鹽竈と多賀城と大亀大明神など、和賀さひこさんとか わかさひこ さかもと朝臣
和賀の社
和気の社
和賀
若狭
近江の人々とか
若狭の人々とか
渡来の人々があるのも事実だし
案内
穴内
穴井
宍戸
道先案内とかして
鉱物資源探索で
鹽
藻塩で竈を
煙
穴
ないとできませんしね
献上品ですよね
鹽は
それにたくさんの品物
鉄器もそうだし
剣もね
銅とか
鏡も必要だしね
いろんな金銀銅をどう採掘して
火を起こして精錬しないとならないし
金の細工とかさ
どうするかな
螺鈿や
漆とかもね
木の伐採でもそうだし
船を作る技法や技能を保持した人も必要だし
大きな
建物は
大きな船を作る技法を援用したりするしね
睦さん
さかもと朝臣
富谷市 - Wikipedia
年表
800年代の平安時代初期に、大亀山に大亀大明神(現・鹿嶋天足別神社)が鎮座する。
元和4年(1618年)吉岡黒川氏の家老を退いていた内ヶ崎筑後が、伊達政宗に宿場の開設を命ぜられ、富谷宿が誕生した。
元和6年(1620年) - 内ヶ崎筑後改め織部が検断と本陣を仰せつかる。
寛文元年(1661年) - 仙台藩主から酒の醸造を許され、現役の酒蔵としては宮城県最古の内ヶ崎酒造店が創業。
享保21年(1736年) - 千坂半左衛門が志戸田などに水利を開く農業用水路の土木工事に着工。
天明6年(1786年)頃 - 志戸田用水隧道完工 通水開始。160町歩(160ha)の水田が良田になった。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制の施行により、黒川郡富谷村、一関村、二関村、三関村、明石村、石積村、今泉村、大亀村、大童村、穀田村、志戸田村及び西成田村の区域をもって富谷村が成立。
1891年(明治24年) - 内ヶ崎家の好意により、しんまち地区の丘陵に本格的な公園・富ヶ岡公園が開設された。
1904年(明治37年) - 灯明から出火して鹿嶋天足別神社が全焼。
1912年(大正元年) - 電話が初めて設置された(富谷郵便局)。
1919年(大正8年) 電灯が初めて点いた。
1923年(大正12年) - 仙台軌道(後の仙台鉄道)・志戸田駅が開業。
1950年(昭和25年) - 仙台鉄道・志戸田駅が休止、そのまま廃止。
1957年(昭和32年) - 宮城県知事からの合併勧告を拒否。
1960年(昭和35年) - 内閣総理大臣からの合併勧告を拒否。
1963年(昭和38年)
4月1日 - 町制施行し富谷町となる。
7月 - 本田技研工業「富谷テックオートバイ競技場」が落成[15]。
10月 - 「河北ファミリーランド」が開園[15]。
1965年(昭和40年)4月 - 遊園地「富谷グリーンパーク」が開園[15]。
1970年(昭和45年)
富谷町新町に新しい町役場庁舎が完成(北緯38度23分55.5秒 東経140度53分20.4秒)[16]。
6月 - 町内初の大規模新興住宅地である向陽台団地(東向陽台)の開発が開始。
1983年(昭和58年) - 後に当市の特産物となるブルーベリーの生産組合が組成[17]。
1984年(昭和59年)12月 - 富谷バイパス(現在は国道4号の本道)開通。
1989年(平成元年) - シンフォニータワー完成。
1991年(平成3年) - 仙台市との境から奥州街道分岐までの国道4号4.8kmが4車線化。
1994年(平成6年)4月 - 町内初で唯一の高校である宮城県富谷高等学校開校。
1995年(平成7年)4月 - 大亀山森林公園全施設オープン。
2001年(平成13年)9月 - 市の区域内(当時は富谷町)の国道4号が全線4車線化終了。
2003年(平成15年)
3月 - 大規模小売店舗イオン富谷出店。
大字富谷字坂に完成した新庁舎に町役場を移転(北緯38度23分59.8秒 東経140度53分43.6秒)[16]。
2013年(平成25年)12月 - 町内初で唯一のインターチェンジである仙台北部道路・富谷ICが供用開始。
2015年(平成27年)
4月 - 町内で初めて屋内運動場の屋上にプールを設けた明石台小学校が開校。
9月11日 - 平成27年9月関東・東北豪雨で、竹林川の水位が上昇し、右岸の堤防を越えて氾濫。
2016年(平成28年)
4月 - 東北地方2店舗目となるアメリカ合衆国の会員制倉庫型量販店「コストコ富谷倉庫店」が出店[18]。
10月1日 - 黒川地域行政事務組合消防本部管轄の富谷出張所が消防署に昇格、「富谷消防署」となった[19]。
10月10日 - 市制施行して富谷市となる[20]。
2019年(令和元年)10月13日 - 令和元年東日本台風(台風19号)の接近に伴う集中豪雨により、竹林川右岸堤防から越水。付近一帯が水没した[21]。
地名の由来
昔々富谷のある山里に、 お政という絶世の美女がいた。お政に求婚する者は数多く、紫太夫もその中の一人だった。
ある日おまさが修験者に占ってもらうと「その美男こそ魔性のものに違いない」と言って、ある秘策を授けた。その夜も、求婚しに来た男に「明日の夜はっきりと返事をいたします」と言い、お政は男の着物の裾にそっと糸を縫いつけた。
翌朝糸をたどってみると、それは大きな木の洞の中に続いており、そこで初めて、紫太夫が大蛇の化身であることがわかった。
その夜、おまさは修験者に言われたとおり男に言った。「熊谷の源内にある大きな木にコウノトリの巣がある。その巣から卵をとってきてくれたら、あなたと結婚しよう」。紫太夫はいつになく寂しそうな表情を見せ、それ以後おまさを訪ねてくることはなくなった。
数日後、その噂を聞いた里人たちが源内にある大きな木に行った。するとそこには、バラバラに切断された大蛇の死骸があった。あの夜、大蛇は卵を奪うためにコウノトリと格闘になったのだ。大蛇が卵をかかえたコウノトリをぐるぐる巻きにした瞬間、コウノトリは自慢の羽をはばたかせて大蛇を殺した。大蛇の体は十個の破片となって飛び散った。里人たちは「大蛇は命がけで娘を愛していだんだねぇ…かわいそうだごど…」と、十個の死骸を十ヶ所に葬り、それぞれに宮を建て、ねんごろに弔った。
その10の神社を「十宮」と呼んでいたのが、「富谷」と書かれるようになったといわれている[22]。