百済くたら  と   余 あくり : あがりこ(余里戸)(余郷里戸)アゴウリコ | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

百済くたら  と   余 あくり : あがりこ(余里戸)(余郷里戸)アゴウリコ

 

高句麗と百済は戦争がある

 

また

 

百済は新羅と唐の連合軍によって

滅亡してしまう

國としては成立しなくなった

 

 

 

百済から王族も民衆も日本に避難してきた。

 

 

 

【コラム】百済の王族が眠る? 高井田山古墳 (5)昆支の渡来 | 大阪府柏原市 (city.kashiwara.osaka.jp)

 

 


亡命王族の寺 復元進む 百済寺跡・禁野本町遺跡(もっと関西) - 日本経済新聞 (nikkei.com)『朝鮮半島に戦乱が起き、多くの人々が日本に逃れる。古来、そんな悲劇が繰り返されてきた。660年、百済が新羅・唐に滅ぼされた時もそうだった。亡命してきた百済王族の子孫、百済王(くだらのこにきし)氏は約1世紀ののち大阪府枚方市の交野台地に氏寺と街を築いた。百済寺(くだらでら)跡と禁野本町(きんやほんまち)遺跡として今も名残をとどめている。』


『「この時、日本に逃れた百済人は王族や貴族から庶民まで万の単位だったのでは。日本の社会にも大きなインパクトだったはずだ」と東野(とうの)治之・杏雨書屋(きょううしょおく)館長(古代史)は語る。日本書紀には百済人を近江や東国に入植させた記録が残る。整備された東塔の基壇(大阪府枚方市の百済寺跡公園)百済王氏が交野台地に進出して百済寺を造営したのは8世紀後半。禅広の曽孫、敬福の時代だった。国司を務めた陸奥国で砂金を発見、聖武天皇に献上して東大寺大仏の造立に用いられたことで知られる人物だ。街は8世紀後期~9世紀中期に全盛期を迎えた。生母が百済の武寧王の子孫だった桓武天皇は百済王氏を優遇し、交野を訪れては鷹狩りに興じたという。』



 

 

 

 

房戸(ぼうこ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

房戸
ぼうこ

律令制時代の戸の一呼称。戸籍上の単位である郷戸 (ごうこ) を構成する 10人内外の小家族。初め郷戸は複数の房戸によって構成され,班田収授,租税などの単位であったが,天平時代になると房戸が賦課の単位とされるようになった。やがて戸籍,計帳のうえでは廃止された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典


房戸
ぼうこ

房とも。戸は律令制下の人民の基本的単位集団。戸令には50戸で1里を構成する規定があるが,717年(養老元)の郷里制施行によって,従来の里は郷と改称され,郷の下に2~3の里(コザト)が新設された。これにともない従来の戸も2~3の戸に分割され,従来の戸を郷戸(ごうこ),その下に新設された戸を房戸とよぶようになった。この時点の房戸は郷戸に比べて農民の実態家族に近く,課役の確実な収取が期待されたとみられる。やがて房戸と実態の乖離も進み,739~740年(天平11~12)の郷里制廃止とともに意味を失い,郷戸のなかに解消された。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」


房戸
ぼうこ
715年(霊亀1)から740年(天平12)までの間に、郷戸(ごうこ)の下に設定された戸の単位。この期間は郷の下に里(り)が置かれ、律令(りつりょう)政府の農民の掌握政策が強化されたことと関連して設置されたもの。721年(養老5)の下総(しもうさ)国葛飾(かつしか)郡大嶋(おおしま)郷戸籍に実例がある。

[鬼頭清明]

[参照項目] | 郷戸 | 戸籍
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

 

 

余戸(あまるべ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

 





余戸 (あまるべ)

日本古代律令制下の地方行政村落の一種。令制では50戸を1里(郷)として編戸し,国・郡・里の3段階からなる地方行政組織の末端に位置づけたが,各郡内の山間僻地などでは,この原則にとらわれず,便宜に里が設置されることになっていた。その際の最低戸数について,〈大宝令〉の注釈書である〈古記〉は25戸としており,これに満たない場合は里長を置かず,5戸を単位とする保の長に里長の職務を代行させるものとしている。これが余戸で,正式な里ではないが,それに準ずる特殊な行政単位としてやむなく置かれたものである。したがって,その後の戸数の増加等により,これが正式な里に昇格することもあったわけで,その実例とみるべきものも知られている。その際,出雲国神門郡伊秩郷のように固有名をもつ里となった場合もあり,《和名抄》に多く見えるように単に余戸郷と称される場合もあった。現在も各地に余戸,余目などの地名となって残っている。
→里(り)
執筆者:鎌田 元一

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典
 

 

大覚寺名古曽滝跡・大覚寺見どころ(修学旅行・観光) (kyototravel.info)

『名古曽滝は「今昔物語(こんじゃくものがたり)・平安時代末期成立」によると平安時代初期の貴族・画家である百済河成(くだらのかわなり)が作庭したとも言われています。名古曽滝はかつてかなりの水量があったとも言われていたが、平安時代中期に公卿・歌人である藤原公任(ふじわらのきんとう)が「滝の音は絶えて久しくなり成りぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」と詠み、平安時代中期に既に枯れていたとも言われています。また西行(さいぎょう)の和歌「今だにも かかりといひし 瀧つせの その折までは 昔なりけむ」によると滝石が閑院宮(かんいんのみや)に運び去られたとも言われています。なお大覚寺名古曽滝跡では1994年(平成6年)から発掘調査が行われ、1999年(平成11年)に復元が完了しました。百済河成は奈良時代後期の782年(延暦元年)に生まれたと言われています。百済第28代国王・恵王(けいおう)の後裔で、余時善の子とも言われています。』以上は京都ガイドのサイトから参照。

 

京都ガイド - 京都ガイド:祇園祭・葵祭・五山送り火・時代祭や世界遺産を紹介。 (kyototravel.info)

 

 

正史にはじめて特筆された画家・百済河成の生涯、『今昔物語集』に伝わる伝説の数々(JBpress) - Yahoo!ニュース

 

『『今昔物語集』には、飛騨(ひだ)の工(たくみ)と技術を競った説話が収められている。工が一間四面の堂を建てたので壁に絵を画いてほしいと河成を誘った。河成が行ってみて扉から入ろうとすると扉が次々と閉じてしまい、どうしても入れなかった。  数日後、河成が工を誘い、工が河成の家に行くと、部屋の中に腐敗した死体が横たわっており、工は驚いて部屋から飛び出した。その死体は河成が障子に画いた死人の絵であった。  という話が本当にあったとは思えないが、私は実はこの話を中学生の時に美術の平井憲廸(のりみち)先生(けっこう有名な画家)から聞いた。この先生はわれわれ高田学苑中学校全生徒の(美術に限らず) ものの見方を根底から変えてくれた方である。今回、河成の卒伝を読んで、先生を五十一年ぶりに思い出したので、ここに記して遺徳を偲ぶこととする。倉本 一宏』以上はJBpressのサイトから参照。