IYAPHUAVE  IYAPHUEAN yapan yafuan ヤーパン JYAPAN  | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

 IYAPHUAVE  IYAPHUEAN yapan yafuan ヤーパン JYAPAN 

IYAMAPHUAE AUME

いやー

まはー

あうみむん はじまりからおしまい 阿吽 南無 亜門 アーミン AMEN

 

 

 

あなたは

最も最強の者

はじめからおわりまで

 

という意味ある

 

彌榮

あなたに栄冠栄誉を

ちよに

やちよに

よよに

よろつちよ

 

千代萬

 

よろつ

寄る津

津籠る

 

積み重ねる

宇津高く

 

宇津雅

 

太秦

 

大秦は

ローマ帝国の事だとかいますが

 

秦の始皇帝は

誰を観て習うのでしょうかね

 

あの武闘の精神

権勢で

なんでも権威をもって

処断し

統一化する力量の権限は

どこからそうしていたか

ですが

 

 

秦より以前の大きな国は

西のかなたにあるのですから

 

メソポタミア

 

高い山

ヒマラヤを

越えて行かないと成りませんね

 

観たいなら

 

バビロニアなど

大国がある

 

4つの大きな河の

中洲

ですよね

 

豊かな土壌で

 

正に楽園のようにある

雨季は大洪水ですが

其の後に

肥沃な土地になるのですから

 

糧を得る事

 

エデン

 

EDEN

 

 

IYEDEN

 

IYAPHUAENLI

 

IYAPHUAELI

 

 

エデンの日にむかう土地は

どこでしょうか

 

もしも

イスラエルのエルサレムの岡庭であるなら

その日の昇地域

は東となるので

 

正にメソポタミアであるけども

 

 

アルメニアとトルコの境目あたり

アララトの

山の附近から

 

源流はあるのですから

 

 

 



シッパル - Wikipedia
シッパル(Sippar、シュメール語:𒌓𒄒𒉣𒆠 / Zimbir)はシュメール時代から南部メソポタミア(バビロニア)で繁栄した古代の都市。その起源は前4千年紀、ウルク時代にまで遡る。宗教上重要な都市であったと思われ、多くの王がこの都市の神殿や城壁の建設に関する記録を残しているものの、シッパルの歴史そのものに関してはあまり多くのことはわかっていない。

現在のイラク、バグダード県のユスフィヤ(英語版)に近いテル・アブー・ハッバーフ(Tell Abu Habbah)遺跡が古代のシッパルに対応する。メソポタミアを形成する2つの主要河川、ユーフラテス川とティグリス川が最も近接する地域の、ユーフラテス川東岸に位置した[1]。姉妹都市というべきシッパル=アムナヌム(英語版)(Sippar-Amnanum、現在のテル・エッ=デール)がユーフラテス川を挟んだ西岸に存在しており、古代の都市名シッパルはこの両方を指す場合もある[2]。本記事で述べるシッパル市を指すより厳密な名称はシッパル=ヤフルルム(Sippar-Yahrurum)であった[3]。

歴史
シッパルは古代シュメール時代から繁栄した都市であり、数千点もの楔形文字粘土板文書がその遺跡から発掘されている[2]。にもかかわらず、シッパルの歴史については比較的僅かにしかわかっていない。

シュメールの神話では、シッパルは伝説的な大洪水以前の時代に天から王権が降りた都市の1つである。『シュメール王朝表(シュメール王名表)』には、シッパル王エンメンドゥルアナが前王朝時代(洪水以前)の支配者たちの一人として言及されている。

この都市で発見された土器類は、シッパルにおける居住の歴史が実際にウルク期の初期まで遡ることを示しているが、大規模な居住が行われたのは前3千年紀の初期王朝時代、前2千年紀の古バビロニア時代、そして前1千年紀の新バビロニア時代の間である[要出典]。ハカーマニシュ朝(アケメネス朝)、セレウコス朝、アルシャク朝(アルサケス朝)時代にも小規模ながら人々がシッパルに住み続けていた[2][4]。

シッパルは太陽神(シュメール語:ウトゥ、アッカド語:シャマシュ)崇拝の地であり、その主神殿エ・バッバル(英語版)が置かれていた。古バビロニア時代には「修道院」のような施設があり、シャマシュ神に捧げられたナディートゥ(Nadītu)と呼ばれる女性たちがそこに住んでいた[2][4]。この「修道院」には王女もおり、恐らくその施設と見られる2部屋からなる住居群が発掘調査によって見つかっている[2]。こうしたことからもわかるように、由緒ある宗教的中心地であったため[2]、この都市における建設活動について多くの王が記録を残している。バビロンの王スムラエルは自身の29年間の治世中にシッパルの市壁を建設したとしている。しばらく後、バビロンの王ハンムラビが統治第23年にシッパルの市壁の基礎を敷設し、また、統治第43年にもこの都市の市壁を建設したとしている。ハンムラビの後継者サムス・イルナは統治第1年にシッパルの市壁の建設に取り組んだ。これらバビロン第1王朝の王たちから1000年以上後の新バビロニア時代の王たちもまた、シッパルでの建設記録を残している。ネブカドネザル2世(ナブー・クドゥリ・ウツル2世)とナボニドゥス(ナブー・ナーイド)は、彼らがシャマシュの神殿エ・バッバルを修復したと記録している。

