尾張の萬歳は秀吉さんの差配で、京都の声聞師の左遷ではじまるという事だ、横手も萬歳があるのです | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

尾張の萬歳は秀吉さんの差配で、京都の声聞師の左遷ではじまるという事だ、横手も萬歳があるのです


三河萬歳 - Wikipedia

起源

三河萬歳の様子を描いた三河製絲のチョップ
安土桃山時代、国家の雇用人であった陰陽師が、弾圧や迫害を受け衰微し、その後、1594年(文禄3年)に豊臣秀吉がすでに民間の陰陽師となった声聞師にたいし、荒地の開墾を命じ(120人余り)、辛うじて生き残った多くが尾張(尾張国春日井郡清洲付近)に追いやられ、そして千秋万歳をおこし、それが尾張万歳として生き残り、現在の上方芸人、浄瑠璃、歌舞伎の基になったといわれ、歌舞伎は、京都で出雲大社の巫女が男装をして踊り、現代に引き継がれたと 吉川弘文館 陰陽師と貴族社会 繁田信一著によって記述されている。

また地域伝承として1598年(慶長3年)の豊臣秀吉の死後も、多くの声聞師が京や大坂に帰らず尾張に留まり、その中から三河に万歳を伝えるものがあったという。これは尾張万歳も起源を同一と見る説であるが、それぞれ三河万歳である別所万歳、森下万歳を伝承する地では、これとは異なった起源も地元では伝えられている。

別所万歳
室町時代の応仁の乱(1467年 - 1477年)を逃れた尾張の熱田薬師寺の僧玄海が、長谷部郷(現・岡崎市西本郷町、安城市東・ 西別所町一帯)へ移り住んで、国家安泰と五穀豊穣の祈祷をして舞楽(礼楽舞)を奏したことが始まりと伝えられている。玄海は徳川家の前身である安祥松平家初代当主の安祥城主松平親忠の依頼に応じて矢除けの祈祷、 万歳祝言などをして長谷部郷に15町四方(約225ha)の土地を与えられ、そこを別所村と名付けた。その地名より別所万歳と呼ばれる。玄海の後を継いだ大行日吉法印(位牌から実在が確認)は、安祥松平氏に臣従し、矢除けの祈祷や万楽祝言を行い、万歳師を統括していった。徳川家康(安祥松平家六代当主)の関東移封以降、万歳師一党は、関東17か国の巡回の権利を獲得し、関東一円に旦那場を広げていく。江戸中期以後、万歳師は土御門家の支配下に入り、陰陽道職となった。万歳といえば、三河万歳といわれるようになるのもこの頃からで、江戸時代を通じて代表的な芸能に成長していった。

森下万歳
伝説によると、鎌倉時代中頃に実相寺の開山の応通禅師が、中国への留学時代に隋の煬帝が作られたという万歳楽を覚えて帰国した。後に南宋の陳照答谷という官吏が、元との争いで日本へ亡命して応通禅師を頼り保護を願い出た。応通禅師は陳照答谷の生活の糧となるように、習い覚えた万歳楽の曲に仏教の布教のための言葉をつけ、教えたという。伝承地の西尾市上町辺りを古くは森下村と呼んだことから森下万歳と呼ばれる。 なお、幸田の三河万歳は、1897年(明治30年)に西尾の森下万歳の太夫に相手役の才蔵として付いたことにより伝えられたもので、特別な呼び名はなく単に「幸田の三河万歳」と呼ばれる。

歴史
明治以降

1915年6月、碧海郡六ツ美村(現・岡崎市中島町)で悠紀斎田お田植えまつりが行われた。その折に六ツ美第三尋常高等小学校の校庭で三河萬歳が披露された。
徳川家の庇護も無くなり陰陽師も禁止されたため、三河万歳は後ろ盾を失ったが、尾張万歳から娯楽性の高い三曲万歳などを取り入れることで万歳を継承していった。1887年(明治20年)以降に万歳師は神道職となり、「天の岩戸開きの舞」など日本の神話にちなんだものが演目に取り入れられた。

しかし、第二次世界大戦後には、他の地域に伝わる万歳同様に三河万歳も衰退した。一時期、別所万歳、森下万歳ともに地域に継承者がいなくなる事態に陥ったが、他の地域に住んでいた三河万歳の万歳師から芸を受け継ぎ復活させた。やがて保存活動が実を結び、1995年12月に国の重要無形民俗文化財の指定を受けるに至った。

