2024/04/19 | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

2024/04/19





日本書紀応神天皇20年(289年)九月条には、「倭漢(やまとのあやのあたひ、東漢氏)の祖阿知使主、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類(ともがら)十七県を率て、来帰り」と伝わる。

続日本紀延暦四年(785年)六月の条の坂上大忌寸苅田麻呂によれば漢氏東漢氏)の祖・阿智王は後漢霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので「七姓民」とともにやってきたと、阿智王の末裔氏族東漢氏出身で下総守坂上苅田麻呂が述べた[4]



「坂上氏条逸文」には、七姓漢人(朱・李・多・皀郭・皀・段・高)等を連れてきたとある[4]。「坂上系図」は『新撰姓氏録』第23巻を引用し、七姓について以下のように説明している[5]

  • 段(古記には段光公とあり、員氏とも) - 高向村主、高向史、高向調使、(こほり)、、民使主首の祖。
  • 李 - 刑部史の祖。
  • 皀郭 - 坂合部首、佐大首の祖。
  • 朱 - 小市、佐奈宜の祖。
  • 多 - 檜前非調使の祖。
  • 皀 - 大和国宇太郡佐波多村主、長幡部の祖。
  • 高 - 檜前村主の祖。

また、阿知王は百姓漢人を招致し、その末裔には高向村主、西波多村主、平方村主、石村村主、飽波村主、危寸(きそ)村主、長野村主、俾加村主、茅沼山村主、高宮村主、大石村主、飛鳥村主、西大友村主、長田村主、錦部村主、田村村主、忍海村主、佐味村主、桑原村主、白鳥村主、額田村主、牟佐村主、田賀村主、鞍作村主、播磨村主、漢人村主、今来村主、石寸(いわれ)村主、金作村主、尾張の次角村主があるという[5]

大和国今来郡、のち高市郡檜前(ひのくま)郷に住んだ[6]。民忌寸、蔵垣忌寸、蚊屋忌寸、文山口忌寸らが天平元年(729年)から高市郡司に任ぜられた[6]。蚊屋(かや)氏には蚊屋木間がいる。

その後、摂津参河近江播磨阿波にも移住した[6]。ほかに美濃越前備中周防讃岐伊勢、三河、甲斐河内丹波美作備前肥前豊後にも住んだ








わされ、4人の縫製女工を連れて41年に帰国した。また住吉仲皇子黒媛 羽田矢代の娘)との密通の発覚を恐れ、履中天皇に対し反乱を起こし天皇の宮を燃やした際に、平群木菟物部大前と共に履中天皇を馬に乗せて逃した。『古事記』履中天皇記にも同様の記事があるが、名前は「阿知直」と記され、その功により後に「蔵官」に任じられたという。