世紀末から9世紀にかけ、ハッラーンでは古代ギリシャ語の天文学・哲学・自然科学・医学の文献をアッシリア人がシリア語に訳し、さらにアラビア語に翻訳していた。バグダードが翻訳および学問の中心となるまでの間、ハッラーンが古代地中海世界の知識をアラブ世界へと導入する学問の中心地となった。自然科学や医学における重要な学者がハッラーン出身の非アラブ人・非ムスリムの人々(サービア教徒やアッシリア人など)から多く輩出されたが、重要な化学者であるジャービル・イブン=ハイヤーン(ゲーベル)がハッラーンで学んだという説もある[3]。

1032年または1033年、農村部の餓えたシーア派住民や都市部の貧民によるムスリム民兵組織が蜂起して大都市ハッラーンを襲い、サービア教の神殿やサービア教徒のコミュニティを破壊し、以後サービア教徒は離散し消滅した。1059年から1060年にかけ、神殿は西ジャズィーラ(ディヤルムダル)地方で勢力を増していたアラブ人王朝(Numayrids)により要塞化された王宮として再建され、ザンギー朝のヌールッディーンはこれを強固な要塞へと変えた。

十字軍の襲来
11世紀末には十字軍が中東に襲来した。ハッラーンを制圧した十字軍(エデッサ伯国のボードゥアン2世とジョスラン1世)とムスリム勢力(モースルのジェケルミシュやマルディンのソクマンなどセルジューク朝系の領主たち)の間で、1104年5月7日に「ハッラーンの戦い」と呼ばれる決戦がバリフ川の谷間において起きた。この戦いは、アルメニア人の年代記作者エデッサのマチュー(英語版)によればこの戦場はハッラーンから2日かかる場所であったとされる。アーヘンのアルベルト(英語版)や、シャルトルのフーシェ(英語版)といった年代記作者たちはバリフ川とユーフラテス川が合流するラッカの対岸にある平野としている。この戦いで、十字軍側は敗れエデッサ伯ボードゥアン2世はセルジューク朝の兵士の捕虜となった(釈放された後はエルサレム王国の国王となった)。

アイユーブ朝

アイユーブ朝時代のハッラーン大学の廃墟
12世紀の終わり頃、ハッラーンとラッカはともにアイユーブ朝の王子たちが置かれた。アイユーブ朝のジャズィーラ地方の支配者だったアル=アーディルはハッラーンの城塞を強化した。

モンゴルの襲来
しかし1250年代に入り、モンゴル帝国の襲来(フレグの西征)でジャズィーラの諸都市はことごとく破壊された。大都市だったハッラーンも完全に破壊され、以後再建されることなく放棄され現在に至っている。スンニ派のハンバル学派の高名な学者イブン・タイミーヤの父はハッラーンからの難民でダマスカスに移住していた。13世紀のアラブの歴史家アブ・アル=フィダ(アブー・アル=ファイド、1331年没)はハッラーンを廃墟と記している。

現在のハッラーン

ハッラーンのビーハイヴ・ハウス
現在のハッラーン地方は、日干しレンガで造られ木材を一切使わない、伝統的なドーム屋根の「ビーハイブ・ハウス」(蜂の巣箱状住宅)で有名である。この形状は中が涼しく、灼熱のこの地でも快適に過ごせるようになっており、この3000年以上基本的な設計は変わっていないとみられる。1980年代までは一般の居住用にも使われていたが、現在残っているこの型の住宅は観光客のための展示用であり、ハッラーンの住民のほとんどは遺跡から2km離れた新しい村に移っている。

現在は遺跡となっている古代都市ハッラーンでは、市の城壁や要塞が今も形をとどめており、市の城門のうちの一つは今も建っている。また中世に栄えた大学は、アイユーブ朝時代の建築の一部が残っている。近傍にある紀元前4世紀の墳墓も発掘がすすめられている。

ハッラーンの新しい村はトルコの中でも貧困な地方にある寒村で、ハッラーン平原での生活は夏の高温のため過酷である。住民の多くはアラブ系で、伝統的な様式に従い暮らしており、遺跡の観光客に近寄って商売やガイドなども行っている。この地のアラブ人は、18世紀にオスマン帝国により移住させられてやってきたとされている。

ハッラーン平原を流れていたバリフ川水系の支流群が1980年代末に涸れて以降、平原の多くの個所で農耕が放棄された。しかしトルコ政府がチグリス・ユーフラテス上流で計画する灌漑計画「南東アナトリア計画(英語版)」により灌漑工事が行われ、再度緑を取り戻しつつある。綿花やコメの栽培も再開されている。

旧約聖書のハラン
ハランは旧約聖書で、アブラハムがカナンの地に移る前に住んだ場所ともされている。地中海沿いにある都市国家ティールの交易相手の中には、シリアやパレスチナの諸都市とともにハランの名も見られる(エゼキエル書27章23節)。

創世記11章31節、12章4-5節では、テラが息子アブラハム、孫のロト(ハラン(英語版)の息子)、アブラハムの妻サライとともに、カルデアのウルからカナンの地に向かう途中にハラン(Haran、Harran、Charan、Charran ; ヘブライ語では חָרָן)に至り、そこにとどまった。テラはハランで没し、アブラハムは75歳の時にハランを出てカナンに向かった。学者たちは聖書のハランを現在のハッラーンと同定している。同じく創世記27章43節では、ハランにはラバンが住み、その妹リベカはイサクと結婚した。後に、イサクの双子の息子エサウとヤコブは対立し、ヤコブはカナンを出てハランに住むラバンのもとへ逃げ、ラバンのところで働き20年を過ごす(創世記31章38-41節)。

テラの息子でロトの父ハラン(英語版)は地名のハランと間違われやすいが、両者はヘブライ語での綴りが違う(הָרָן)。イスラム教では、人名のハーラーン(ハラン)は地名のハッラーンと結び付けられている。

脚注
[脚注の使い方]
^ 旧約聖書エレミヤ書46:2
^ 列王記下19章12節、イザヤ書37章12節
^ “アーカイブされたコピー”. 2007年3月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年11月22日閲覧。
参考文献
Chwolsohn, Daniil Abramovic, Die Ssabier und der Ssabismus, 2 vols. St. Petersburg, 1856. [Still a valuable reference and collection of sources]
Green, Tamara, The City of the Moon God: Religious Traditions of Harran. Leiden, 1992.
Heidemann, Stefan, Die Renaissance der Städte in Nordsyrien und Nordmesopotamien: Städtische Entwicklung und wirtschaftliche Bedingungen in ar-Raqqa und Harran von der beduinischen Vorherrschaft bis zu den Seldschuken (Islamic History and Civilization. Studies and Texts 40). Leiden, 2002 .
Rice, David Storm, "Medieval Harran. Studies on Its Topography and Monuments I", Anatolian Studies 2, 1952, pp. 36-84.