とお ちかしま    | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

とお ちかしま   

遠値嘉島
とおちかのしま

長崎県:南松浦郡値嘉島遠値嘉島
古代よりみえる島名。値嘉島のうちで、その具体的な範囲は明らかではないが、肥前国のうち九州本島に近い地(たとえば平戸に近い地)から見て遠いことを意味する島名であろう。そのため福江ふくえ島を中心とする一帯という説があるが(五島編年史・大日本地名辞書)、那留なる浦(現奈留町)を島内とすることから、ほかの諸島を含む総称とも考えられる。あるいは平戸島が近島であれば、遠値嘉島はのちの五島列島ともみられる。「続日本紀」天平一二年(七四〇)一一月五日条に「等保知駕島色都島」とある。この年九月九州諸国の兵を動員して反乱を起こした藤原広嗣が追討軍に敗れて朝鮮半島に渡ろうとしたが、知駕島から出航し東風にのって四日後に耽羅島(済州島)の近くまで達したものの、風がやんだため一昼夜漂流したあと西風を受けて戻され、色都島に着岸を余儀なくされたという。

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出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系


藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)
藤原広嗣
ふじわらのひろつぐ
(?―740)

奈良前期の政治家。式家宇合(うまかい)の第1子。藤原氏一族の房前(ふささき)、麻呂(まろ)、武智麻呂(むちまろ)、宇合が相次ぎ病没した737年(天平9)に従(じゅ)五位下(げ)に叙され、翌年4月式部少輔(しょう)から大養徳守(やまとのかみ)を兼ねた。同年12月には大宰少弐(だざいのしょうに)に遷任された。740年8月大宰府から、時政の得失を論じ、天地の災異を陳(の)べて、玄昉(げんぼう)・下道(しもつみちの)(吉備(きびの))真備(まきび)を中央政界から除くことを要求する表を提出し、9月3日には反乱を起こした。

 朝廷は参議大野東人(あずまひと)を大将軍に任じ、東海・東山・山陰・山陽・南海五道の1万7000人を動員し、24人の隼人(はやと)も従軍させ鎮定に向かわせた。挙兵は大宰府管内諸国に及び、広嗣は弟綱手(つなで)に筑後(ちくご)・肥前などの軍兵5000人を率いて豊後道(ぶんごのみち)より豊前(ぶぜん)国へ進ませ、一隊は田河(たがわ)道(福岡県田川郡)に配し、自らは鞍手(くらて)道(同県鞍手郡)を遠珂(おか)郡家に進み、ここに軍営を営み、烽火(のろし)をあげて軍兵を徴発し、隼人を含めて大隅(おおすみ)・薩摩(さつま)・筑前(ちくぜん)・豊後などの軍兵5000人余を擁した。しかし9月22日豊前国の京都鎮(みやこのちん)・登美(とみ)鎮・板櫃(いたびつ)鎮三営は政府軍に抑えられ、10月初旬の板櫃川(北九州市小倉(こくら))の対陣で、1万余の軍勢を擁しながら渡河を阻まれ、隼人の降伏も続出した。中旬には船で敗走し、躭羅嶋(たむらのしま)(済州島)付近に達するが、逆風で等保知駕嶋(とおちかのしま)(五島(ごとう)列島)色都嶋に吹き戻され、23日値駕嶋(ちかのしま)長野村(宇久(うく)島)で捕らえられ、11月1日綱手とともに斬(き)られた。反乱に対する処分は280人以上に及び、弟良継(よしつぐ)・田麻呂(たまろ)らも配流され、藤原式家は一時衰退した。同時に聖武(しょうむ)天皇の政局に与えた影響も大きく、天皇は伊賀・伊勢(いせ)方面の行幸や恭仁(くに)京遷都を行い、大宰府も742年から3年余りの間廃止されることとなった。『万葉集』巻八に相聞(そうもん)歌一首を載せる。

[弓野正武]

『北山茂夫著『日本古代政治史の研究』(1959・岩波書店)』▽『青木和夫著『奈良の都』(1965・中央公論社)』▽『田村圓澄他編『古代の日本3 九州』(1970・角川書店)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)

 

 

 

 