主な演目
御門開き
三羽鶴の舞
七草の舞
天の岩戸開きの舞
伝播
系統の万歳
愛知県三河地方以外で三河万歳の系統に属するおもな万歳

会津万歳(福島県郡山市)
秋田万歳(秋田県秋田市)
阿蘭陀万才(長崎市)※長崎くんちの奉納踊
その他
土御門家
平安時代の陰陽師である安倍晴明の系譜を引き、陰陽道を家業とした京都の公家で、江戸時代の1683年に将軍の徳川綱吉から「占いを行う者は全て土御門家の差配に従うように」という朱印状が出され、陰陽師らを統括する陰陽道宗家とされた。万歳は元来、新年を言祝ぐ芸能であり儀式でもあったため、万歳師は陰陽師と同じ括りであった。そのため三河万歳の万歳師は土御門家から免許状をもらい、毎年貢納料を納めて江戸をはじめ関東17カ国を巡回する権利を得ていた。いわゆるこのお墨付きがあるおかげで、通行手形なしで関所を通過でき、万歳をするために江戸城内や大名の屋敷にも入ることができた。

才蔵市
江戸時代、毎年12月28日に江戸の日本橋南詰四日市(現在の東京都中央区日本橋一丁目あたり)に立った、万歳の相方となる才蔵を雇う市場のこと。三河万歳の場合、三河から太夫が単身で江戸に向い、現地で才蔵を期間雇用するが慣習となっていた。才蔵は主に下総(千葉県)からきた農民で、太夫に雇われると正月までの短期間に才蔵を演じる手ほどきを受けた。しかし太夫は、呼吸の合う気に入った才蔵を見つけると、年末に再び万歳を組むことを約束し三河に帰るため、新規に雇われる機会が減っていき、江戸時代後期の天保の頃には廃れていった。三河から来る万歳の太夫も房総から来る才蔵も、互いに遠方同士ではあったが、農閑期に万歳師となる農民という同じ境遇故に義理固く、年末に江戸にある太夫の定宿に才蔵が尋ねて行き再会するが、病気や弔事で行けない時などは代わりのものを差し向けた。

関連項目
萬歳
尾張萬歳
参考文献
繁田信一(著)『陰陽師と貴族社会』吉川弘文館
外部リンク
三河萬歳 文化財ナビ愛知
三河万歳 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
カテゴリ: 重要無形民俗文化財三河国安城市の文化安城市の歴史西尾市の文化西尾市の歴史幸田町の歴史予祝芸能陰陽道新春の季語
最終更新 2024年1月5日 (金) 14:00 (日時は個人設定で未設定ならばUTC)。






萬歳 - Wikipedia
萬歳(まんざい、万才)とは、日本の伝統芸能の一つである。新年の言祝ぎの話芸として全国で興り、現代の漫才の元になった。地名を冠して区別することが多い。

形式
編成
萬歳は太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の2人が1組となるものが基本となるが、門(かど)付けではなく座敷などがある。

扇・楽器
多くの萬歳は舞扇のような扇子を用いるが、三河萬歳は中啓(能楽で使う扇の一種で、閉じた状態を横から見た時に先が広がっている)を用いる場合が多い。

楽器について、基本は才蔵が持つ小鼓だけだが、演目によりさらに三味線と胡弓を加えたり、太鼓・三味線・拍子木を使用するものもある。越前萬歳と加賀萬歳はすり太鼓(小太鼓を細い竹の撥で擦るように鳴らす)を用いる。

衣装
古くは舞楽の装束をまね、太夫は鳥兜(とりかぶと)をかぶっていたが、室町時代になると侍烏帽子(さむらいえぼし)をかぶり、素襖(すおう)に平袴(ひらばかま)姿に、才蔵は大黒頭巾風のものをかぶり、大袋を背負う格好が普通であったようである。また、室町時代中期に門付けが一般化してくると、その際に太夫は裁着袴(たつつけばかま)をはいた。江戸時代には三河出身の徳川家によって優遇された三河萬歳は、武士のように帯刀、大紋の直垂の着用が許された。各地に広まった萬歳は、後に能や歌舞伎などの要素を取り入れたりしたことによって、さらに衣装が多様化した。

