高いこころさし 帝 おおきみは、御上主として何を命令したのか?
高いこころさし 帝 おおきみは、御上主として何を命令したのか?
渡来の人々には
知識がある
どうしたら
人とは至福を得るか
福祉というのは
その事
幸福感情では無い
良好気分を醸す事ではない
具現として
もの
こと
しな
を
一緒に
構築し
造ります
工作すること
お互い
対話しないと
その作業は
協働に成る事はないのですよ!
おれおれ
われわれ
組合員だけのよきことしか追及しないのは
パルティ―
だけで
それは組合組織として
儲かるでしょうが
いつか崩落すの
自分から内部から
腐るのでね
そうなっている事を
まず
御勉強して観る事
世間を
そして
何があるか
木の実を検分して観る事ですな!
南無参一堂
慈恩寺 (寒河江市) - Wikipedia
奈良時代(創建)
伝承によれば、神亀元年(724年)に行基がこの地を選び、天平18年(746年)に聖武天皇の勅により婆羅門僧正菩提僊那が寺院を建立したのに始まるとされる。山号を寒江山とし、大慈恩律寺と称した。
しかし、奈良時代盛時の勅願寺であれば平地に七堂伽藍を建築するべきところを、慈恩寺は山中に伽藍を構築しており山岳寺院の傾向を持つ。麻木脩平[注釈 1]によれば、慈恩寺開創の時期は平安初期の9世紀と考えられるという。その根拠として第一に、全国的に弥勒菩薩を本尊とするか本尊に準ずる扱いを受けている寺院はほとんどが平安初期に創立されたものであること。第二に永仁の大火(1296年、後述)で焼失した本尊は平安初期に盛行した檀像風の像であったと考えられること。第三に慈恩寺が、寺号や弥勒菩薩との関わりが深い法相教学の寺院として創建されたと考えると、この寺を開いた僧侶は南都(奈良)仏教系の人であると考えられ、南都系僧侶が出羽国にまで教線を拡大する情熱と力を失っていない時期は平安初期までで、それ以後とは考えられない。法相宗の徳一が会津で活動したのは9世紀前半であり、山形県内にも徳一開基を伝える寺院があり、南都の法相宗が県内に進出したのはほぼ確実なことを挙げている。さらに、平安時代に出羽国に設置された定額寺の中に慈恩寺の名が見えないことから、慈恩寺は当初、定額寺に列せられるような規模の大きな寺ではなく、小規模な法相系の私寺だったのではないかと論じた[1]。
本山慈恩寺管長布施慶典の『法相宗について』によれば、現在でも本堂で行われる行事、修正会・一切経会などは法相宗の様式を伝えているという。
平安時代(再興)
天仁元年(1108年)、鳥羽上皇の勅宣により藤原基衡が阿弥陀堂(常行堂)、釈迦堂(一切経堂)、丈六堂を新造し、鳥羽院より下賜された阿弥陀三尊を阿弥陀堂に、釈迦三尊と下賜された一切経五千余巻を釈迦堂に、基衡が奉納した丈六尺[注釈 2]の釈迦像を丈六堂に安置した(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。このとき山号を雷雲山と改め、鎮守として白山権現を加えた(『慈恩寺縁起』)。一切経の納入や丈六釈迦如来像の建立など藤原清衡の建立した天台宗毛越寺との類似点は多い。既に寛徳2年(1045年)の時点で寒河江荘は摂関家領として成立していたことから、天仁の再興時の荘園領主で当時摂政だった藤原忠実が信仰していた天台宗の影響も考えられる[2]。仁平年間(1151年 - 1153年)に興福寺の願西上人を本願者、平忠盛を奉行として再興した(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。興福寺は藤原摂関家の氏寺であり、法相宗の総本山であった。寒河江荘の荘園主である藤原氏の庇護と、公卿への昇進を目前に控えた忠盛の財力をうかがわせる。また、慈恩寺再建にあたっての藤原基衡から平忠盛への奉行の転換については、久安5年(1149年) - 仁平3年(1153年)にかけて奥州藤原氏と藤原摂関家が年貢増徴をめぐって争ったことが遠因ではないかとの指摘もある[3]。
