清原は真人姓 光方の子だそうです、大鳥井山舘と台所舘 | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

清原は真人姓 光方の子だそうです、大鳥井山舘と台所舘

大鳥井山遺跡 - Wikipedia

 

 

 

 

 




藤原登任 - Wikipedia
藤原 登任(ふじわら の なりとう)は、平安時代中期の貴族。藤原南家巨勢麻呂流、常陸守・藤原師長の子。官位は従四位下・大和守。

経歴
左兵衛尉を経て、長和2年(1013年)三条天皇の六位蔵人に補せられる。長和5年(1016年)三条天皇の譲位に伴って蔵人から院判官代に遷り、まもなく巡爵により従五位下に叙せられた。また、藤原教通室となっていた藤原公任の娘が出産にあたって、しばしば登任の三条の邸宅に移っており(『栄花物語』)[1]、登任は公任に対して家人として仕えていたとも考えられる。

後一条朝前期に能登守に任ぜられ、万寿元年(1024年)治国の功労により従五位上に叙せられる。その後も、出雲守・大和守と受領を歴任する一方、主殿頭も務めた。

後冷泉朝の永承5年(1050年)に陸奥守として東北地方に下向。翌永承6年(1051年)に安倍氏が衣川の柵を越え勢力圏を拡大しようとしたため、登任は秋田城介・平繁茂(繁成/重衛)らと安倍氏を討伐しようするも、逆に鬼切部で大敗を喫し更迭された。この事件が「前九年の役」の発端となる。当時の状況は後任の源頼義による上奏文に「東夷蜂起シ郡県ヲ領シ以ッテ夷地トナシ、人民ヲ駆使シ蛮虜トナシ六カ郡中、国務ニ従ガワズ、皇威ヲ忘ルルガ如シ」とある。

康平2年(1059年)3月29日に出家した。

官歴
時期不詳:左兵衛尉、非蔵人
長和2年(1013年) 正月15日:六位蔵人、元非蔵人[2]、左兵衛尉如元[3]
長和4年(1015年) 4月13日:見蔵人式部丞[3]
長和5年(1016年) 正月29日:去蔵人(帝譲位)、院判官代[3]
寛仁2年(1018年) 5月18日:見従五位下[3]
時期不詳:能登守[4]
万寿元年(1024年) 正月26日:従五位上(治国)[3]
長元5年(1032年) 日付不詳:出雲守?[5]
時期不詳:主殿頭。大和守[4]
永承5年(1050年) 日付不詳:陸奥守
康平2年(1059年) 3月29日:出家[6]
系譜
『尊卑分脈』による。

父:藤原師長
母:播磨守光孝(姓不明)の娘
妻:周防守憲忠の娘(又は平兼忠の娘)
男子:藤原長宗(1016-1085)
男子:藤原長明(1018?-1099)
妻:四条宮官女二条殿
男子:任尊
生母不明の子女
男子:実覚







 

 

平永衡 - Wikipedia

 



はじめ陸奥守藤原登任の郎従として陸奥国へ下向し、伊具郡を拝領する[1]。奥六郡を支配する俘囚(ふしゅう)長の安倍頼時(頼良)の娘(史料による呼称は「中加一乃末陪」、読み方は「なかかいちのまえ」と目されている。藤原経清室の「有加一乃末陪」は姉)を妻に迎える。1051年(永承6年)に始まる前九年の役においては、登任と頼時が戦った鬼切部の戦いでは安倍軍に参戦する。敗北して更迭された登任の後任に源頼義が任じられ、頼時が朝廷に帰服すると頼義に従う。1056年(天喜4年)には阿久利川事件をきっかけとして再び安倍氏が蜂起したが、この時衣川の南にいた永衡、経清は頼義に従って戦っている。だが2人とも頼時の婿であるからと疑われていた。さらにこの時永衡は、陣中できらびやかな銀の冑を着けているので、これは敵軍への通牒でないかと頼義に密告するものがあり、安倍氏への内通を疑われて殺される。これが引き金となって経清は安倍氏の陣営に属し、前九年の役が長引く原因となった。

脚注
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^ a b 樋口知志『前九年・後三年合戦と兵の時代』吉川弘文館、2016年