歴史
起源
起源については定かではないが、奈良時代の「踏歌(とうか)」(踏歌は宮中などにおいて春を寿ぐ行事で、男踏歌の舞人が舞楽の「万春楽(ばんすらく)」を足を踏み鳴らすように舞う際には万春楽と囃し、女踏歌の時は千春楽(せんずらく)と囃した)より、変遷したものと考える説がある。また雅楽には君主の長久を祝うめでたい曲として、千秋楽と共に萬歳楽(まんざいらく)という曲が伝えられていて、ここから千秋萬歳(せんずまんざい)となり、単に萬歳となったともいわれる。他にも、新年になると歳神が家々を訪れて寿福を授けるという民間信仰より来たものなどの説がある。これは、歳神に扮し自ら神の依代(よりしろ)となって祝福を与え歩いていたものが、やがて宮中に出入りするようになったというもので、豊年の秋を千回万回と迎えられるように長寿を祝う言葉の「千秋萬歳(せんしゅうばんぜい)」が名前の由来であるとする。

11世紀に当時の芸能や世相の一端を書き記した『新猿楽記』の「千秋万歳之酒祷(せんずまんざいのさかほがい)」という記述からも、平安時代頃すでに芸能として成立していったことが窺える。

変遷
千秋萬歳は平安時代の末期には貴族の間で毎年正月の慣習となっており、千秋萬歳法師が訪れ祝い言を述べ舞を舞った。貴族の衰退と入れ替わるように、武家が権力を持った鎌倉時代以降は、寺社や武家など権門勢家を訪れるようになり、室町時代になると、声聞師が千秋萬歳法師のかわりをするようになって、中頃には一般民家にも門付けしてまわるようになった。

伝播と拡大
大和(奈良県)の萬歳が千秋萬歳として京の都で行われ、後に尾張萬歳、三河萬歳へと伝わり、さらに全国各地に広まったものと思われるが、尾張萬歳、三河萬歳とも、伝承由来はこの通りとしていない。また越前萬歳(野大坪万歳)については、約1500年前の継体天皇にまつわる伝承を由来と主張するものもある。しかし江戸時代以降に伝わった地域の萬歳は、大体継承過程を明らかにしている。加賀萬歳は越前萬歳の流れを汲むものであるが、秋田萬歳、会津萬歳などは三河萬歳からの派生であり、伊予萬歳は尾張萬歳の系統であるといわれる。

衰退と復興
明治時代に、さらに多くの地域に分かれて各地の名前を冠する萬歳が登場するようになったが、その多くは三河萬歳と尾張萬歳の系統であった。仏教色の濃い陰陽道の影響下にあった三河萬歳は、神道に変化して国家神道の政策の中で残っていき、大正時代の中頃まで萬歳の参内はあったようである。一方、尾張萬歳は娯楽性を高め、通年で興行として成立するものも現れた。こういった新しい尾張萬歳の中から漫才の基礎となる形のものも生み出された。また、正月に行われる従来の萬歳も、民間での門付は第二次世界大戦頃までは盛んであった。しかし多くの萬歳は第二次大戦後に衰退し、大和萬歳については継承が無く途絶えてしまった。

現在ある、各地の萬歳には継承者を捜し出して復興させたものが多いが、成立時期が古いとされる三河萬歳(愛知県安城市・西尾市など)と越前萬歳(福井県越前市)が1995年(平成7年)に、尾張萬歳(愛知県知多市)が1996年(平成8年)にそれぞれ国の重要無形民俗文化財に指定された。

お笑いコンビのすゑひろがりずは狂言を元にしたネタを持つが[1]、メンバーの三島はM-1グランプリ2019の決勝に際してWikipediaの萬歳の項目を引用して「萬歳やって参ります」とツイートしている[2]。

全国の萬歳
主な萬歳
秋田萬歳(秋田県)
会津萬歳(福島県)
加賀萬歳(石川県)
越前萬歳(福井県) 国指定重要無形民俗文化財(1995年12月26日) 
三河萬歳(愛知県) 国指定重要無形民俗文化財(1995年12月26日)
尾張萬歳(愛知県) 国指定重要無形民俗文化財(1996年12月20日)
伊勢萬歳(三重県)
大和萬歳(奈良県)
伊予萬歳(愛媛県)
沖縄萬歳
沖縄県の高平良萬歳(たかでーらまんざい)は、一般的に組踊「万歳敵討」(まんざいてぃちうち)の一場面を抜き出した琉球舞踊の演目であって、この項目でいう萬歳とは異なる。本来の沖縄の萬歳は、首里郊外の安仁屋部落にいた萬歳行者(まんざいこーしー)が年のはじめに各家々の門に立ちよって祝言をとなえ人形を舞わせていたようであるが、大正時代には今帰仁などではすでに見受けられず、萬歳行者という言葉だけが伝えられていた。

