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小野猿麻呂(おののさるまろ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)

 

 



小野猿麻呂(読み)おののさるまろ
世界大百科事典(旧版)内の小野猿麻呂の言及
【猿丸大夫】より

…馬王成長して侍女に一子を生ませた。容貌いたって見苦しく,猿に似ているがゆえに猿麻呂と名づけ,奥州小野に住むによって小野猿麻呂といった。有宇中将とその妻は死して二荒山の神となり,それぞれ男体権現,女体権現となった。…

※「小野猿麻呂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」




添御県坐神社 (奈良市三碓町) - Wikipedia
添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)は、奈良県奈良市三碓(みつがらす)三丁目にある神社である。式内大社論社。大和国に6つある御縣神社の1つである。

祭神
現在の祭神は以下の3座である。

建速須佐ノ男命
武乳速之命
櫛稲田姫之命
武乳速之命は天児屋命の別名とされ、『新撰姓氏録』では津速魂命(中臣氏の祖)の子で添県主の祖とされる。一説によると祭神のうち武乳速之命の実名は、富雄川中域を治めていた首長である長髄彦であるという[要出典]。

歴史
概史
創始年代は明らかではないが、恐らく添御縣の国魂神を添縣主(姓氏録・旧事本紀に津速魂命男武乳遺命の裔)が祀っていたものであるとされる。また、当社鎮座地付近は古代豪族である小野氏が治める村里であったとされ、小野氏の氏神として祭祀されたものともされる。史料での初見は、天平2年(730年)の『大和国正税帳』で「添御県 神戸 稲152束8把、租20束、合172束8把」と記載されている。『延喜式神名帳』では大社に列しており、月次・新嘗の奉幣に預ると記されている。江戸期は牛頭天王社と称されていた。

古老の口伝には、武乳速之命は大和の先住民の首長・長髄彦で、神武東征による大和平定の際に、捲土重来を期して蜂起を図る先住民を説き伏せた上自害し、これを惜しんだ遺民が当地にその霊を祀ったのが鎮座の起源という。しかし明治時代以降、神武天皇敬仰の風潮の中で本名を表出することを憚り改称したという[1]。

神階
天安3年(859年)1月27日、従五位下から従五位上 (『日本三代実録』)- 表記は「添御縣神」。
文化財

本殿(重要文化財)
重要文化財(国指定)
本殿 - 永徳3年(1383年)の建立。明治40年(1907年)指定[2]
境内社

福神宮
福神宮:小野福麿公を祀る。
英霊殿
恵比須神社
天之香具山神社
竜王神社
脚注
^ 「添御縣坐神社」『奈良県神道青年会』
^ 明治40年8月28日内務省告示第93号(参照:国立国会図書館デジタルコレクション)
参考文献
ご参拝のしおり 富雄の里のパワースポット添御県坐神社

外部リンク
添御県坐神社(公式サイト)
表話編歴
神道
カテゴリ: 奈良市の神社式内大社大和国の式内社奈良市の重要文化財重要文化財 (建造物)

 

 

 

 

 

 

 

 

 




和気氏(わけうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク (kotobank.jp)
和気氏(読み)わけうじ
改訂新版 世界大百科事典 「和気氏」の意味・わかりやすい解説
和気氏 (わけうじ)

吉備(岡山県)の東部,備前・美作を基盤とする地方豪族。古代日本において,5,6世紀ごろの吉備一帯を代表したのは吉備氏(きびうじ)で,備中を中心とし旭川,高梁(たかはし)川の流域に上道臣(かみつみちのおみ),下道臣(しもつみちのおみ)など5氏が分布していたが,その後,吉井川の流域に台頭したのが和気氏であると思われる。和気氏の祖先伝承は,吉備氏のように《古事記》《日本書紀》には記されず,《日本後紀》の和気清麻呂の没時の伝にはじめて登場する。それによると,和気氏の祖は垂仁天皇の皇子鐸石別(ぬでしわけ)の3世孫弟彦(おとひこ)である。弟彦は神功皇后の新羅遠征にしたがい,その帰途忍熊(おしくま)皇子の反乱を播磨・吉備の堺山で打ち破った功によって,藤野県(ふじののあがた)に封ぜられた。これが今の美作・備前両国にあたるという。《新撰姓氏録》はこれを吉備磐梨県(いわなすのあがた)に封ぜられたとしている。吉備氏が応神天皇の吉備行幸を在地豪族として迎え,同族・兄弟5人が膳夫(かしわで)として奉仕したので,それぞれが各地域に分封され5氏族の祖となったというのと異なり,皇族の出であることを強調している。つまり和気氏は吉備氏より新しく台頭し,吉備氏を抑制する役割をもつ氏族といえるだろう。和気氏のワケ(別)とは,人名に付する尊称からカバネに転化し,皇族から分出した伝承をもつ地方豪族の称として用いられ,やがて氏の名そのものとなった。和気氏も,もとは磐梨別=石生別(いわなすわけ),さらに藤野別=輔治能別(ふじのわけ)の氏姓を称していた。

 8世紀に吉備より吉備真備が出たのにたいし,和気氏より和気清麻呂,その姉広虫,清麻呂の子広世,真綱,仲世らが出て,中央政界で活躍したが,同時に美作・備前両国国造(くにのみやつこ)として在地豪族の地位を保ち,同族は藤野郡大領でもあり,祖先以来の墳墓も本郷にあって,拱樹林をなしていたという。10世紀に,和気氏は医道を家学とした。清麻呂の曾孫時雨(しぐれ)が医博士より典薬頭になったのにはじまるが,《尊卑分脈》や《和気系図》によると時雨の母方の氏族宮勝利名(みやのすぐりとしな)に由来するものらしい。中世・近世を通じて京都の貴族半井(なからい)家として医道を保持した。
執筆者:平野 邦雄

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典