堀裕は「興福寺」願西上人は寒河江荘で活躍した法華経を信奉する修行僧ではなかったかと論じている。堀によれば、12世紀の慈恩寺の什物や建築物には天台宗の影響が色濃く見え、後の天台宗と真言宗の争いにより、天台宗が主流であった痕跡を寺伝から消すために、法相宗の総本山である「興福寺」願西上人を作り出したのではないか、とする[4]。
鳥羽天皇が崩御した保元元年(1156年)、保元の乱が起こり実権を握った後白河天皇の勅宣により今熊野十二所権現を勧進して社殿を建立する。保元2年(1157年)に火災で本堂が焼失するも、永暦元年(1160年)に再建された。この前年(1159年)平治の乱が起こっており、後白河院と二条天皇の対立は膠着状態であったが、やがて二条天皇及び関白藤原忠通が実権を握っていく。しかし、長寛2年(1164年)に忠通が、翌1165年に二条天皇が立て続けに死去すると、幼少の六条天皇を忠通の子藤原基実が摂政として補佐するものの永万2年(1166年)に急死してしまう。基実に伝領されていた寒河江荘は藤原基通が成人するまでの間、平盛子が一時的に預かるという形で、盛子の父平清盛の影響下に入った。平家との協調路線を模索していた後白河上皇もこれを黙認し、後白河の院政が開始する。 しかし安元2年(1176年)に後白河の寵愛を受けた平滋子が死去すると後白河と清盛の間にも亀裂が入り、鹿ケ谷の陰謀・平重盛の死去で関係は修復不可能になっていく。
やがて治承3年(1179年)に平盛子が24歳で死去すると、盛子が一時的に相続した摂関家領の相続問題が発生する。盛子が准母となっていた高倉天皇への伝領を清盛が画策したのに対して、摂政氏長者松殿基房が伝領を求めて後白河へ訴えたのである。後白河はこれに介入して自己の管理下に置いてしまう。これが引き金となり治承三年の政変が起こり後白河は院政を停止され、藤原基通が関白・氏長者となり、寒河江荘も摂関家領に戻った。関白・藤原基通は平家の都落ちに際して京都に残り、後白河院の側近となって度々関白を務め、後白河の死後も関白・摂政を歴任した。
文治元年(1185年)、後白河法皇の院宣と源頼朝の下文により、瑞宝山の山号を賜った。この時、高野山(金剛峯寺)の弘俊阿闍梨により真言宗がもたらされ、翌文治2年(1186年)、法皇の院宣により熊野権現社殿が修造された。白山権現は鎮守から外れることになり、天台宗も中心的役割を失っていく。後白河法皇は生涯34度におよび熊野を詣でており、その信仰心がこの地方まで影響していたことを示している。弘俊は修験を導入し、葉山を奥の院として葉山修験の中心地となった。
鎌倉時代(中興と大江氏)
阿弥陀堂
釈迦堂
文治5年(1189年)に奥州藤原氏が滅び、寒河江荘の地頭に大江広元が補任されると、慈恩寺も次第に大江氏(寒河江氏)の庇護を受けるようになる。広元の長男大江親広は建久3年(1192年)に寒河江荘を譲り受けるが、承久3年(1221年)承久の乱で失脚し寒河江荘に隠棲する。ただし、親広の子の大江広時、広時の子の大江政広は鎌倉幕府の要職にあり鎌倉に定住していたため、政広の子の大江元顕が初めて寒河江に入部したと言われている。『永正本大江系図』によれば、広元の末子・尊俊が別当坊を継いだことが記録され、『最上院系図』によると親広の孫・成広が別当二十二代を相続して幸繁を称し、三十代幸海・三十五代幸道も大江氏から入った[5]。