世界大百科事典(旧版)内の藤原広嗣の言及
【祟り】より
…御霊とは政治的に非業の死をとげた人々の怨霊をいい,それが疫病や地震・火災などをひきおこす原因とされたのである。このような御霊信仰の先例はすでに奈良時代にもみられ,僧玄昉(げんぼう)の死が反乱者である藤原広嗣の霊の祟りによるとされたが,平安時代に入ってからはとくに権力闘争に敗れた崇道(すどう)天皇(早良親王),伊予親王,橘逸勢(たちばなのはやなり)などの怨霊が御霊として恐れられ,863年(貞観5)にはその怒りと怨みを鎮めるための御霊会(ごりようえ)が神泉苑で行われた。また承和年間(834‐848)以降は物の怪の現象が文献に頻出するようになるが,これはやがて《源氏物語》などのような文学作品,《栄華物語》のような史書のなかでも大きくとりあげられるようになった。…

【藤原氏】より
…だが首班は左大臣長屋(ながや)王となり,王は即位した聖武天皇の皇后に光明子が夫人から昇格することに反対したので,729年(天平1)武智麻呂ら4兄弟は長屋王を反乱の罪名で自殺させ(長屋王の変),光明子を臣下の出身としては最初の皇后とした。しかし737年には疫病のために4兄弟がみな病死して県犬養三千代の前夫の子の橘諸兄(たちばなのもろえ)が朝廷の首班となり,また740年に宇合の子の広嗣が北九州で反乱を起こしたので(藤原広嗣の乱),藤原一族はしばらく塞(ひつそく)した。やがて聖武と光明との間に生まれていた孝謙女帝が即位すると,武智麻呂の子で女帝の従兄にあたる仲麻呂が勢力を伸ばし,757年(天平宝字1)には祖父不比等の手がけた養老律令を施行,また諸兄の子の奈良麻呂ら政敵を倒して淳仁天皇を立て,独裁的な権力を振るったが,孝謙前女帝が道鏡(どうきよう)と親しくなると,764年,反乱を起こして自滅した(恵美押勝の乱)。…

【藤原広嗣の乱】より
…唯一の史料である《続日本紀》の記載の整理結果によると,次のような経過をたどったと考えられる。玄昉(げんぼう),吉備真備(きびのまきび)と対立し,藤原氏内部でも孤立していた藤原広嗣は,738年末,大養徳守(やまとのかみ)から大宰少弐にうつされた。彼は740年8月下旬に玄昉と吉備真備を除くことを要求する上表文を提出し,中央政府の返事を待たずに8月末ごろ挙兵にふみ切った。…

※「藤原広嗣」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」





藤原宇合(ふじわらのうまかい)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)


藤原宇合 (ふじわらのうまかい)
生没年:694?-737(持統8?-天平9)

奈良時代前期の官人。馬養とも書く。藤原式家の祖。不比等の三男で弟の麻呂より1歳年長となる。広嗣,良継,田麻呂,百川,蔵下麻呂,清成,綱手らの父。716年(霊亀2)8月遣唐副使に任じられ(押使は多治比県守)翌年入唐した。724年(神亀1)には持節大将軍として蝦夷に出陣,726年10月知造難波宮事に任じられ難波宮造営工事を遂行した。731年(天平3)8月弟の麻呂とともに諸司の挙によって参議に昇り,732年8月西海道節度使に任じられ,《続日本紀》宝亀11年(780)7月丁丑条によると,その在任中に西海道諸国が対外防備にあたる際の警固のための式を作ったという。737年8月天然痘の流行により房前,麻呂,武智麻呂につづいて死亡した。時に参議式部卿兼大宰帥正三位。《公卿補任》《尊卑分脈》によると没年は44歳。《万葉集》《懐風藻》に作品がみえ,《経国集》にも〈棗賦〉1首が収められている。
執筆者:栄原 永遠男

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」








恵美押勝の乱(えみのおしかつのらん)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)


恵美押勝の乱 (えみのおしかつのらん)

