もが海 | mmfjtoのブログ  ~なぜなら ぼくは、どうしようもないくらい汚れ腐ってますから~

もが海

山形新聞の記事から参照です。

昭和50年10月30日 水曜日 夕刊の一面にある記事参照

 

 

 

 

 

もがうみ

僧侶

ソンガ

ソワカ

 

ゴウダマシッダーッダの会得

得徳目は何でしょう

 

人の暮しを福祉にする事

 

 

ウイキペディア参照以下

 

 

『朝廷が寺や僧の行動を規定し、民衆へ仏教を直接布教することを禁止していた当時、その禁を破って行基集団を形成し、畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く人々に仏教を説いた。併せて困窮者の救済や社会事業を指導した。布施屋9所、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を各地に整備した。』

 

 

 

 

 

行基 - Wikipedia







行基(ぎょうき/ぎょうぎ、天智天皇7年〈668年〉 - 天平21年2月2日〈749年2月23日〉[1])は、飛鳥時代から奈良時代にかけて活動した日本の仏教僧。朝廷が寺や僧の行動を規定し、民衆へ仏教を直接布教することを禁止していた当時、その禁を破って行基集団を形成し、畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず広く人々に仏教を説いた。併せて困窮者の救済や社会事業を指導した。布施屋9所、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所を各地に整備した。

当初、朝廷から度々弾圧や禁圧を受けたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。







天平21年(749年)に弟子・真成が、行基の骨をおさめた銅製骨臓器瓶に師の伝記を刻んだ『大僧上舎利瓶記』に、「俗性は高志氏にして、その考(ちち)の諱は才智、字は知法君の長子なり。もと百済国の王子・王爾のすえなり。その妣(はは)は、蜂田氏にして、諱は古爾比売、河内国大鳥郡の蜂田首虎身の長女なり」とあり、父母の出自、名前が記されており[2]、中国系帰化人(百済に帰化していた中国人)の氏族である[3][4][5]。一方、百済後裔というのは、系譜を飾るための装飾であって、『日本現報善悪霊異記』にあるように越後国頸城郡出身とする意見もある[6]。

天智天皇7年(668年)、河内国大鳥郡(天平宝字元年(757年)に和泉国へ分立、現在の大阪府堺市西区家原寺町)で父・高志才智、母・蜂田古爾比売の長子として生まれる[1]。『大僧正舎利瓶記』に「飛鳥の朝の壬午の歳に至り、出家」とあり[7]、天武天皇11年(682年)に[1]15歳で大官大寺で[8]、得度を受け出家し、法行と称した[9]。持統天皇5年(691年)、24歳で戒師の高宮寺徳光禅師のもと受戒する。飛鳥寺、次に薬師寺で法相宗を主として教学を学び[10]名を行基と改めた[9]。教えを受けたとされる道昭は、入唐して玄奘の教えを受けたことで有名であり、それとともに井戸を掘り、渡しや港に船を備え、橋を架けて、後の行基の事業への影響を指摘されている[11]。ただし、行基が道昭に師事したという伝承もあるが、行基の遺骨を納めた瓶『舎利瓶記』、『日本現報善悪霊異記』には記されておらず、疑問視する意見もある[12]。大宝4年(704年)、生家を家原寺に改め、母と大和国の佐紀堂で暮らす[13]。40歳で生駒山の草野仙房に母親と移り修行する。43歳で母を亡くし3年間喪に服す。

知識結とも呼ばれる新しい形の僧俗混合の宗教集団を形成して、近畿地方を中心に貧民救済や治水・架橋などの社会事業に活動した[14]。行基が開基したとされる寺院は、『続日本紀』で40余処、興融寺の鎌倉時代中期の顕彰碑では49院といわれる多くが不明であり、小規模な修行と布教の為の拠点だったと見られる[15]。だが、養老元年(717年)4月23日、詔をもって「小僧の行基と弟子たちが、道路に乱れ出てみだりに罪福を説いて、家々を説教して回り、偽りの聖の道と称して人民を妖惑している」と、これら新しいタイプの宗教集団を寺の外での活動を禁じた僧尼令に違反するとされ、糾弾されて弾圧を受けた[16][14]。行基の活動と国家からの弾圧に関しては、奈良時代において具体的な僧尼令違反を理由に処分されたのは行基のみである。

その後も、天平2年(730年)9月、平城京の東の丘陵(天地院と推定)で妖言を吐き、数千人から多い時には1万人を集めて説教し、民衆を惑わしているとされた(『続日本紀』)[17]。しかし、行基とその集団の活動が大きくなっていき、指導により墾田開発や社会事業が進展したこと、豪族や民衆らを中心とした宗教団体の拡大を抑えきれなかったこと、行基らの活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないと判断された。朝廷は天平3年(731年)に弾圧を緩め、翌年には河内国の狭山池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した。天平8年(736年)に、インド出身の僧・菩提僊那がチャンパ王国出身の僧・仏哲、唐の僧・道璿とともに来日した。彼らは九州の大宰府に赴き、行基に迎えられた後に平城京に入って大安寺に住し、時服を与えられている。天平10年(738年)に朝廷より「行基大徳」の諡号が授けられた(日本で最初の律令法典『大宝律令』の注釈書などに記されている)。

三世一身法が施行されると灌漑事業などをはじめ、多くの行基の事業は権力側にとっても好ましいものとなる。やがて聖武天皇の方から接近して、行基は740年(天平12年)から聖武天皇に依頼され東大寺盧舎那仏像(大仏)建立に協力する。天平13年(741年)3月に聖武天皇が恭仁京郊外の泉橋院で行基と会見し、同15年(743年)東大寺の大仏像造営の勧進に起用されている。勧進の効果は大きく、天平17年(745年)に朝廷より仏教界における最高位である「大僧正」の位を日本で最初に贈られた(『続日本紀』)。「行基転向論」として民衆のため活動した行基が朝廷側の僧侶になったとする説があるが、既に権力側の政策からも許容されるものになっており、さらに行基の民衆に対する影響力を利用したと考えられている。また、行基に対して好意的な聖武天皇と否定的な光明皇后の間にずれがあり、それがその後の政治対立にも影響を与えたとする説もある[18]。

大仏造営中の天平21年(749年)、喜光寺(菅原寺)で81歳で入滅。現在の奈良県生駒市にある往生院で火葬後、竹林寺に遺骨が納められ、多宝塔を建て墓所とした[1]。また、喜光寺から往生院までの道則を行基の弟子が彼の輿をかついで運搬したことから、往生院周辺の墓地地帯は別名「輿山」とも呼ばれている。また、朝廷より菩薩の諡号を授けられ、「行基菩薩」と言われる。その時代から行基は「文殊菩薩の化身」とも言われている。

行基が近畿地方に建立した寺(四十九院)の一つ、長岡院の候補とされる菅原遺跡(奈良市)では奈良時代の日本では類例のない円形構造の建物跡と回廊跡と塀跡が発掘された。柱穴15カ所による直径は約15メートルで円堂(他では八角堂)や多宝塔と推定し、元興寺文化財研究所は、行基を供養した建物跡の可能性があるとしている[19]。

行基が迎えた菩提僊那は後の天平勝宝4年(752年)、聖武上皇の命により、東大寺大仏開眼供養の導師を勤めた。

行基没後の宗教集団には宝亀4年(773年)に国家の援助を与えるとともに、民衆への布教を禁じ規制を強めている[20]。その後、東大寺大仏殿再興の勧進に重源や公慶が語るが、仏教団体や教理などの表面から消えていき、民衆の伝承や寺院の開基伝承などに伝えられることになる[21]。