このことは端的に、慈恩寺と大江氏が密接な関係を結んでいたことを示している。安貞2年(1228年)、勧進僧恵玄房経円が白山神社御宝前に木造の聖観音懸仏を納める(奈良国立博物館所蔵)。正応3年(1290年)、良源阿闍梨により求聞持堂が築造され、虚空蔵菩薩像を安置して聞持院と称した。ここでは虚空蔵求聞持法という密教の修行を行った。ここには、これ以前に薬師堂が建てられており、薬師三尊及び十二神将を安置していたという[6]。永仁4年(1296年)に火災で本堂及び本尊弥勒菩薩以下の諸仏が焼亡するが、正安元年(1299年)に再建が開始され、8年後に完成している。
正慶2年(1333年)、鎌倉幕府が新田義貞によって攻め込まれると、中央で鎌倉方に与した大江貞広なども北条高時に殉じた。貞広の弟懐顕や子顕広は寒河江氏を頼って落ち延びてくることになるが(『大行院大江系図』)、このことが契機となり、寒河江氏は南朝方陸奥守北畠顕家の配下に付いた。元顕の子元政は建武3年(1336年)に北畠軍による足利尊氏の攻撃に参加し、戦功を挙げている(『金仲山眼明阿弥陀尊略縁起』)。しかし、尊氏が軍を立て直して京を奪回すると延元3年(1338年)には北畠顕家が和泉国堺石津で戦死。同年、新田義貞が戦死し、翌年には後醍醐天皇が没して南朝は苦戦を強いられるようになる。東北地方においては、北畠顕家の弟北畠顕信が下向し、寒河江氏はその元で寒河江荘北方を奪還するなど慈恩寺近辺においても戦乱の様相を呈する。文和3年/正平9年(1354年)、斯波家兼が北朝の奥州管領として下向すると陸奥国は北朝の勢力下となり、延文元年/正平11年(1356年)、子の斯波兼頼が出羽国に進出し、延文4年/正平14年(1359年)に大江元政が打ち取られたという。
これ以降、寒河江氏は斯波氏(後の最上氏)の圧力にさらされることになり、延文元年/正平11年(1356年)に火災で慈恩寺本堂・釈迦堂以外が焼亡しているが、大規模な造修の記述も乏しくなる。さらには応安元年/正平23年(1368年)、大江氏と斯波氏は漆川の戦いで激突し、大江氏は滅亡こそ免れたものの寒河江時氏以外の一族61人を失うという壊滅的な打撃を受けて北朝へ降伏。時氏の子元時を鎌倉に人質として出し、所領は縮小されたものの安堵された。これ以降、東国における南朝側の組織的な抵抗は収束し、慈恩寺も一時の平穏を得ることになる。しかし、慈恩寺を庇護する寒河江氏の勢力縮小は、寺社経営を宗徒による自活へと舵を切らせる。
康暦2年/天授6年(1380年)、伊達氏が長井氏領置賜に侵攻し、鎌倉公方が近隣豪族へ救援を命令して退却させることに成功する。しかし伊達氏の侵攻は執拗に続き、至徳2年/元中2年(1385年)に長井氏は本拠地置賜郡を失い衰退してしまう。伊達氏と長井氏はともに北朝側であり、伊達氏は国人領主として力を蓄え、長井氏は室町幕府の要職であった。伊達氏のこの行動は幕府権力からの強い独立志向を感じさせる。この伊達氏の侵攻により、寒河江氏は伊達氏・最上氏と接することになり、双方の内訌や争いに度々巻き込まれることになる。応永2年(1395年)、慈恩寺衆徒が弥勒堂の神輿を箕輪郷(寒河江市箕輪)に振置きして、箕輪郷を寺領としたという。応永6年(1399年)、稲村・篠川に鎌倉方の御所が開設されると、伊達・大崎氏が反旗を翻し幕府(京都)側がこれを支持したため、京都、鎌倉の代理戦争が勃発する。寒河江氏はこの時、幼少期を人質として鎌倉で過ごした寒河江元時の時代であったので鎌倉側に付いたと思われ、応永9年(1401年)には伊達氏苅田城攻めに参加している(『戸沢家譜』)。結局、永享の乱の終結により稲村・篠川御所が廃止される1440年頃まで小規模な戦乱状態であったと考えられる。