奈良時代に恵美押勝(藤原仲麻呂)が起こした反乱。橘奈良麻呂の変を未然に鎮圧した藤原仲麻呂は,早世した長男真従の妻であった粟田諸姉をめあわせた大炊王を淳仁天皇として擁立し,またみずからを恵美押勝と称すること,私的に銭貨を鋳造し出挙(すいこ)を行うこと,および恵美家の印を任意に公的に用いることを許された。そして太保(右大臣),ついで太師(太政大臣)に進み,位階もついには正一位に達し,その間中国の唐を模倣したさまざまな重要施策を実行に移した。しかし,紫微中台(しびちゆうだい)の長官としてとくに緊密な関係にあった叔母の光明皇太后が760年(天平宝字4)に没したことが契機となって,勢力が下降しはじめ,反対派との対立が激化してきた。すなわち,保良宮に滞在中,看病に当たった道鏡を孝謙上皇が寵愛したのを淳仁天皇が批判したことから,両者の間が不和となり,決裂状態のまま平城京に帰って,淳仁天皇は平城宮中宮院に,孝謙上皇は出家して法華寺に入り,皇権も国家の大事と賞罰は上皇が掌握し,天皇はただ小事と常祀を行うだけとなったが,その背後には仲麻呂=淳仁派に対する道鏡ら反仲麻呂=孝謙派の抗争が伏在していた。仲麻呂はこれに対して子息の真先・久須麻呂・朝獦(あさかり)や女婿の藤原御楯を参議に任じ,また衛府の要職や越前・美濃など関国の国司に一族与党を配して態勢を固めたが,そのころまた藤原良継,佐伯今毛人,石上宅嗣,大伴家持ら反仲麻呂派によるクーデタ計画が発覚した(763)。この事件は良継が罪を一身に負って一応おさまったが,今毛人,宅嗣,家持も左遷された。しかし,仲麻呂派も僧綱では少僧都慈訓,慶俊が解任されて,道鏡がこれに代わり,またそれまで絶対的な支配下にあった造東大寺司にも反対派の勢力がしだいに浸透してきて,形勢は悪化し,さらに妻の袁比良(おひら)についで,石川年足や御楯など有力な支援者が死に,飢饉・疫病に加えて物価が高騰するなど社会不安も高まってきた。

 かくして764年9月,仲麻呂は退勢を一気に挽回すべく反乱を企図し,みずから〈都督四畿内三関近江丹波播磨等国兵事使〉という地位につき,それら配下の諸国から多くの手兵を都に集めようとした。しかし,反乱計画は高丘比良麻呂や大津大浦らの密告によって孝謙上皇の知るところとなり,上皇は先手を打って淳仁天皇のもとにあった鈴印を回収しようとした。中宮院にあって勅旨の伝宣に当たっていた久須麻呂はこれを邀撃(ようげき)し,いちどは鈴印を奪回したが,授刀衛の坂上苅田麻呂らに射殺された。かくて鈴印の争奪戦に端を発し,仲麻呂は公然と反旗を掲げることとなったため,官位・氏姓を剝奪され,封戸・雑物も没収されたうえ,不意をうたれて淳仁天皇と行動をともにできなくなったので,氷上塩焼(塩焼王)を天皇に擁立し,永年拠点としてきた近江国の国衙に拠って,みずからを正統と称し,孝謙上皇方に対抗しようとした。しかし,田原道を先回りした追討軍佐伯伊多智に妨げられて勢多(瀬田)橋を渡ることができず,やむなく湖西を越前国に逃入しようとしたが,この計画も伊多智らが先に越前に入って国守であった子息辛加知(しかち)を殺し,愛発関(あらちのせき)を閉じたため,果たさず,後退して高島郡三尾埼に至ったところを,藤原蔵下麻呂(くらじまろ)らの追討軍主力に挟撃され,勝野鬼江から湖上に逃れようとしたが,石村石楯(いわれのいわたて)に捕らえられ,一族与党34人とともに湖浜で斬首された。乱後,淳仁天皇は廃位され,淡路に幽閉されたが,765年(天平神護1)脱走を企てて怪死し,新しく道鏡が大臣禅師に任ぜられて政権を掌握した。
執筆者:岸 俊男

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」













夫余 - Wikipedia
地理
夫余は長城の北にあり、玄菟から千余里はなれている。南は高句麗、東は挹婁、西は鮮卑と接している。北には弱水がある。国の広さは2千里四方ある。

戸数は8万戸あり、人々は定住生活をしている。城郭や宮室・倉庫・牢獄があり、山や丘や広い沢が多く、東夷地域では最も広い平坦な所である(トンペイ平原)。土地は五穀を育てるのに適しているが、五果はできない。

考古学上は、夫余は吉林省第二松花江流域を中心として展開した西団山文化に続く泡子沿類型に相当すると考えられている[14][15][16]。泡子沿類型に先行する西団山文化の範囲は吉林省吉林・長春・四平の各地区及び遼寧省撫順地区とされている[17]。境界としては凡そ北は拉林河、東は咸虎嶺、南は揮発河、西は遼河で囲まれる範囲であり、北西では松嫩平原には達しないとされている[18]。