関連書籍
しかたしん『ぼくと化け姉さん』(金の星社) - 主人公「ぼく」の親友「ありんこ松」が萬歳師の家系。
木内昇『笑い三年、泣き三月。』(文春文庫) - 戦後間もない浅草が舞台、万歳芸人の善造らの話。
脚注
[脚注の使い方]
^ 日本経済新聞社・日経BP社. “すゑひろがりず 着物姿で古語のかけ合い、いとをかし|エンタメ!|NIKKEI STYLE”. NIKKEI STYLE. 2021年3月13日閲覧。
^ すゑひろがりず三島 [@SUEmishima] (2019年12月22日). "本日はM-1決勝!!!萬歳やって参ります!!!". X(旧Twitter)より2021年3月13日閲覧。
関連項目
千秋万歳
表話編歴
日本の伝統芸能
詩歌    
和歌俳諧俳句琉歌
芸道    
茶道香道武芸書道華道
舞踊    
日本舞踊(舞踊り)神楽雅楽仕舞舞楽白拍子延年曲舞上方舞大黒舞 / 恵比寿舞纏舞筑紫舞翁舞歌舞伎舞踊剣舞鹿踊剣扇舞剣詩舞演武幸若舞風流踊
祭    
田楽踊念仏盆踊り花笠踊田遊び田植踊念仏踊り流鏑馬練り梯子乗り獅子舞なまはげ花火
語りもの    
唱導平曲盲僧琵琶薩摩琵琶筑前琵琶早歌太平記読み説経節祭文節談説教
唄    
雅楽地歌長唄荻江節うた沢端唄小唄都々逸詩吟民謡アイヌ音楽琉球民謡
音曲    
雅楽能楽囃子邦楽浄瑠璃節御座楽祭囃子寄席囃子
演劇    
雅楽猿楽能楽能狂言式三番薪能歌舞伎浄瑠璃人形浄瑠璃組踊・端踊伎楽からくり人形
演芸    
落語萬歳講談(講釈)浪花節(浪曲)俄女道楽放下太神楽影絵かっぽれ皿回しチンドン屋紙芝居
座敷    
芸妓芸者舞妓幇間
工芸    
彫金漆器 / 螺鈿 / 象嵌陶芸織物 / 染織 / 組紐曲げ物 / 指物 / 寄木細工 / 竹細工和紙 / 墨 / 硯 / 筆櫛 / 簪 / 根付 / 扇子 / うちわ草履 / 雪駄 / 草鞋 / 下駄籠 / 張り子 / 提灯 / 行灯 / 和蝋燭 / 灯籠茶釜 / 火鉢 / 七輪 / 和包丁 / 仏具風鈴 / ししおどし日本人形 / 郷土玩具和楽器木版印刷 / 和装本鎧 / 兜 / 日本刀 / 和弓 / 槍 / 十手 / 手裏剣畳 / 襖 / 障子 / 欄間駕籠 / 人力車 / 神輿 / 山車
カテゴリ カテゴリ
カテゴリ: 門付日本の伝統芸能言霊信仰予祝芸能話芸新春の季語









無住 - Wikipedia
無住(むじゅう、1227年1月17日(嘉禄2年12月28日) - 1312年11月9日(正和元年10月10日))は鎌倉時代後期の僧。字は道暁、号は一円。宇都宮頼綱の妻の甥。臨済宗の僧侶と解されることが多いが、当時より「八宗兼学」として知られ、真言宗や律宗の僧侶と位置づける説もある他、天台宗・浄土宗・法相宗にも深く通じていた。

梶原氏の出身と伝えられる。18歳で常陸国法音寺で出家。以後関東や大和国の諸寺で諸宗を学び、また円爾に禅を学んだ。上野国の長楽寺を開き、武蔵国の慈光寺の梵鐘をつくり、1262年(弘長2年)に尾張国長母寺(ちょうぼじ)を開創してそこに住し、80歳の時、寺内桃尾軒に隠居している。和歌即陀羅尼論を提唱し、「話芸の祖」ともされる。