古バビロニア時代のシッパルは羊毛生産の中心であった。ハンムラビ王が作らせた有名なハンムラビ法典の石碑は恐らくシッパルに建てられた。シャマシュは正義の神でもあり、この神はハンムラビ法典碑の最上部でハンムラビ王に権限を手渡す様が描かれている[5]。これと密接に関連するモチーフは、古バビロニア時代の円筒印章の中に見られる[6]。前19世紀の終わりまでに、シッパルは最高級の古バビロニアの円筒印章を生産している[7]。

シッパルは『旧約聖書』に登場するセパルワイム(英語版)にあたるという説がある。双数形で言及されていることが、この都市が2つの部分からなることを暗示している[8]。

古典古代の伝承
ヘレニズム時代、前3世紀にバビロニアの歴史を書いたベロッソスは、シュメール神話における洪水伝説の主要登場人物であるクシストロス(ジウスドラ)は、洪水以前(antediluvian)の世界の記録をシッパルに埋めたと伝えている。これは恐らくシッパルという名前がsipru(書く)という語と関係していると考えられたためである[1]。また、アビュディノス(英語版)によれば、ネブカドネザル2世はシッパルの付近で巨大な貯水池を掘った[1]。

大プリニウス(『博物誌』、6.30.123)はHippareniと呼ばれるカルデア人の一派に言及している。この名前はたびたびシッパルを指すものだと考えられている。この類推は、特に、大プリニウスが言及しているほかの2つの学校が都市にちなんで命名されていると思われるためである。大プリニウスの語るOrcheniはウルクから来ており、Borsippeniはボルシッパから来ている。しかし、Hippareniがシッパルから来ているという見解には異論も唱えられている[9]。

 



ウトゥ - Wikipedia
ウトゥ(Utu)は、後にアッカド語を話す東セム族のバビロニア人によってシャマシュとして崇拝され、彼は古代メソポタミアの太陽神で、正義と道徳と真理の神であった。彼の双子の妹はメソポタミアの女神イナンナで、天の女主人である。彼の主要な神殿はシッパルとラルサの都市にある。太陽の戦車に乗って空を渡り、一日のすべての出来事を見たと信じられている。彼は神聖な正義の執行者であり、困難に直面している人々を助けると考えられていた。シュメール神話によれば、地下に棲む悪霊のガルルー(英語版)がタンムーズを冥界に引きずろうとした時、彼を助けて守り、大洪水の後、英雄ジウスドラ(英語版)の前に現れた。『ギルガメシュ叙事詩』ではギルガメシュを助けて人食い魔フンババをやっつける。

系譜

女神イシュタルはライオンの上に立って弓を持ち、右上にある太陽の円盤はシャマシュの象徴である。
ウトゥはイナンナの双子の兄で[1][2]、イナンナは天の女主人で、彼女の領域には様々な力が含まれている[3][2]。シュメールの文献では、イナンナとウトゥは非常に親密であったとされている[4]。実際、彼らの関係はしばしば不倫に近い[4][5]。ウトゥは通常、月の神ナンナとその妻ニンガルの子であるが[6][7]、アンまたはエンリルの子として描かれることもある[6][7]。彼の妻は女神シェリダ(Sherida)で、後にアッカド語でアヤ(Aya)と呼ばれる[8][9][7]。

シェリダは美しさ、出産と性愛の女神であるが[9]、光は生まれつき美しいと考えられているか、あるいは農業の生育を促進する太陽の役割によると考えられる[9]。彼らには二人の子供がいたと考えられている。女神キトゥ(Kittu)は「真理」を意味し、神ミシャル(Misharu)は「正義」を意味する[9]。古代バビロニア時代(紀元前1830年頃-紀元前1531年頃)には、シェリダとそれに続くウトゥはナディトゥ(英語版)と関連づけられたが、これは自らの生命を神に捧げるクロイスター女性集団であった[7]。ウトゥの車夫ブネニ(英語版)は時々彼の息子として描かれる[8][7]。ブネニは古代バビロニア時代、シッパルとウルクで正義の神として独立して崇拝され[8][7]、アッシュルでも崇拝された[8][7]。夢の神シジグ(英語版)は彼の息子とも言われている[10]。

崇拝
シュメール人は早くからウトゥを崇拝していた[8]。彼について言及されている最古の文献は、紀元前3500年頃にさかのぼる。シュメール文字の第一段階である[7]。彼の主要な神殿はE-babbar(「白い館」の意)と呼ばれ、シッパルとラルサにある[8]。ウトゥはメソポタミア文化が終わるまで3000年以上も尊敬され、崇拝され続けた[7]。ウトゥの主な性格は、彼の善良さと気前のよさである[7]。しかし、彼は他のメソポタミアの神々と同様に、彼に迷惑をかける一つの要請も拒否しない[7]。