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

清原 光頼(きよはら の みつより、生没年不詳)は、平安時代後期の武将。出羽の豪族・清原光方の子。姓は真人。源氏の源頼義と安倍氏の戦いである前九年の役時は当初は中立の立場を保っていたが、劣勢にある頼義の度重なる要求を聞き入れ、参戦。弟・清原武則を遣わした。この清原氏の参戦により、形勢は逆転。源氏を勝利へと導き、清原氏を東北の覇者へと押し上げた。この清原氏の覇権は後三年の役(永保3年(1083年) - 応徳4年、寛治元年(1087年))まで続くことになる。

略歴
前九年の役では当初は中立の立場を保っていた。光頼の系統は安倍氏と姻戚関係にあったとも考えられている[1]。その後、黄海の戦いで大敗するなど陸奥の安倍氏に苦戦を強いられた源頼義は万策尽きて、光頼に臣下の礼の形を取ってまでも参戦を依頼する。

これを聞き入れた光頼は自らは出陣せず、弟武則を大将とした大軍を陸奥に派遣する。形勢は逆転し、安倍氏は滅亡した。この功により、武則は朝廷より従五位下鎮守府将軍に補任され、清原氏は安倍氏の旧領を併呑して、奥羽にまたがる大勢力を築くに至った。この時から、出羽秋田城(長官:秋田城介)と陸奥鎮守府(長官:鎮守府将軍)に分かれていた東夷成敗権が鎮守府に一本化されたものと考えられている。

鎮守府将軍としての任務遂行のために陸奥に移った武則とは別に、光頼はそのまま出羽に留まったものと思われる。本拠地は平鹿郡大鳥井山[2](現在の秋田県横手市)であったといわれる。光頼の子には大鳥山太郎頼遠がいたが、この後は武則の子が清原氏の本流になるなど、光頼、頼遠親子と武則、武貞、真衡との間の力関係や主従関係については解明されていない点が多い。頼遠は前九年の役の際に衣川関から逃亡した安倍正任と良昭を匿い、出羽守源斉頼の軍勢に包囲されたという。頼遠が敵方である安倍氏を匿ったのは、正任が清原氏嫡宗家と女系の親族関係で結ばれており、彼の妻が頼遠の姉妹だったから[3]であると考えられる。後に頼遠は後三年の役の折に源義家により滅ぼされた。

系譜
父:清原光方
母:不詳
妻:不詳
男子:清原頼遠
脚注
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^ “清原氏の構造”. 岩手日報. 2016年4月6日閲覧。
^ “文化財の国指定について 史跡大鳥井山遺跡の指定” (PDF). 秋田県教育庁. 2012年3月23日閲覧。
^ 『前九年・後三年合戦と兵の時代』 樋口知志 2016年 吉川弘文館

 

 

 

 

 

 

 

清原成衡 - Wikipedia




清原 成衡(きよはら の なりひら/しげひら、生没年不詳)は、平安時代後期の武将。奥州の豪族 清原真衡の養子。妻は多気権守平宗基の孫娘(源頼義の娘と伝わる)。海道小太郎と号した。

生涯
平安忠の次男と『清原系図』にあるが、出羽守平泰貞の子とも、常陸大掾忠衡、平則道、平繁衡の子とも伝わる。いずれも海道平氏の一族出身で陸奥国磐城郡近辺の豪族出身であることは異論がない[1][2]。

また、『桓武平氏諸流系図』には、清原成衡に「実直成子」の注記を付するが、「直成」が維茂の孫の貞成の誤記であるとする説も存在する[3]。

『寛政重修諸家譜』によれば、成衡の父は常陸大掾平忠衡であり、藤原経清の聟であったため、前九年の役の際には源頼義に疑われ、常陸国から武蔵国入間郡に移り住み、家臣の大須賀胤業という人物の食客となったとされる。

一般的には真衡が清原氏の家格を高め武家として確立させるために、平氏出身の成衡を養子とし源頼義の娘をその妻に迎えて、源平両氏の血筋を後継者としようとしたと見られている[1]が、そもそも清原氏の出自自体も成衡の出身である海道平氏の流れとする見解もある[2]。

成衡の婚礼の際に吉彦秀武が真衡と反目したことが後三年の役の発端となったが、真衡急死後の成衡の動向は不明とされており、役の最中に討ち死にしたとも言われている。だが、妻の兄である源義家の庇護のもと下野国塩谷郡に居を構え、後に常陸国住人中郡頼経に討伐されたとの説もある[4]。