習俗
衣食住
国内では白の衣服を尊重し、白布の大きな袂の袍や袴を着て革鞜を履く。国外に出るときは、絹織物・繡・錦織・毛織物などを身につけ金銀で飾る。大人は、その上に狐・狸・狖(黒猿)・白貂・黒貂などの皮をまとい、金銀で帽子を飾っている。

食飲は俎豆(そとう:食器、作法)を用い、宴会で酒杯を受けたり酒杯を返すときも、その立ち居振舞いは謙虚である。

陰暦の正月には、天を祭り、国中で大会を開き、連日飲食して歌舞する。この祭を「迎鼓」という。この時には刑罰を行なわず、囚人を解放する。

ただし、髪形の風習は述べられていない。 [19]

政治体制
国には統一的な君王がいる。古い夫余の風俗において、天候が不順で五穀の生育が順調でない時にはその責任を王のせいにし、あるいは王を替えるべきだと言い、あるいは王を殺すべきだとした。

官職の名称はすべて六畜の名でよんでおり、馬加・牛加・豬加・狗加の諸加があり、諸加はそれぞれ四出道を守り、勢力の大きな者は数千家、勢力の小さな者は数百家を支配していた。

諸加の下には大使・大使者・使者の諸使がある。邑落には豪民と呼ばれる奴隷を持った豪農、下戸と呼ばれる隷属農民や奴隷・奴僕と呼ばれる奴隷がいる。 [19]

産業
夫余の生業は主に農業であり遺跡では早い時代の層からも大量の鉄製農具が見つかるなど、農業技術や器具は同時代の東夷の中で最も発達していた。また、金銀を豊富に産出する土地であり、金属を糸状に加工して飾り付けるなど、金銀の加工に関しては非常に高い水準だったとされる。紡績に関しても養蚕が営まれ絹や繡・綵など様々な種類の絹織物が作られたほか、麻織物や毛織物が作られ東夷の中で最も発達していたとされる。

また牲の牛を多く養い、名馬と赤玉・貂・狖・美珠を産出し、珠の大きなものは酸棗(やまなつめ)ほどもある。『魏略』には、国は賑わい富んでいるとあり、その頃が最盛期だったとみられる。 [19]

武器
弓矢・刀・矛を兵器としている。家々には自分たちの鎧や刀剣類を所蔵している。 [19]

刑罰
刑罰は厳しく、人を殺せば死刑となり、その家族は奴婢にされる。盗みは盗んだ物の12倍を償わせる。男女が私通したり、婦人が妬んだりすれば、すべて死刑にされる。妬みによる罪をもっとも憎んでおり、その罪により死刑にされると、死骸は国の南の山上にさらされ、腐爛するまで放置される。死骸が腐爛したのち、その婦人の家人がその死骸を引き取りたいと望んで牛馬を連れていけば、死骸を与える。 [19]

婚姻
兄が死んだ場合、兄嫁を弟が妻とする。これは匈奴と同じ習俗(レビラト婚)である。 [19]

葬祭
有力者が死ぬと、夏期であればみな氷を用い、人を殺して殉葬する。多い時には殉葬者が数百人に達する。死者を厚葬し、遺体を納める棺(ひつぎ)があるが槨(かく)はない。また、喪に停すること5月、久しきを以って栄とする。その亡くなった者を祭るのに「生」と「熟」がある。喪主は速やかなるを欲せずして他人がこれを強制し、常に諍引してこれを節とする。男女は皆純白の喪服を着用し、婦人は布面衣(布製のベール)を着用し、環珮(腰に付ける環状の玉)を去らす。これらのことは大体中国と似ている。 [19]

その他の風俗
人々は体格が非常に大きく、性格は勇敢で、謹み深く親切であり、あまり他国へは侵略しない。

通訳が言葉を伝える時、みな跪いて両手を地につけ、小声で話をする。

戦争を始めるときは天を祭り、牛を殺してその蹄を見て開戦の吉凶を占う。蹄が開いていれば「凶」、蹄が合わさっていれば「吉」である。戦争になれば、諸加はすすんで戦う。下戸は食糧を担いで諸加に従い、諸加は下戸の荷う食糧を飲食する。 [19]

言語系統
詳細は「夫余語」および「扶余語族」を参照
中国の史書によると、夫余の言語は高句麗と同じとされ[20]、沃沮と濊もほぼ同じとされる[21]。一方、東の挹婁は独特の言語を使っていたとされ、夫余の言語と異なる[22]と記される。