明治学院大学と最左翼の過激派の人たち、、、、 | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

明治学院大学と最左翼の過激派の人たち、、、、

明治学院大学と最左翼の過激派の人たち、、、、



そもそも

反体制など主張していた若者たちは

1968年15歳とか16才とか17才とか18歳とか

19才とか20才とか

ですからね

 

1948年くらいに誕生している

それから1950年代

 

戦後の復興の時だから

 

何があるのでしょうね

日本国懺悔思想かな

天皇の不始末を謝罪せよ

とかいいうのでしょうね

 

 

 

プロテスタントの教理などは

 

日本にはキリストの意図は通用しませんね

どうしても

無理だと思います

きちんと

対話しませんから

どうしても

感情や

気分に

酔う事に

偏執していきまして

 

自己憐憫

自己陶酔

となるから

 

あまりにも

感情を優位にして

気分を高揚する事を

幸福なんだと

信じ込むキライがあるね

 

 

なぜでしょうな

 

島だから

八州だからでしょうかね

 

 

 

すめらきの

みことのことも

すめらかす

すへからくことを

はくこと白い木

 

 

頎甫詠み

 

 

おにころし

人もおになる

反抗も

とちらも鬼と

あいなる始末

 

 

鬼甫詠み

 

 

 

 

 









桐島聡 - Wikipedia
桐島 聡(きりしま さとし、1954年〈昭和29年〉1月9日[1] - )は、1970年代の日本のアナーキズム系新左翼過激派である東アジア反日武装戦線のメンバー[2]。同派による連続企業爆破事件の容疑者として全国に指名手配されている[1]。

人物・来歴
経歴
広島県深安郡神辺町(現:福山市)出身[3]。広島県立尾道北高等学校[要出典]卒業後、1972年4月に明治学院大学法学部に進学。明治学院大学在学中に黒川芳正や宇賀神寿一と出会い、東アジア反日武装戦線に「さそり」班として参加し、20歳から21歳の間に連続企業爆破事件の複数のテロ事件に関与した[2]。

連続企業爆破事件への関与
1975年4月18日、東京の銀座の韓国産業経済研究所の入口に手製の時限信管付爆弾を仕掛け翌日に爆発させた[4][5]。これによってビルの一部が損壊した[6]。警視庁は本事件を中央区内連続企業爆破事件とも呼んでいる[1]。爆弾は同グループが地下出版した腹腹時計に掲載したもので、同グループで薬剤師資格を持つ大道寺あや子が勤務先から横領した薬品などを使って製造したものが使われた[7]。現在指名手配されている直接の容疑は、このオリエンタルメタル社・韓産研爆破事件における爆発物取締罰則違反であるが、それ以外にも、共犯である黒川らの刑事裁判で、

鹿島建設爆破事件(1974年12月23日。死傷者なし)[8]
間組本社ビル(9階・6階)及び大宮工場同時爆破事件(1975年2月28日。桐島が共謀した本社ビル9階爆破で1人が加療4か月の骨折・熱傷等)[8]
間組江戸川作業所爆破事件(1975年4月27日。1人が加療約1年3か月を要する頭部外傷等)[8]
間組京成江戸川橋工事現場爆破事件(1975年5月4日。死傷者なし)[8]
に桐島が共謀・実行で関与したことが認定されている[8]。ほとんどの事件で桐島と行動を共にした黒川には無期懲役[9]、宇賀神には懲役18年[10]が確定している。

逃亡
1975年5月19日、東アジア反日武装戦線の主要メンバー7人が逮捕されたのを契機に逃亡。黒川が所持していた桐島の家の鍵からまだ警察が把握していなかった桐島の存在が明らかとなり、桐島は警視庁公安部に爆発物取締罰則違反で全国一斉指名手配された[5]。東京都新宿区歌舞伎町の大衆料理店で、逃走直前までアルバイトをしていたとされるが、同年5月20日に渋谷区内の銀行で現金を下ろした後、同31日に広島県の実家に電話をかけ、「岡山に女と3人でいる。金を準備してくれ。国外へ逃亡することも考えている」などと父親に伝えたのを最後に足取りが途絶えた[11]。

1989年と1990年、警察庁は過激派の爆弾犯、誘拐犯ら10人を指定の公開手配とした中の1人に桐島を挙げた[4]。1987年だけで警視庁は桐島を含めた10名を掲載した手配チラシを700万枚印刷し全国に配布した[4]。半世紀近くも生死を含め行方がわからず、東アジア反日武装戦線のメンバーの中で、一度も逮捕されていない唯一のメンバーであった[2][5][12]。また東アジア反日武装戦線の中で、前科がないただ一人の人物でもあった。

公訴時効について
間組本社ビル等爆破事件に関しては、共犯者の佐々木規夫と大道寺あや子が起訴後にそれぞれクアラルンプール事件とダッカ日航機ハイジャック事件により国外逃亡したため、刑事訴訟法254条2項により共犯者の公判が継続中という扱いで公訴時効が停止したままである。