『寛政重修諸家譜』によれば、陸奥国の藤原清衡の元にいたが、父・忠衡の無実の罪が許されたために本領(常陸国)を安堵されたという。その後に陸奥国の菊多、駒木根、鯨岡、片寄、岩城、行方、磐前、楢葉、椎葉などを領し、岩城を本拠地として白土城に住んだ。永暦元年(1160年2月25日)に51歳で死亡し、業佐と号した。

正室は藤原清衡の養女、側室は源頼義の娘であった。

系譜
『岩城代々之系図』によれば、鎮守府将軍平維茂の子・平安忠を祖とし、平則道、平貞衡、平繁衡、平忠衡と続き、忠衡の子である隆行(成衡)が陸奥に下り、藤原清衡の女婿となり、妻との間に五人の子供をもうけたとされる。長男が平隆祐で楢葉郡を、次男・平隆衡(隆平)は岩城郡を、三男・平隆久は岩崎郡を、四男・平隆義は標葉郡を、五男・平隆行は行方郡を所領としたという。

後裔として、成衡四男四郎左衛門尉隆義(隆行とも)の子孫を称する標葉氏がいる。

兄弟である、清原源左衛門重光の墓は秋田県二ツ井にある。






 

 


吉彦秀武 - Wikipedia


吉美侯氏(吉彦氏)は、元来君子と表記されたが、天平勝宝9歳(757年)に「吉美侯部」に改められた。平安時代の文書には俘囚の多くが吉美侯部、吉弥侯部姓で現れる。古代毛野氏の部民に公子部・君子部を名乗る者が多いことから、ヤマト王権の東北地方への伸張に伴い毛野氏の部民化した蝦夷の一族と推定されうる[1]。

吉彦秀武は「荒川太郎」を称するところから、出羽国荒川(現秋田県大仙市協和荒川)に本拠を持っていたとする説がある。しかし、荒川なる地名は他にも多く、必ずしも明証するものがあるわけではない。

経歴
『陸奥話記』によれば、安倍氏を滅ぼした前九年の役では清原氏の一族として一軍を率いて戦功を挙げる。その後も延久蝦夷合戦に参戦したという説もあるが、それを裏付ける史料は見つかっていない。

武則、武貞、真衡の三代を助けた一族の重鎮であるが、同格の有力者の連帯による同族集団であったと見られる従来の清原氏を源氏や平氏のような棟梁に権力が集中した武士団へと変革しようとした真衡との間に次第に確執が生まれるようになる。この頃には一族の長老となっていた秀武は真衡の養子成衡の婚礼の際に出羽から奥羽山脈を越えはるばる陸奥の真衡の館に祝いに駆けつけた。祝いの品の自らの所領で採れた砂金を大杯に盛って庭先で真衡を待っていたが、真衡は奈良法師と碁を打っており相手にしなかった。日頃から真衡に不満を持っていた秀武は我慢の限界に達し、砂金を庭にぶちまけると出羽に帰ってしまった。これを聞き怒った真衡は直ちに秀武討伐の軍を発する。これが後三年の役の始まりである。

そもそも、秀武は清原氏の後継に武貞の次男・家衡を擁立したいと考えていたとする説もあり、清原氏の血を引かない夫婦養子をとることに反発していたともいう。一方、真衡が夫婦養子をとった背景には俘囚長の血脈を避け、ともに帝系の血をひく平氏の平安忠の次男・成衡と源氏の棟梁源頼義の娘の夫婦養子をとることで、清原氏の家格を上げたいと考えていたとする説もある[2]。

この謀叛において秀武も6000の兵を募ったというが、1日で8000の兵を揃えた真衡の大軍に単独では勝ち目はないと思い、真衡と不仲の清衡と家衡を誘い、真衡の館を襲わせたが、真衡の妻子が応戦し、さらに陸奥守の源義家も真衡方の救援に駆けつけたため、清衡・家衡は大敗を喫して義家に降伏した。 だが真衡は出羽への行軍途中に病で急死する。

その後、清衡と家衡の間で勃発した争いでは清衡・義家方につくことになる。金沢柵に立てこもった家衡を攻めあぐねた義家に対し、投降してくる女房子供を見せしめに殺すことによって城内に留め、兵糧を余計に消費させるという兵糧攻めの計を進言している。これは日本初の兵糧攻めと言われている。この秀武の作戦で金沢柵は陥落し、後三年の役は終結、清原氏は滅亡する。