80の時に「28日の卯の刻に生まれた」と記しており、この歳でこの時代の人間として誕生日を覚えていることは稀な例とされる[1]。伝承によっては長母寺ではなく、晩年、たびたび通っていた伊勢国蓮花寺で亡くなったともされる[2]。様々な宗派を学びながらも、どの宗派にも属さなかった理由については、自分の宗派だけが正しいとか貴いものと考えるのは間違いで、庶民は諸神諸仏を信仰していて、棲み分けており、場合や状況によって祀るものが異なり、そうした平和的共存を壊すのは間違った仏教の行き方だと考えていたためとされ、諸宗は平等に釈迦につながるため、どれも間違ってはいないという立場であったとする[3]。また、説法の対象は読み書きのできない層だった[4]。

著書は、『沙石集』『妻鏡』『雑談集(ぞうだんしゅう)』など。『沙石集』は54歳の時に執筆し、数年かけて5巻を完成させたが、死ぬまで手を加え続けた結果、全10巻となり、書いている過程で、他の僧侶に貸したものもあり、どの段階の本が無住の考えた最終的な本かを判断するのは難しいとされる[5]。また無住の経歴については、『雑談集』巻3の終わりに自叙伝が書かれている。

大隅和雄は、「無住は鎌倉の生まれで、梶原氏の子孫と考えてよい」との判断をしている[6]。

脚注
^ 森浩一他『地域学から歴史を読む』(大巧社、2004年) ISBN 4-924899-57-7 p.53(大隅和雄『沙石集』の世界より).承久3年(1226年)12月28日に生まれたとする。
^ 同『地域学から歴史を読む』 p.53.
^ 同『地域学から歴史を読む』 pp.65 - 66.釈迦の教えは8万4千もあり、その中から浅はかな人間の知恵で一つだけ選び、あとのものは捨てるといった考えを好まなかったとも(p.66)。
^ 同『地域学から歴史を読む』 pp.61 - 62.
^ 同『地域学から歴史を読む』 pp.53 - 54.
^ 同『地域学から歴史を読む』 p.59.
関連項目
鈴木正三 - 同様に禅、念仏、律宗と複数宗派の教えを学んでいる
尾張萬歳 - 漫才のルーツとされる
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長母寺 - Wikipedia

長母寺(ちょうぼじ)は、愛知県名古屋市東区にある臨済宗東福寺派の寺院。山号は霊鷲山。本尊は阿弥陀如来。

歴史
治承3年(1179年)にこの地の領主であった山田重忠の開基により創建された。当初は天台宗に属しており亀鐘山桃尾寺と号した。

弘長3年(1263年)に無住一円が入寺して以降禅宗寺院となり、山号・寺号が現在のものに改められ、一時末寺93ヶ寺を数えるほど隆盛した。また、無住はこの寺で『沙石集』のほか『正應年中萬歳楽』を著し、これが尾張万歳の起源となったとされる。[1]

中世には代々武家の帰依を得て北条氏・足利氏・織田氏などから寺領を寄進され、文禄年間(1593年 - 1596年)の太閤検地によって寺領が没収され一時衰退した時期もある。

天和2年(江戸時代前期、1682年)に尾張藩二代目藩主徳川光友の命により、禅僧・雪渓恵恭が再興している。

明和4年(1767年)7月、かつて、矢田川橋から菅田あたりは一面大きな池となっていた。当初、矢田川は、長母寺の南を流れていたため、長母寺と宝勝寺(現:守山区)とは地続きであった。大雨による矢田川決壊に伴い、矢田川が長母寺と宝勝寺の間を押し破り、流路が変わったことで守山から切り離された。

なお、長母寺付近を流れる矢田川は、1868年(明治元年)、1896年(明治29年)、1903年(明治36年)、1911年(明治44年)、1925年(大正14年)と、明治以降になっても度々洪水を起こしている。

明治24年(1891年)、濃尾地震により本堂倒壊されたが、その後再建されている。




 

 


 

 

2021年度、総合研究所では「仏教と伝統芸能」公開講座を予定していました。しかし、新型コロナウィルス感染予防の観点より、動画の撮影および配信を行いました。今回は、人気の高い話芸である漫才の源流とされ、尾張地方(愛知県とその周辺)に伝わる「尾張萬歳」とその一部をなす「六条萬歳」をとりあげます。特に「六条萬歳」は、親鸞聖人をテーマとしたもので、「六条」の名も、浄土真宗本願寺派の門信徒を対象として演じられてきたことによるものです。そこで、尾張萬歳の実演と対談を撮影・編集し、配信することにより、伝統芸能と仏教の関係を示すと共に、今日の伝道のあり方を考えてみたいと思います。

 

 

尾張万歳(愛知県知多市八幡字汐海道)