また、佐々木・大道寺が関わっていないオリエンタルメタル社・韓産研爆破事件では、共犯者の浴田由紀子が同じ経緯で国外逃亡した後、身柄拘束されて2004年8月に判決が確定し、そこから桐島の公訴時効が再開されることとなった(当時の爆発物取締罰則1条での公訴時効は15年)。しかし、2010年の法改正によって、桐島の公訴時効は、犯行時から起算して、1975年6月10日に浴田が起訴されて[13]2004年8月に判決が確定するまでの期間を除いた上で、25年になった(刑事訴訟法250条2項)。そのため、公訴時効の完成は2029年と見られる。

これ以外の事件では、すでに桐島の公訴時効が完成していると考えられている。ただし、桐島が国外にいた可能性が出てきたため[14]、逃亡期間によっては時効は完成していない。

身柄確保
2024年1月25日、桐島聡と見られる男が入院している旨の情報提供が警視庁になされたことを受け、警視庁公安部による男の特定作業が開始された[15]。翌日、男が神奈川県鎌倉市の病院に偽名で入院しているところを警視庁公安部によって、その身柄を確保された[16]。男は既に事情聴取に対して、事件の関係者しか知り得ない当時の状況などについて話しており、こうした状況から、警視庁公安部は男が桐島である可能性が高いとしてDNA型鑑定を進められた[17][18][19]。 男は「ウチダヒロシ」という偽名で入院しており[20]、末期の胃癌を患っていて、治療が行われていたが、25日までに自らが桐島であるという説明を始めたことから、職員が通報した[21]。「最期は本名で迎えたい」などと話しているという[22]。その後、数日で危篤状態となった[23]。

その後の捜査の結果、事件後の海外への渡航歴は確認されてないが、逃亡中は海外にも滞在していたことをほのめかしており[24]、数十年前からは「内田洋(ウチダヒロシ)[25]」という偽名を使って神奈川県藤沢市内の工務店で住み込みで働き[26]、勤務先に近い古い木造2階建ての6畳の寮で一人暮らしをしていたことが判明した[20]。周囲には「岡山県出身」と話していた[27]。免許証や保険証や金融機関の口座など身分証明するものは一切持っておらず、給料は現金で受け取っていたという[26]。

身元の確認が進められている最中の1月29日午前7時33分、男は入院先の病院で死亡が確認された[28][29]。親族は遺体を引き取ることを拒否しており[30]、警視庁は複数の親族からDNA型の提供を受けて[30]、今後男が桐島本人と特定された場合[30]、被疑者死亡のまま書類送検する方針である[30]。

テレ朝ニュース内で、当時の警視庁の鑑識官として複数の現場を捜査した元捜査員戸島国雄によると、「桐島は、東アジア反日武装戦線メンバーの一員として床下に穴を掘り、爆弾製造をしていたものとみられる。犯行を隠すため用意周到で証拠を残さず、照合すればわかる指紋を一つも残さないということを彼らは知っていて徹底していた。50年近くにも及ぶ逃亡を続けられたのは、証拠を残さない慎重な行動があったからでは、と分析している[31]」と話す。

人柄
身長は160cm位で強度の近視、足が細い、広島弁、顔にニキビの跡がある、唇が厚いなどの特徴を持つ[1][4][6]。

音楽好きで知られジェームス・ブラウンやカルロス・サンタナを好み、月1回程度、音楽好きが集まる藤沢市内のバーに顔を出していた[26]。

 

 

 


宇賀神寿一 - Wikipedia

宇賀神 寿一(うがじん ひさいち、1952年12月28日[1] - )は、東京都出身の学生運動家、テロリスト。アナーキスト系新左翼活動家。東アジア反日武装戦線「さそり」部隊の元メンバー。出所後は新左翼逮捕者らの人権団体の救援連絡センター事務局員[2]。

来歴
活動家に目覚めたのは明治学院高等学校時代のベトナム反戦運動からであると述べている。部落解放運動・在日朝鮮人・韓国人の活動に関わる。また、三里塚闘争などにも参加する[2]。

1971年4月、明治学院大学社会学部に進学。明治学院大学在学中は、「学費値上げ反対闘争」「ワーキングプア救済闘争」に参加。その中で逮捕されていった。明治学院大生の学生運動家の獄中闘争支援や在日問題に関わり、反体制、反日思想を醸成させていった[2]。1972年10月頃、他大学の学生活動家を通じて、山谷の下層労働者を具体的に支援していくべく活動し始めていたグループ「底辺委員会」の会議で、後年「さそり」部隊でともに武装闘争を闘うことになる黒川芳正と出会う。学生を続けながら、同年末から年始にかけての山谷の越冬闘争に初めて参加し、「日雇い下層労働者のおかれている現実を実地で知り、また労働者の闘いに大きく立ちはだかる警察権力や、ヤクザとの鋭い緊張関係の中で、闘いの道義性への確信を深めていった」と述べている[3]。

