御勉強しましょう?!
スタッド
STUDY
辰須田ンド
なぜお勉強は嫌なのかな
自分で自由にしたらええんとちゃうんか
何に投資し力投するかであるだけで
その人の内実の
嗜む事
嫌だと生きる事の切なさとか
辛さは
方便品ですか?
御寺の御尚輪
何のために
音を吐き出して
祈る事かね
金こんかん
ベルも
ノートルダームは
我らの御婦人
という
貴賓の高倍方の呼称であって
マダーン
DAM
何を直ためてあるのか
恵みと云う事は
金粉では無い
で
グレース
グリコのグレースです
目には見える恵みと
人の目には直に見れない恵み
メリット
メルシー
メルセデーツ
です
同じ
なぜなら胸さしの剣のあるからです
それは
人の横暴さの礎
正に怒り
発奮し
自分の意図のそのままを成せ!!!!と
神妙に
怒るから
荒ぶる御霊もあること
の証明です
そして後悔する者もある次第だし
どこまでも居張って意を張りつつづける
そこに頑張るとか
御勉強すとか
自らの狙いの的当てに
懸命となる
次第
人を当て擦る
ことに
だけ
生きている証拠を求めて
味わう
苦菜を
なぜ
そこまで
して
アルカノイド
を好むかな
それで
興奮するとでも
そうかもしれないね
それが安泰と
言い含められてきた者が
仕返しの為に
最期は
自分を破棄して
喜ぶ事をしてはる方もあるものね
なぜなら
いたましいと
して
存在を喜ぶのに
それを反発する
素直では無い事を
自分で
どこまでも証明するのは
その方の
子の最も小さな体験の一つに
どこまでも
集約している
インパクトがあるお陰様ではないかなと
推察している次第
正に
親と子の
そのひな形の
連綿としている連なりの
結果が
今の
個人
個人の
受け止める
皿の上に
はやしのよにして
ある
といって
いいのではないかな
という仮説と
認知の方法です
他人を
受け止めるといいましてもね
どうしていいか
理解できませんね
何をどうして
どの方法
メソッドを
使うのか
その道具も
具備してあるが
いまいち
理解しがたい
則はあるし
規もあるし
倫もあるし
法もあるし
いろいろ
のり
はあるのですが
それらを
明確に
説明を聴く
すべてを一つ一つ
検分して
検証し
確実だと証明して
あって
採用する事は
かなり時間を必要としますので
積み重ねるためのメリットはやはり
何か
とあらかじめ
知っている必要が
必要十二分ある
そうしないと
金も
人も
ものことも
時間も
情報も
全部
丸ごと
投入する事ですので
そのアウトプットで
何を生産したのか
検分しないと
中身を
知らない事になる
やりっぱなし
では
結果オーライになることはまずない
正に
マルクス
エンゲレスの
怪物を生産してしまうのですから
モンスター
ですね
それでは
きっと世相も
人ひとりも
生きるための支障を
自分から好むし
呑み込むのでしょうし
そすると
自己内部に
その支障
である
モンスターを
呑み込むので
消化できるなら
まだいいけども
MINDSETまでうかがうなら
これは
かなり
致命の理に適う事を
自分で成すので
自動化していると
とめようがないと成る始末で
次第だと
いうしかない
であるので
完全に立位しても
跪いても
受け止める事こそ
永久に
重要な行為
WORKING作業となる次第で
要の要の一つといっていい
大風でも
大波でも
大水でも
大雪でも
日照り
大昼目でも
苦痛を
回避している事だけに力投するのは
疲弊する事だから
こそ
聴く事です
大事は
アクセプト
受け止める事は
同時に
観察し
聴くのです
反射する事
試験もあるし
指標は無数あるのですから
それら
必要十二分試して
本分を理解します
と
賢明とは徳目の一つだから
金目も必要に応じた投資がある事は適切な判断
ある人は不安の事で
なかなか
適切な投資ができんへんとなっている始末で
どうしても
失う事を
毛ぎらう
そこで
大損してしまっている方もあるが
なかなか
そこの部分は
意固地さで
状態の変化を期待しない
自分こそ正義と
信じ込むので
そのマインド形成は
今
肉体を保持しているからこそ
経験測の価しか
観ていないのです
これは危険を既に内包しているから
もしも
自己のマインド形成の価値が価と反すとなった
明快な事実があることを
はっきりと
照らして
示しある時は
最も危惧する時です
自滅の前の瞬間であるので
その時の準備がまるでないのですから
その人自身が
困る
信頼を基本は構築できていないからです
信頼とは
枢要徳の三徳の要になる徳ですので
信
に頼るための
信の
意味を先ず知る事は
自分を謙遜
どこまでも小さい者として
窮理学を知る事から仕事を開始すことです
自分を神にしている者は
もしも
正義者となりたいとか
嗜みがあるなら
それは恐怖の種子になること
です
これも誠実に
何も酔わないで
自分を
観る
鏡に映し出す事を
勇気を奮って実験すること
です
そうしないと
自分を曲げて観る事で
それを
イメージ化して
理想化して
自惚れたIDOL
となる次第だ
なんとも滑稽ではあるが
しかし
そこは
誠実に荘厳にして
じぶんを
あることの
尊重をどこまでも為すんだと
決意していないと
仕事は無理です
誰かを
見下して
思惑の通りにす
事に
ゲームを歓喜して
いる者ならば
それは
その人自身の滅びの内実を既に
自分で好むのですから
誰もそれを
どうにかすることは
できません
その方自身が
自分にきがつくしかない
し
自分の成立してきた
行為を
一つ
一つ
棚卸するという作業を
コツコツ
実務しないかぎりは
なかなか
困難な事実ではあるのです
そこも限りなく尊重し
さらに
同時に
最も小さな者に倣う事をして
奉納する事ですが
最も賢く
さかしくあることだと
それは
顕示されて
2000年の晒しモノとして
あまねく
あまなし
徳の中の徳
Sophiaとして
智慧の智慧と言われている次第です
上智の座する處と云う事です
南山堂上智因脳紫雲英