神話
シュメール人は、ウトゥが天空を渡る時、世界で起こることをすべて見たと信じていた[8][9]。妹のイナンナとともに、ウトゥは神聖な正義の執行者であった[4]。夜になると、ウトゥは冥界を越えて日の出の準備に東に行くとされる[9]。シュメール人の文学作品のひとつは、ウトゥが冥界を照らし、そこで裁判を割り当てたと述べていると[11]、シャマシュ賛美歌31 (BWL 126)は、ウトゥが冥界でマルク(malku)、クシュ(kusu)、アヌンナキとともに死者の裁判官を務めていることを指摘している[11]。ウトゥは冥界を渡る途中、珍しい宝石の実をつける樹木がある太陽神の庭を通ると信じられていた[9]。

ウトゥは、人間の関係において肯定的な役割を果たすとみなされており、困難に直面している人々を助けるとみなされている[8]。彼の最初の文学作品のひとつである『エタナ神話』には、アッカドのサルゴンが征服される前(紀元前2334-2284年)、英雄エタナがウトゥに妻の妊娠を助けてほしいと頼んだことが書かれている[7]。シュメール人の叙事詩『タンムーズの夢』では、ウトゥが介入し、イナンナを追う悪霊ガルルーの手から彼女の夫タンムーズを救い出す[8]。シュメール人の大洪水神話では、洪水が消え始めた後にウトゥが現れ[12][13]、そのため物語の中の英雄ジウスドラが船の窓を開けて彼の前にひれ伏す[12][13]。ジウスドラはウトゥに羊と牛を献上した[12][13]。

シュメール王名表には、初期のウルク王の一人が「ウトゥの息子」として記述されており[8]、ウトゥはその都市の後の数人の王の特別な保護者であったようである[8]。シュメールの詩歌『ギルガメシュとフンババ』では、英雄ギルガメシュがウトゥにレバノン杉の森(英語版)に行く助けを求めている[14]。このバージョンでは、ギルガメシュはウトゥが極東、すなわち太陽が昇る場所にあると暗示されているレバノン杉の森に関連しているため、ウトゥに協力を要請する[15]。最初、ウトゥは協力を渋ったが[16]、ギルガメッシュは自分の名声を築きたいからだと説明し、ギルガメシュは自分が死ぬことを知っていたので、ウトゥは同意した[15]。ギルガメシュがレバノン杉の森に到着すると、ウトゥはそこに住む人食い魔フンババをやっつけるのを助ける[16]。

標準的なバビロニアの叙事詩『ギルガメシュ叙事詩』では、ギルガメシュがレバノン杉の森を訪れるのは彼自身の意志であり、彼はシャマシュに援助を求めに行った[17]。しかし、このバージョンでは、レバノン杉の森はレバノン北西部にあると明言している[18]。シャマシュはギルガメシュがフンババ(フワワの東セム族の名前)を倒すのを助ける[8][19]。ジェフリー・H・ティガイは、古代バビロニア版の叙事詩の中で、ルガルバンダと太陽神との関連が、「伝統的な歴史上のある時点では、太陽神もまた祖先とみなされていたという印象」を強化していると述べている[20]。シュメール版ではギルガメシュの最初の任務はレバノン杉の森を訪れることであり、フンババはギルガメシュとエンキドゥがそこに到着した時の障害でしかなかったが[21]、バビロニア版ではフンババを倒すことが英雄たちの最初の任務となっている[22]。ギルガメシュ物語の後期のバージョンでは、シャマシュはこの探索の扇動者となり、最初にギルガメシュにフンババを殺すよう指示する[22]。


シャマシュ - Wikipedia


Utu-Shamash - World History Encyclopedia


















 

 

 

小泉八雲とちりめん本|ちりめん本|ギャラリー|放送大学附属図書館 (ouj.ac.jp)

 

 『小泉八雲とちりめん本長谷川武次郎は、1898年(明治31年)から小泉八雲の5冊の怪奇的な昔噺をちりめん本のシリーズに加えました。出雲時代以来、節子夫人の語る昔噺や伝説に耳を傾けた八雲は、こうして得られた豊富な民間伝承を文学の素材として見事に活用したのです。その成果は八雲が発表した数々の英文随筆集などを通じて、20世紀初頭の欧米やインド、東南アジアなどの世界中の読者の興味をひきつけ、日本に対する関心を高める上で大変効果的でした。一般に八雲の作品の多くは大人向けで、ほとんどの作品は、まず英語圏で出版されました。しかしその中でもこの五冊の民話絵本は例外としてあげることができるでしょう。なぜならこの五冊すべてが日本で出版され、子どもを含む家族全員が楽しめる作品として誕生したからです。』