73年の夏に、単身で大阪の釜ヶ崎に西下し、ドヤに投宿して自らも日雇い肉体労働を経験する。ある日、労働者同士のケンカが起きた際、現場への救急車の到着に時間が掛かったことなどを切っ掛けに、現場周辺に労働者たち集まりだし、日常的に感じている諸々の怒りや不満を口々に叫び始めたとしている。暴動へと発展するかのように見えた最中に、「労働者を装った私服警官たちがナチス棒(伸縮式特殊警棒)を振るい、抗議する労働者を叩きのめすといった警察の徹底した暴力的弾圧を目の当たりにした」と主張している。宇賀神は「非常な憤りを感じ、圧倒的な国家権力の暴力に対してそれをなんとかして打ち破るような闘いを考えなければ、下層労働者の闘いの発展は望めない」との思いを抱くようになったと述べている[4]。

73年秋頃、宇賀神は黒川より打診され、高田馬場や川崎といった比較的規模の小さな寄せ場に実態調査に着手する。労働条件の改善や、悪徳業者を追及する取り組みを隠然と後方支援する。同年年末から翌74年の年始の山谷越冬闘争においては、行政による労働者の一時収容施設への刈り込みと収容施設の実態調査に従事する。『下層労働者の闘いをさらに発展させるためには武装闘争が必要である』との考えを持つようになっていた宇賀神は74年6月、黒川との話し合いの中で武装闘争に踏み出す決意をする[5]。同年より、宇賀神と同じく明治学院大学の学生であった桐島聡とともに、東アジア反日武装戦線「さそり」に参加し、一連の連続企業爆破事件に関与する[2]。

1975年5月19日に東アジア反日武装戦線各部隊の主要メンバー7人が一斉に逮捕される。直後に黒川が所持していた宇賀神の家の鍵から、まだ警察が把握していなかった宇賀神の存在が浮上した。宇賀神は警察に指名手配されたことを契機に、地下潜行生活に入る。学籍のあった明治学院大からは除籍処分を受ける[6]。

指名手配から7年後の1982年7月13日、東京都板橋区内で逮捕される。宇賀神は3月まで偽名で新聞販売店で働いていた。1990年2月に最高裁が懲役18年判決を維持し、刑が確定した。岐阜刑務所に13年間服役し、2003年6月11日に出所。未決勾留期間も含め、合計21年間の獄中生活を過ごす。

出所後の宇賀神は救援連絡センターに就職した。事務局員として同センターの運営を担い、活動を推し進めながら「冤罪のない社会」を目指すとして、出所後も反権力闘争を行っている[2]。 そのほか、三里塚闘争関係者がいる、一般社団法人スズガモで、介護に従事している。

著書
『ぼくの翻身[ふぁんしぇん] 宇賀神寿一 最終意見陳述集他』(発行:東アジア反日武装戦線への死刑・重刑攻撃と闘う支援連絡会議)














 

 

 

 





黒川芳正 - Wikipedia

黒川 芳正(くろかわ よしまさ、1948年1月26日[1] - )は、日本の新左翼活動家。元東アジア反日武装戦線「さそり」メンバー。獄中者、映画監督である。

人物・来歴
山口県立宇部高等学校を卒業後、東京都立大学 (1949-2011)文学部哲学科に進学。その後、中核派の活動家となった黒川は佐藤首相訪米阻止闘争、1968年には佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争に参加。その後、中核派からは離れたが、東大安田講堂事件で武装闘争を決意した。

山谷や釜ヶ崎といった寄せ場で日雇い労働を行いつつ暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議や山谷底辺委員会に関与した。

佐々木規夫を通じて大道寺将司に会い、東アジア反日武装戦線に参加。1974年に「さそり」を結成し、底辺委員会メンバーの宇賀神寿一や桐島聡とともに連続企業爆破事件を起こす。1975年に逮捕される。逮捕時に所持していた鍵が他の逮捕されたメンバーの者と一致せず、追及の結果、逮捕されていないメンバーの宇賀神寿一や桐島聡の存在が判明した。

1979年11月、東京地裁で無期懲役の判決が下る。

最高裁へ上告中に1987年1月に口頭弁論が開かれる直前に弁護方針の食い違いなどを理由に弁護人について解任届を提出していたが、最高裁は「訴訟遅延が目的で無効」として弁護人に弁論を行うように求めたが、弁護人は拒否したために同年2月に弁論抜きで閉廷し、同年3月24日、最高裁にて上告棄却し、無期懲役が確定した[2][3]。

2018年現在、宮城刑務所に収監されている[1]。

1987年、獄中から監督をして異色のドキュメンタリー映画『母たち』を製作している[4]。黒川自身の母を含む大道寺や益永利明ら獄中メンバーの母たちへのインタビューを構成したもので、カラー8mm、上映時間は120分である[4]。のちにビデオ化も行なわれ、1997年、山形国際ドキュメンタリー映画祭で上映されている[4]。